第20話戻らない変化

 暗い道を歩く自分の足を見下ろして、ソニアは首を傾げる。

 どうして裸足なのだろう――それに何故だか、見慣れた自分の足よりも随分と小さいように見えてしまう。まるで、まるで……、


 


『当然だろう――キミの足なんだから』


 響く、淡々とした声。

 感情の起伏が全く感じられない、ただ決められた文を読み上げているだけのような、無機質な声。

 私の……? 男とも女ともとれない不可思議な声に、俯いて歩いたままソニアは短く答えた。


『そうだ――キミは子供だ』


 声に、ソニアは僅かな憤りとそれを上回る、強い不安を感じ取った。

 何を言って……私は、だって……。


『子供だろう――それとも――大人になったのか――


 ビクリ、それこそ叱られた子供のように、ソニアの足が止まる。

 嘲るような内容を無感情に読み上げる声。一本調子だからこそ赤いカーペットに零した紅茶のように、音も無く、違和感も無く染み込んでいく声の、けれどその言葉だけは無視できない。


 だって。


 ソニア・ミザレットは。


 紙切れ一枚で。



 え、と。

 ソニアの心に穴が開く――動揺し揺れる心に、小さな小さな空白が、ぽつり。針で刺したかのように、一点、生まれた。


『忘れれば良い――たかが、紙切れ一枚だろう』


 のろのろと、ソニアは顔を上げる。

 ぼやけ、くすむ視界に映るのは見覚えのある、流麗な文字の並んだ羊皮紙。誰もが従わなくてはならない、決まり事の紙切れ。


『そら――このように』


 その紙の端に、赤が点る。


 火がついたのだと気付いた時にはもう、紙は半分以上が灰になって崩れ落ちている。もう、ほとんど読むことは出来ないだろう。

 効果も、無くなっただろうか。

 読めない書類に意味は無い。意味が無ければ効力も、無い。


 消えるのだろうか、無くなるのだろうか。

 ソニアが、父を殺した事実までも。


『キミは――子供だ――』


 そう、かもしれない。

 紙が無くなれば、サインした事実を忘れたら。

 ソニア・ミザレットは大人にならなくて済む――子供のままで、お父様の庇護の下で過ごしていられるのではないか。


 心の空白がどんどん大きくなっていく。

 それを見計らうように。



 燃えた紙切れの向こう側から、黄金の瞳がソニアの左眼に――に、飛び込んだ。









「…………ぁ」


 ぼんやりと、意識に火が点る。

 マッチ一本程度のか細く、ソニア自身が吐いた息程度で容易く吹き消されそうな頼りない、ちっぽけな火ではあったが――傍に控えていたのは注意深さでは聖都でも五指に入るような、最高の女家令であった。


「御嬢様!」


 ――あぁ、ミセス・クラリネット。もしかして私ったら、寝過ごしたかしら?

 そんな言葉が頭の中にふわりと浮かんだが、言葉になることは無かった。意識が霧に迷ったように出口を見失い、身体の方にも迎えに行く気力が欠落していた。


「ご無理をなさらないで下さい、御嬢様……昨夜の件でまだ、お身体の方が……、御嬢様っ?!」


 昨夜、という言葉がソニアの心に篝火を焚いた。心の霧を追い払い、鼓動が身体に活力を漲らせる。

 ふらつく身体に鞭打って、ソニアは上半身を起こす。慌てるミセス・クラリネットに軽く手を振ると、記憶の奥底から昨夜の顛末を引き出した。


「……私は、どうしたの?」

 何度か瞬きをしてかすむ視界を潤しながら、ソニアは自分がベッドに寝ていて、服装も、あの汚れきったドレスでは無いことを確認した。「ここは、私の部屋? どのくらい、眠っていたのかしら」

「昨夜、というよりは殆ど早朝ですが、あの子が運んできたのです、御嬢様。そしてご安心下さい、まだ昼前ですよ」

「そう……無事なのね、あの子は……ミスター・ノーツは?」

「あの方もご無事ですよ、勿論。服はそれほど無事ではありませんでしたが」


 まあ、服くらいは些事だろう――ミスター・ノーツの財布は潤沢だ、ミザレット家と違って服を一揃い買い換えるくらい、造作も無い筈だ。


「何があったのかお聞かせ下さい、と言いたいところですが」

 ミセス・クラリネットは、弱々しく微笑んだ。「どうか、もう暫くお休みを」


 その、普段の彼女からは想像も出来ないような弱々しい仕草に、ソニアは目を剥いた――ミセス・クラリネットはけして、愛する主人を甘やかすタイプでは無かった筈なのだけれど。少なくともやるべき事を後回しにすることを、勧めはしなかった。それも、こんなに辿々しく。

 そんなに、自分の状態が悪いのかしら。

 確かに体力は少なく、身体の節々が悲鳴を上げている。喉も渇いているし、顔色だって悪いだろう。けれどそんな、ミセス・クラリネットに心配されるようなほどかしら?


 ……ふと。

 ソニアはに気が付いた。その存在に、そのに。


「………………」


 先程までの、体調不良と疲労とはまた別の理由で小刻みに震える左手を、ゆっくり、ゆっくりと持ち上げて。

 近づける、左眼に。

 指先が、ごわごわと引き攣る肌に触れる――下男の火傷した手の甲が、こんな感じの皮膚だったわと、ソニアは思い出した。


 不思議な感触を試すように左手を動かしながら。

 


「……顔の左側、そして左眼に、傷を負ったと聞きました。御嬢様、貴女の左眼はもう――」


 ミセス・クラリネットの言葉は、正しく暗闇に飲み込まれていった。ソニア自身の、空洞に。









「…………」


 部屋には、沈黙が満ちていた。

 どうやらミセス・クラリネットは、昨日の暴虐の痕跡を見事に消したようだ――床は掃き清められ、カーペットは取り替えられ、ソファーには上から布をかぶせてある。新しいカーペットを買ったのかしら、ソニアは彼女の手際に感心しつつ、その費用が気になってしまう。


「ミス・ミザレット……」


 呟いたのはミスター・ノーツだ。

 座っていたのだろうソファーから勢い良く立ち上がる。そして、客間に現れたソニアを見て、ミスター・ノーツは顔を歪めた。

 顔を歪めた彼の顔を見て、ソニアは顔を背けた。彼の端正な顔に浮かんだ表情、あれは哀れみだったかしら。それとも罪悪感? いずれにしろ、見ていて心地の良い表情ではなかった。


 ミスター・ノーツの視線はソニアの顔の左半分に集中していた。真新しい包帯が巻かれた、痛々しい様子へ。傷に責任を感じた? それとも、痛みを想像した? どちらにしろそれは、貴族が受け取るべきものではない。


「やっと来たね、ソニア!」

 笑みでも怒りでも無く、自己紹介のように歯をむき出してノイジーが声を張る。「アンタが来るまで随分退屈だったよ」

「……無事で良かったわ、ノイジー」

「アンタは手酷くやられたね」

「あなた……っ!」

「良いのよミセス・クラリネット」

 激高しかけた女家令を止め、ソニアはノイジーの頭を撫でる。「生きているわ、それだけで充分よ。大変な夜だったもの」

大変な夜だったよ」

 ノイジーは上機嫌に笑いながら、ソニアの手を払いのけた。「アンタが倒れてからどうなったか想像できる? アタシは呑気に寝てるアンタたち二人をあの乗り物のとこまで運んで、知りもしないこの家の……『ジューショ』ってヤツを説明しなくちゃならなかったンだよ?」

「あの影は?」

影は消えたよ……アンタも、見てたでしょ」

「そう、ね」


 ふん、と大袈裟に鼻を鳴らすと、ノイジーはソファーの上に立った。ソニアと高さを合わせて、その顔を見詰める――正確にはその包帯に覆われた左眼を。その奥に何かがあるとでもいうように、見透かすように。

 ……審査は直ぐに終わった。納得したのか諦めたのか、ノイジーは軽く顔を歪ませただけで何も言わず、ソファーに座り直した。

 それからぎょろりと目を蠢かせて、もう一人の生還者を睨み付ける。


「アンタも、生きてて良かったくらいの事は言えないの?」

「勿論命があったことは喜ばしいよ」

 ミスター・ノーツは肩を竦めると、どさりと音を立ててソファーに座り込んだ。「ただ――それだけでは無いのがこの世界だというだけだ」

「何それ? 死んでないなら嬉しいもんでしょ、生きてるンだから」

 基礎的な知識不足を笑う教授のように、ノイジーはミスター・ノーツを笑った。「生きてれば何でも出来るンだから」

「…………そうか」


 そんな簡単なことも解らないの、と言いたげなノイジーを繁々と眺めて、それからミスター・ノーツは小さく頷いた。

 疲れ果てて、追い詰められたような顔にかつての輝きの、その片鱗が戻っているようにさえ思える。ソニアは片側だけの視界でそれを見て、少しだけ自分の気持ちが楽になるのを感じた。


「そうだな、正しくその通りだリトル・ミザレット。生きている限り何でも出来る。ふふ、久し振りにそんな気持ちを思いだした」

 派手な笑顔を浮かべると、ミスター・ノーツは立ち上がる。「今日はこれで失礼するよ、ミス・ミザレット。今回の件は僕の方からも、御老人に報告しておくよ」

「えぇ、お願いしますわミスター・ノーツ……私も、身支度が終わり次第向かいますから」

「……そうか。では、また後で」


 また、か。

 その言葉の残酷さに、ソニアとミスター・ノーツは共に小さく笑った。見送るソニアも立ち去るミスターノーツも互いに解っていたのだ、今後はもう二度と、今と同じ関係性ではいられないということに。

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