第3話 悔い
墓地の入り口付近にある長椅子に腰かけると、男性はゆっくりと口を開いた。
「家内が死んだのは今からもう三十年ほど前のことになる。私が当時勤めていたのは小さい会社でね。
残業もなくて、さっきも話したように子どもたちと一緒になってゲームに熱中することができるほどの余裕があるのがウリだった」
男性は「要するに然程儲かってはいなかったのさ」と続けて笑った。
「……ところがある日、突然会社の命運をかけた一大プロジェクトが始まってしまった。
運の悪いことにその時の私は中堅どころでな。社内全てにある程度理解が及んでいた上に、年齢的な面から見ても、まだそこそこの体力があるということで責任者を押し付けられてしまった」
「抜擢ではなくて、ですか?」
「見解の相違というやつだな。まあ一般的に見れば、君の言う通り大抜擢だったのだろう。
……それからは一変して大忙しだった。
毎日日が昇る前に出社して、帰るのはいつも午前様。酷い時は一週間以上も会社に泊まり込んだこともあった。
当然、家族とはすれ違いどころか会うことすらできなくなっていった」
そこで言葉を区切ると、男性は先ほどまで相対していた墓石の方を振り返った。
「そんな仕事と時間に追われる生活を続けていたある日のことだ、あいつが、家内が倒れたと連絡があったのは。
今でも「お父さん、すぐに病院まで来て!」と電話口で叫んでいた娘の声をはっきりと思い出すことができる。
そして今でも思う……。
どうして娘に従ってすぐに病院へと駆けつけてやらなかったのか、と」
無意識なのか、男性の両拳はきつく握り締められて真っ白になっていた。
「だが、仕事に追われてまともな判断ができなくなっていた私は……、いや、これは言い訳に過ぎないな。
とにかく私は娘に「できる限り急いで病院に向かう」とだけ言って電話を切った。そして仕事を一区切りつけて病院に辿り着いたのは日付も変わった頃だった。
病室で私を待っていたのは……、怒りと憎しみの眼でこちらを見る子どもたちと、物言わなくなったあいつだった」
過去を語る男性の口調は穏やかだったものの、その声音には様々な感情が渦巻いているように感じられた。
「それから葬式までの数日間は記憶があやふやでな、現実感がまるでなかった。ただ私は一度も涙を見せなかったようだ。
子どもたちにはそれが酷く癇に障ったらしい。葬式が終わった途端家に寄りつかなくなったしまった。幸い親族たちが後見となってくれたようで、今ではそれぞれ家族を持っているそうだ。
私の方はあいつが死んだことを忘れるように仕事にのめり込んだ。お陰でプロジェクトは大成功となったが、今度は私がぶっ倒れてしまった。
結局それを機に会社は辞めてしまったよ。以来悠々自適の一人暮らしという訳だ」
自嘲気味に笑うその顔は、とてもではないが毎日を楽しんでいるようには見えなかった。
「辛い話をさせてしまいましたね……」
「どこにでも転がっているような話だ。君が気に病む必要はない」
確かに物語の中などではありがちな話だが、身をもって体験するとなるとどれほどの苦痛であろうか。
男性の言葉には深い諦観の念が含まれているようだった。
「少し疲れた。私はもうしばらくここにいることにするよ」
そう言って目を瞑ってしまう。
その姿は今にも消えてしまいそうな儚さを感じさせられたが、死霊術師としての嗅覚は死の匂いを嗅ぎつけることはなかった。
過去の話をしたことで張り詰めていた何かが緩んでしまったのだろう、耳を欹ててみると微かな寝息が聞こえてきた。
男性の容態を確認すると、踵を返して再び墓地の奥まった一角へと向かう。
墓石の前に立つと、やはり管理が行き届いていることが良く分かった。
目立った汚れはどこにも見えず、供えられた花々は瑞々しさを保っている。恐らく彼が毎日のようにやって来ては手入れをしているのだろう。
「こんにちは。よろしければ少しお話をしませんか?」
墓石に向かって声をかける。
何も起こらない。
そのまま待つ。
やはり変化は見られない。
これはダメかな、と諦めかけた時、墓石の前にゆっくりと白い靄のように女性が浮かび上がった。
少し幼さを残した顔立ちから、生前は綺麗というよりも可愛らしい人であったのだろうと思う。
しかし今、その表情は困惑に満ちていた。
見知らぬ相手から突然呼びかけられたのだから、それも仕方のないことだろう。
しかもその相手というのが、死者と会話ができるというとびっきりの異能者であるのだから警戒して当然だ。
むしろ警戒しない場合、危機意識に問題があるのかと疑われてしまうレベルである。
その点、女性はまともな危機意識を持っていたといえる。
まあ、その彼女自身、所謂幽霊と呼ばれる特殊な存在ではあったのだが。
「出てきてくれてありがとうございます。始めまして、私は旅の死霊術師です」
「……はじめまして」
警戒はしながらも対話には応じてくれるようだ。
そして『死霊術師』と名乗っても特に驚いたり怖がったりする様子はない。
流石は彼の連れ合いだったことはある、と妙なことで感心してしまっていた。
「すでにご存じだとは思いますが、あなたの旦那さんから大体の話は伺いました。
結論から言いましょう。彼の悔恨の念だけではあなたをここに縛り付けることはできません。
……あなたは一体どんな心残りがあるのですか?」
男性は後悔をしていたが、同時に諦めてもいた。死者を世界に繋ぎ止める楔となるには弱過ぎるのだ。
つまりは死者である彼女自身の意志で留まっているということになる。
「分からないの……」
「分からない?」
尋ね返すと女性はコクリと頷いた。
「あの人に何を伝えればいいのか……、分からない……」
存在するための理由があやふやになってしまっている。
考えてみれば三十年もの長い間、こうしてここにいたのだ、存在理由が擦り切れ始めていてもおかしくはない。
せめて彼女の声を聞くことができる者が訪れていればと思うが、それは今更というものだろう。
肉体という入れ物がない今、女性がこの世界に存在していられるのはその理由があったからこそだ。
それが希薄になっているということは、即ち彼女自身の存在が希薄になっていることを意味する。
そしてやがては『魂の休息所』へと向かった者たちとは異なり、生まれ変わることも何もできない真の消滅を迎えることになる。
これは予想していたよりも危険な状態だ。一刻も早く女性を『魂の休息所』へと送らなくてはいけない。
「旦那さんを、恨んでいますか?」
質問に女性は首を横に振る。
「旦那さんを、憎んでいますか?」
再び首は横に振られた。
「それでは……、旦那さんを愛していますか?」
コクリ。女性の首は力強く縦に振られていた。これならば何とかできるかもしれない。
「もう少しだけ待っていて下さい。すぐに旦那さんを連れてきます。そうしたら、ちゃんとお話しましょう」
それだけ告げると、困惑の色を濃くする女性を残して墓地の入口へと向かうのだった。
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