第21話三者三様

「はあぁぁぁぁ、やぁぁっと帰ったねアイツ!」

 見送りに出たミセス・クラリネットが戻ってきたのを確認して、ノイジーは急速に脱力するとソファーに倒れ込んだ。「全く、長居しすぎだよ。アタシがあんなに、早く帰れって言ってたのに!」

「そんな失礼なことを言っていたの……機嫌を悪くしていなかった?」

「御嬢様を心配しておいででしたよ。何度かその子に話し掛けておられましたが、ノイジーは無視しておりました」

「…………」


 発言が失礼どころの話では無かった。

 軽い目眩を感じてソニアは額を押さえ――そのまま脱力してソファーに座り込んでしまう。


「あら……?」

「やれやれ。やっぱ、早く帰ってもらって正解だったね」

 姉の墜落を器用に避けてあぐらを組みながら、ノイジーがケラケラと笑う。「思った以上に弱ってるじゃん、アンタ」

「お、御嬢様!」

「心配しなくて良いよお節介、単純に、ってだけだから」

「あてられた? 何にです」

。あの影も、影が起こした連中も、こっちとは違う空気を出してるからね。あんまり間近でうろつくと、まあ、こうなるってわけ」

「……そうなのかどうなのかは解らないけれど……確かに少し、疲れたわ。ミセス・クラリネット、悪いけれど説明はその子から、聞いて頂戴……」


 私は少し休むわ。

 そう言う自分の感覚が、どうにも遠い。何と言えば良いのか──熱に浮かされるような感触の浮遊と理性の混乱、そして虚脱感。アップルブランデーを飲み過ぎたらもしかして、こんな感じになるのかしら。

 思考が散逸していくのを感じ、ソニアは背もたれに体重を預ける。淑女として恥ずかしい振る舞いではあるけれど、己を律する活力が今のソニアには決定的に不足していた。


「……かしこまりました、御嬢様。でしたらどうぞ、御自分のベッドでお休みを……」

「運んであげようか、お姉さま?」

「おねえ……?」

 ミセス・クラリネットは不思議そうに首を傾げたけれど、それよりもノイジーの発する臭いに我慢できなかったようだ。「お待ちなさい、その不潔な状態で御嬢様に触ることは許しません! 先ずはお風呂に入りなさい」

「げ。やだよ、あの泡不味いじゃん」

「だから、食べ物ではありませんっ!」

「アタシは食べ物が必要だと思うね、新鮮なやつがさ」

「必要なのは身体を洗うことです、間違いなく。貴女の臭いを由緒あるミザレット家の食卓に上げるのだけは、絶対に、私が許しません」

「うーん、まあ、確かに臭いは臭いけど」

「……大人しく小綺麗になったら、パンを焼いて上げますよ」

「チキンは?」

「ベーコンを切ります、何切れかは貴女の態度次第ですよおちびちゃん」


 不名誉な呼び名にノイジーは喚いたけれど、ミセス・クラリネットが「一枚減」と呟いたことで静かになった。

 漸くミセス・クラリネットもノイジーの扱いに慣れたようだわ、とソニアは鈍い感慨に包まれていた。当のノイジーがミザレットのやり方に慣れてくれるかどうかは、手の届かない棚の奥に放り込んだ上で。


 そもそも。

 ソニアの心に暗雲が過る──そもそも、が消えてなくなる可能性の方が高いわけだけれど。


 これからどうするか、考える意識が徐々に混濁していく。

 せめてもの抵抗のつもりか、ドスドスと荒々しい足音を響かせて出ていくノイジーと、諦観に満ちたミセス・クラリネットの足取りをぼんやりと聞きながら、ソニアの体力は限界を迎えた。









「…………」


 馬車に揺られながら、ミスター・ノーツ、ヨルバ・ノーツは沈黙していた。


 凛、と唇を引き結び虚空を眺める様は、人懐こい笑みを浮かべる普段とはまるで印象が異なり、さながら聖人の石膏像のようであった。

 対外的な接し方として厳格な仮面を着ける者と、道化を演じる者がいる。ソニアのような貴族は前者であり、そしてヨルバ・ノーツは後者である。故にこそこうして、真剣さを全面に押し出すのはまれであった。


 彼は理解していたのだ。非常に困難な事態であると──それも、


 どうする?

 どうすれば良い?

 何が出来る?


「あぁいや、違うか」


 あの少女、ソニア・ミザレットの妹が侮蔑の視線と共に告げた言葉。それを思い出して、ヨルバ・ノーツはニヤリと笑った。

 自分に対してあのように、不躾な言葉と視線を投げつける者は初めてだった──親しい人間など居ないし、ミス・ミザレットは立場上そんな真似はしない。

 珍しい経験だからこそ、ヨルバ・ノーツの心にその言葉は真っ直ぐ届いた。届いて、感心させたのだ。



 自分がしたいことは守ること──自分を、自分の財を、血族を。

 家族を。


 余裕と気品、それに悪戯心を混ぜ合わせたような笑顔で、ヨルバ・ノーツは何事かを画策し始めた。

 そう――いつものように。









「…………何?」


 手元。

 観念したように大人しくしているノイジーの長い、長い髪を見下ろしていたミセス・クラリネットは慌てて粉末石鹸を手に取った。

 貴重な大アザラシの脂を必要とする固形石鹸と違って、最新式のこの粉末は、香木の灰と二枚渦貝の破片を組み合わせて作るため、比較的安価だ。その代償として確かに万が一口に入ると非常に辛い目に合うが、値段が安いという利点は他の何より優先される。


 美しい金木犀の波に灰色の泡を絡ませながら、ミセス・クラリネットはため息を吐いた。何を言うべきか、自分自身に課した檻の範囲を慎重に考えた結果、吐き出せるのはそれだけだったのだ。


 だが勿論、手元の小鬼はそんな機微を気にするような優しい子供ではない。


「アンタには初めてだから言っておくけどさ、アタシは笑われるのと同じくらい、言葉を飲み込まれるのが嫌いだから」

 目を閉じたまま、泡を上手くかわしてノイジーは口を開いた。「言いたいことがあるなら言いなよ、じゃないと噛み付くよ? ベーコンが何枚減ろうとね」


 ミセス・クラリネットと言えども流石に苛ついた──彼女は自分なりに最善を意識している、それを自分勝手な好き嫌いで非難されるのは、ノイジーの言葉を借りるなら『嫌い』だった。


「なら言わせてもらいますけれどね、おちびちゃん。今のところ私は、昨日の出来事を何一つ知らないままなんですよ?」

「そりゃあお気の毒。ま、ソニアも寝てたしね。アタシがアンタに説明する義理は無いし」

「可愛くない子供ですね」

「子供だって、可愛く見せる相手くらい選ぶってことだよ」

「それが『お姉様』ですか」


 話しながら、座るノイジーの床につくほどの長い毛先を持ち上げながら、ミセス・クラリネットは丁寧に洗う。

 漂う腐臭と、それよりも不快な臭いに顔をしかめながら、それでもこれを今のソファーに染み込ませるよりはと言い聞かせて、慎重に念入りに。


「その辺の事情からも、アンタは置いてけぼりってわけだね」

 ノイジーはケラケラと笑う。「それとも、もしかして聞いたのに忘れてるンじゃない? アンタも見かけより年寄りなんだからさ」

「ベーコンより先に貴女の耳を切り裂いてあげましょうか?」

「はっ、今までで一番上等な冗談だね。やってみなよ、やれるのならさ」

「それをしたら……?」


 静かな声に、静かな声が帰ってくる。

 この瞬間だけは、二人の意識は繋がっていた――ソニア・ミザレットという存在に対する評価という面では二人とも、同じ印象を抱いているのだった。


はそういうのから切り離されてるよ。周りの誰が死んでも、上手に処理してみせるタイプだね。哀しそうな顔を作るところまで、完璧にさ」


 ノイジーの言葉は、流石にソニアを姉と呼ぶだけのことはあった。

 ミセス・クラリネットも同じように思っていた――ソニアは良い意味でも悪い意味でも完璧に振る舞うだろう、同じ悲劇に出会った少女のように悲鳴を上げて嘆き悲しみ、涙を浮かべてお悔やみを言いながら、書類にサインする。


 ソニア・ミザレットの人間的な悲しみは、多分あの日に死に絶えたのだ。

 最愛の父の死亡証明書にサインをしたその時に、ソニア・ミザレットの温かい少女時代もまた、共に埋葬されたのだろう。


「ま、気持ちは解らないでも無いけどさ。アイツは誰かに甘えるの下手そうだからね、一人で何でもしなくちゃいけないと思う切っ掛けには、ありがちなんじゃないのかな」

 無邪気な、見た目相応の子供のような笑い声を上げながら、ノイジーはミセス・クラリネットに尋ねる。「アンタは甘やかしてあげてるの?」

「私には、御嬢様を立派な淑女として育て上げる義務があります。ミザレット家を背負うのは、あの方なのですからね」

「なるほどね。アンタに育てられたにしちゃあ素直に育った方かもしれないね、それならさ」

「貴女は素直には育たなかったようですね」

「はは、まぁパパはそういうの、興味なかったみたいだしね。アタシを生ませたのだって、必要だったからだと思うし」

 何てことの無いように、ノイジーは告げる。「パパの愛情も、アイツで使い切ったのかもね……わぷっ!」


 お湯を掛けたタイミングだったので、ノイジーは盛大にむせた。

 咳き込む彼女を手早く立たせ、身体を洗っていく。細く薄い身体には筋肉の気配は無く、ソニアを担いで運ぶなど出来るようには見えない。


 詰まりは、見た目通りの生き物ではないということ。あの『扉』――そうでなければ良いと祈ってはいたけれど、やはり『向こう側』に繋がっているのだろう。出てきたモノはいずれもヒトとは違う生き物だった、あの影といい、この少女といい。


 それなのにこの少女は、ミセス・クラリネットの大切な主人を『お姉様』と呼んだし、ソニアもそれを咎めなかった。

 それどころか昼間の振る舞いからして、彼女もまたノイジーのことを家族の一員と感じているようだった。びしょ濡れのノイジーを拭くソニアの目には、娘にそうする父親と同じ慈しみの光が瞬いていた。妹だと、魂で認めているかのように。


「……何があったのか詳しく話しなさい、ノイジー」

 身体にハーブの軟膏を塗りつけながら、ミセス・クラリネットはノイジーの髪をロープのように絞った。「勿論しっかり身体を拭いて、髪を乾かして、紅茶を淹れてからですがね」


 それが、ミザレット家のルールです。

 そう言ったミセス・クラリネットに、ノイジーは勢い良く舌を突き出して見せた。少女の悪戯っ子じみた態度から最初ほどの刺々しさを感じないことに、女家令は勿論気が付いていたが、それが良いことか悪いことか、解らなかった。

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