第22話つぎのひ

 結局、ソニアの目が覚めたのは夜遅くになってからだった。


 とはいえ精神の方はともかくも肉体的にはまだまだ、体力が戻ってきてはいないようで、ベッドから起きずに天井を眺めていた。

 ランプも点けずカーテンも閉じたまま、明かりのない中では勿論何も見えなかったけれど、見えたところで日焼けした天井に溜息を吐くばかりであっただろうから、別に問題はなかった。


 寧ろ、見えないことに慣れておかなくてはならないだろうと、ソニアは冷静に考えている。左眼が今後見える可能性は、恐らく無いだろう――片方だけの視界というものは想像する以上に、日常生活の足枷となる筈。

 こうして寝ながら暗闇を眺めているだけでも、見える右眼と見えぬ左眼とでは違いがあるように、立ったり歩いているときにはきっと、全く違うようになる。慣れるまでは歩くことにさえ支障を来すだろう。


 せめて見え方くらいは練習し、慣れておかなくてはならない。

 慣れればどうにでもなる。不便にヒトは慣れるものだ、便利に甘えるように。


 


 最愛の父親が消えてから、希望を捨てないでソニアは生きてきた。だからこそ七年もの間死亡証明書にサインすることを拒んできたのだし、その結果としてミザレット家は苦境に立たされている訳だけれども。

 とにかく、生きていると信じていた。信じてはいた、けれど――徐々に冷えていく心に、ソニアは気が付いていた。

 お父様の匂いが薄れていくように、誰もいない書斎に慣れていく自分。家計簿を付けるために使い始めてからは、そこはもう『私の』書斎だとソニアの中で分類されていた。何気ないときにその事実に気付いても、罪悪感を抱かなくなっていた。


 自分の中から、お父様が消えていく。

 希望の火を絶やさないことはとても難しいのだと、幼いソニアは理解していた。ヒトは生きていかなくてはならない、叶うかどうか解らない希望に浸るよりも、明日のパンを得る方法を考え続けなくてはならないのだ。

 やがて、ソニアは慣れた。きっと心は諦めていた。


 それなのに。


「…………お父様」


 氾濫した川のように勢い良く流れる事態について行くのに必死で、深く考える余裕の無い一日だったけれど、ノイジー。

 あの子は、本当に?

 それともでまかせ?

 名乗ったソニアに協力させるために、その名前を使っただけ?


 それは無い、何故なら彼女は強い。ソニアの協力が欲しいのならもっと幾らでも暴力的に直接的に振る舞えるし、そうしない性格ではない。

 それに協力を求める価値がソニアにあると、そう判断するためにはやはり、『ミザレット』への知識が必要になる。貴族であり、実権を未熟な少女が握っているという情報を、果たしてノイジーが知っているだろうか?


 詰まり現在の時点でソニアに解るのは、『ノイジーはミザレット家の名前を知っていた』ことと、『それが少なくとも敵対的ではないと理解していた』ということ。

 加えて、彼女はソニアの名前までは知らなかった。ミザレット、という言葉だけを、その存在だけを誰かが教えたということになる。誰が? 妖精郷にまでミザレット家の名前は響き渡っていたか?


 答えは簡単だ。知っている誰かが教えた――誰かが教えに行ったのだ。


 どうやって?

 『扉』を使ってに決まっている。


 『扉』とは?

 ……ミザレット家の地下にある。お父様が消える前、最後に目撃された場所。


 答えは明白だった。少なくとも理論的に最も確率が高いのは、間違いなく『お父様は妖精郷に消えた』ということだ。ノイジーが事実を語っているということだ。

 あの子が妹だということも、納得できた――どうしてかは解らないけれど、解るのだ、家族が家族を気付くことが出来るように。


 だから、解らないのは理由だ。

 お父様はどうして妖精郷に?

 そして、どうして――ノイジーを。


 解らない。七年間同じ世界で過ごしたノイジーでさえ解らないのだから、ソニアには解るわけも無い。いや、そもそも私は果たして、お父様のことをどのくらい解っていられたのかしら?


「……………………」


 沈黙、そして静寂。

 ミセス・クラリネットは勿論ノイジーも、そして街全体が眠りに就いているのだろう。夜は痛い程の沈黙に包まれていた。

 心細くなる筈の夜にしかし、ソニアの耳には音が残っている――


 昼間なら馬車から聞く通りの雑踏のように、意味も成さずただ聞こえ続けるだけのそれは、夜においては大きく力を増していた。

 そもそも周囲に音が無いということもあるだろうけれど。叫びは明らかにその声量を増している、まるで、声の素に近付いているかのように。


 声の源泉、それは暗く静かな夜の世界?

 それとも――


「…………、わよね…………」


 それは間違いない。

 あの時影は、必死だった。目前の脅威たるノイジーから逃れようと、生き延びようと、死なないようにと、懸命だった。

 だからあの場での最善を狙ったはずだ。最速で最高の効果を得られるように、出来る限りのことをしたはずなのだ。それがあの、最後の襲撃だったとしたら。間違いなくそれはソニアにとって致命的であるはずだ。


 けれどソニアは生きている。片目を潰され顔の半分に大火傷を負ったけれど、けして死んではいない。

 だとしたら、ソニアは生かされたということだ。影はソニアの生存を選択し、それが自身の利益であると判断したということになる。それは何? 生存本能に囚われた怪物が、敵の一人を生かしておく理由とは何?


「…………っ!」


 急激に鳴り響いたのは、断末魔のような呪詛。

 同時に頭の奥から刺すような、強い痛みがソニアの脳を揺らす。

 音と痛みによってソニアの思考は粉々に打ち砕かれ。届きそうだった結論が霧のように消えていき。


 ソニアは再び、深い眠りへと落ちていった。









「……では、行ってくるわね」


 次の日の朝。

 紅茶とパン、ベーコンの切れ端で朝食を済ませて身支度を調えたソニアは、ミセス・クラリネットに宣言した。


 ハイウエストのシュミーズドレスに、黒いジャケット。背中に赤いリボンをあしらったこのジャケットは、昨日のうちにミセス・クラリネットが見つけ出した母の遺品だった。顔も声も覚えていない母だが、体型に大差が無くて全く有り難い。

 勿論ソニアはこれから成長するし、母もきっと成長したのだろうから、たまたま合う時期があったというだけだろうけれど。それにしても、多少時代遅れとはいえこれだけ服を残してくれたことは非常に有り難い。それに帽子まで! これからのことを考えると出費は抑える方が良い。


「ノイジー、準備した?」

「まあね」

 そういうノイジーは、シュミーズの上から同じようにジャケットを羽織ってはいたが――それはどう見ても男性ものだった。恐らく下男のお古か何かだろう、乗馬用のジャケットだ。「似合うでしょ」


 ソニアは無言で、彼女の着替えを担当したミセス・クラリネットを見た。

 ミセス・クラリネットはひどく疲れた顔で軽く首を振り、それから、目をそらしてしまった。あぁ、苦労したのね貴女も。ソニアは溜息を吐き、ノイジーの服装をもう一度じっくりと上から下まで観察して、もう一度溜息を吐いた。


「良い、ノイジー。それは男性向けよ、紳士が着るものだわ。貴女は淑女なんだから、淑女向けのものを着なくては駄目よ」

「アンタがアタシを何と思おうと勝手だけどさ。アタシはいつだって、アタシ向けのものを着るよ。大体そのドレスっていうの、全然動きにくいンだから! 少なくともアタシ向きじゃあないね」


 それ以上何か言おうとして、そのどれもがけしてノイジーに有効打を与えられないことに気付き、ソニアは口をつぐんだ。

 良いわ、とソニアは無理矢理に納得することにした。

 少なくともスカートは履いているのだもの、それにあのジャケットだって、ちょっと四角くてゴツゴツしていて、革製であるだけだわ。もしかしたら今後、こういう服が流行らないとも限らないじゃない? これまでに流行っていないのならいつか、流行る可能性は残されているわ。


「……良いわ。馬車をあまり待たせてもいけないし、それで行きましょう」

「向こうが寄越したものなんだから、精々待たせれば良いのに。話聞きたいならアイツらがアタシたちのとこに来るべきじゃない?」

「そういうものじゃないと言ったでしょう、ノイジー」


 路地馬車を呼ぶ手間と費用を考えたら、貴族院からの迎えは願ったり叶ったりだ。恐らくミスター・ノーツが報告した際に根回ししたのだろうけれど、実に有り難い。

 とはいえ、その根回しがどの程度かは疑問だった。ガルネルシア候から届いた書状には極めて簡潔に、『ソニア・ミザレットの資質に関する質疑応答の機会』を設けた旨だけが記載されていた。その機会が好意的な場であるとはどうしても、想像しがたい。


「いってらっしゃいませ、御嬢様。お昼のご準備をしておきますね」

「それよりも、荷物を纏めた方が良いかもしれないわ。貴女も私もね」

「は? 何で? どっか行くの?」

「可能性は高いわ」


 貴族の社会は厳しいのだ。権威と面子が絶対であり、権威が落ちた相手には面子を取り上げるのが通例である。

 その内最も解りやすく相手の格を下げる方法はやはり――。ソニアが想像する通りの展開ならばきっと、ミザレット家は格下げに合うだろう。そうなったら残りの【十三階段】は、ソニアから嬉々としてこの家と土地を寄付させる。それと、金塊。口座に預けられた黄金は、金銀細工師協会に没収されるのだろう。


「はあ? 何でよ、アンタはあの影ぶっ飛ばしたンだから、褒められるべきじゃないの?」

「そういうものじゃないのよ、ノイジー」

 ソニアは軽く、包帯の上から鈍く痛む肌を撫でた。「私に傷がついた、それだけで価値が下がるのよ、貴族というものはね」

「馬鹿馬鹿しい」

「そんなことを言わないの。そういう不安定な立場だからこそ、特権も多いのだから」


 今後はその見込みもなくなるだろう――『扉』はノイジーが鍵を掛けているから、悪用されることはないと思うけれど。

 ミセス・クラリネットは、あの目つきを見る限りソニアについてくるつもりのようだ。だとしたら、ノイジーを含めた三人で生き抜く術を、どうにか考え出さなくてはならない。


「………………」


 未来を憂慮するソニアは、思考に没頭するからこそそれを見落とした。

 傍らでノイジーが、苛々と何かを考えているのに、全く気付けなかったのだ。

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