第19話ノイジーの爪

 何もいなく、何も無かった筈の祭壇で。

 影が顕現していた――正しく我が物顔、夜の暗がりに沈む神無き神殿は邪悪なる者の玉座であった。


「ホント臭うわコイツ」

 苛々と顔をしかめてノイジーは、影に悪態をつく。「これ以上臭いがつく前に、とっと消えてくれない?」

「言葉が通じるの?」

「通じるわけで無いでしょ。見てよあの姿、脳みその欠片も無いって」


 ノイジーが小馬鹿にして鼻を鳴らす。

 それから舌を突き出し、両手をひらひらと振って挑発する彼女に呆れながら、貴族としての振る舞いについて何か講釈を告げようと思った、その時だ。


「mwんlksmdんqんk!!」


 影が、吠えた。

 言葉のようで言葉では無く、無意味なようで有意義なような。音と曲の狭間に位置するような、不確実な咆哮。

 少なくとも実体はあるようで、全身に強い風を浴びたソニアは、髪を直しながらソニアをじろりと睨んだ。


「通じたようだけど?」

「聞こえたみたいだね、でもま、ちょっと心が狭いかな」

「心があればだけれど」


 これも聞こえたのか。

 影は苛立たしげに身を震わせる――【扉】をくぐって現れたときにはもっと、薄っぺらい影そのものだったはずなのに?

 チッ、と。鋭い舌打ちがソニアの隣から響き渡った。


「願いを?」

「喰えば太る、当たり前でしょ」

 舌打ちといい口調といい、短い方が彼女は不快感が強い。「死体の夢とか味気ないだろうけど、ま、量だけはありそうだからね。ご満悦だろうさ」

「でも、あの死体たちは、自分たちの夢で動いているんじゃあないの?」


 ソニアはあの、死して尚動く連中のことを、夢を心臓として理解していた――身体が朽ちても手放せなかった、諦めきれなかった夢を核として、あの影が与えた『チカラ』を血液のように巡らせて。名残を探して歩いているのだろうと。

 けれどもノイジーは、『夢を喰った』と言った。

 喰った、という非淑女的言葉遣いへの注意は後に回すとして。その表現が的確ならばあの死体たちは、心臓も無く動いていることになる。それでは血液チカラは回らないのでは無いかしら?


 ノイジーは彼女らしく微笑んだ。詰まりは、小馬鹿にしたということだ。


「動き出したときはそうだったかもね。でもソニア、アンタたちだって知ってるでしょ? 実がついたら、刈り取る。誰だって、カミサマだってそうするよ」

「……自分の都合で起こした死者から、自分の都合で……」

「良くある話だよ。でしょ?」


 ソニアは顔をしかめて、影の方を見た。

 先程あれだけ魅力的に見えた黄金の瞳が、何故だか急に色あせて見える。気に入っていた首飾りが鍍金メッキだったと知ったときのような、情熱が冷めて心が冷えていくような感覚。

 ――あぁ、


「……ソニア?」

「気にしないでノイジー。やるべきことを改めて確認しただけだから」


 冷ややかに影を睨みながら、ソニアはステッキを握り直す。

 無法は悪だ。民は聖王の定めた法によってのみ支配され、搾取される。民に不利益を強制するの外敵を、貴族は見過ごしてはならない。けして。


 あれは、最早自分の美しさを放棄した外敵だ、ただの。ならば貴族たるソニアとしては、排除するだけ。


 突然冷静になったソニアとは逆に、ノイジーは何やら慌てた様子だった。


「いや、何構えてンのソニア! そんな棒っきれ一本で何する気?!」

「貴族の義務を果たすのよ。私たちは先頭者よ、最初に敵を殴り、敵に殴られるのは貴族で無いといけないの」

「ちょっと落ち着いてよ、お姉様。アレはそんな、甘いこと言ってる相手じゃあないンだって!」

「私は勿論冷静よ、ノイジー。とても、とても落ち着いているわ」

「アンタは……いや、いいや。あのお節介女の苦労が良く解ったよ」

 ノイジーは珍しく全ての感情を消して、盛大に溜息を吐いた。「下がってて。貴族の役目だって言うンなら、アンタの妹のアタシが、さっさとあしらってやるよ」

「それは……」

「ちょっと! まさか何だけどさ」


 一歩。

 ノイジーが踏み出すと、影がぞわりと蠢いた――否、影だけじゃあ、無い。聖堂の埃と腐臭に塗れた穢れた空気そのものが、突如生じた巨大で強大な存在感に震えている。元来の清浄な空気では無い、その空間に異質な威圧感が満ちていた。

 小さな、痩せて、儚げな背中。嵐のただ中に立つ若木のように容易く折れそうな肩が、千年を数えた古木よりも大きく見える――見事な金木犀色の髪は不可視の力で持ち上げられて、燃え上がる炎のように広がって波打っていた。


 世界そのものが悲鳴を上げているように、教会の壁がギチギチと軋んでいる。数世代に渡り無視され続けた朽ちかけの漆喰がパリパリと剥がれ、その破片が神に持ち上げられるように、神経質に砕かれながら天井へ吸い上げられていく。

 あの醜悪で凶悪に感じた影でさえ、場の変化に抗おうと必死に祭壇にしがみついているばかりだ――それでも末端は不慣れな編み物のように解け、燃え尽きながら削られている。

 圧倒的な、捕食者の登場だった。彼女の前ではあらゆる存在が皿の上に載るのだと、瞬時に理解させるだけの力強さを、ノイジーは発揮していた。


?」


 チラリ、とこちらを向いたノイジーの瞳が灼熱色に染まっている。噴火寸前の溶岩みたいに荒々しい色合いだけれど、そこに浮かんでいるのは怒りや憎しみでは無いと、ソニアには何故だか解った。

 だって――この子は妹だわ、私の。


 ソニアの顔に何か、ノイジーは文句を言おうとしたようだった。けれどいつものように発せられそうだったその言葉が、形となる前に影が動く。


「―――――――ッ!!」


 つんざくような、咆哮。

 出会い頭の、何となく意味の破片を拾い集められそうな叫びが影にしては、随分と礼儀正しい発言であったことにソニアは気が付いた。今の声は意味どころか、音としてヒトが認識できる範囲を容易く逸脱していた。

 けれども、意図だけは明白だった――その金切り声に応じるように、腐臭が足下から立ち上る。そしてその持ち主も。


 教会の土台よりも更に下の地面から、泥を掻き分けるように起き上がってくる大量の、死体たち。

 外を出歩いているたちよりも恐らくは、百年単位で古い時代に埋葬されたであろう彼らの身体は、原型を探す方が難しいほどに腐り果てて、骨の一部だけが這い上がってきたのだ――骨を良く見ると淡い金色に光っていて、それが筋肉のように覆って、動いている。

 いや、動かされているのだろう。あの影が『チカラ』で人形のように、死体たちを操っているのだ。脳も心臓も無くなって、それでも核となる願いなんてあるわけないのだから。


「っ、ノイジー!!」

 骨の森が殺到しつつある妹へ、ソニアは思わず手を伸ばす。

「何度も言わせないでよ!」

 応じたのは不機嫌そうな声と舌打ち。「アタシを、この程度で、心配するなっての!!」


 瞬間、黒い嵐が巻き起こる。

 ダンサーの要領でノイジーが身体を回したのだ――振り回した腕が当たったらしい骨たちが、切り飛ばされて宙に舞う。


「ノイジー、貴女……」

 嵐の目となって見せたノイジーの姿に、ソニアは目を丸くする。「その、手は……」


 だらりと自然体で下げた彼女の両腕は、見覚えのある。鶏の足のように細く、その先端には短刀ほどもある鋭い爪が五本、指のように生えている。

 見て見ぬ振りをしてきた事実が、慄然と立ち塞がる――解りきっていたことだ、あの影が出てきたところからノイジーは来た。単純なヒトであるわけが、無いのだ。影を傷付け、そして引っ込んだあの鱗だらけの手が誰のものかなんて、議論の余地は元々無かった。

 それでもそのことに、ソニアも、ミセス・クラリネットも追及することは無かった。誰もが触れようとしなかった、ノイジーが見た目通りのか弱い女の子かどうか何てこと。


「ま、ビックリしただろうけどこういうこと」

 ノイジーは見せつけるように両腕を広げた。「アタシだって、あっちの住人だからね。アンタたちヒトとは違うよ」

「そうね……驚いたわ」

「……なんで笑ってンの、ソニア?」

「さあ、何故かしらね、ノイジー」

 ソニアは自分の頬を撫で、肩を竦める。「妹の新たな側面に、感心しているのかもしれないわ」

「……アンタ」

「妹なのでしょう? それとも、そこは嘘? 違うわよね、貴女は正直な良い子だわ、ノイジー」


 ふん、とノイジーはそっぽを向く。

 たった今死体の群れを打ち払ったにしては、素朴な反応でさえあった。


「アンタの異常さは良く解ったよ。いつか痛い目を見ると思うね」

「そうね、でも、深夜の墓地で死体に囲まれる経験を上回るとは思えないわ」


 微笑む先で、ノイジーが膝を曲げる。深く沈んだ次の瞬間、彼女の身体は放たれた矢のように影へと飛びかかる。

 正しく獣じみた、容赦の無い突撃。

 影はどうにか反応しようとした――急速に膨れ上がり、ノイジーに的を絞らせない。そうしてかわして、逃げだそうとしたのだろう。


 賢しい応対は、純粋な暴力の前に薙ぎ払われた。

 ノイジーは一直線に切り込むと、その爪を縦横無尽に振るう。ヒト型の竜巻となった彼女の乱舞が、広がった影を掃き散らしていく。


「―――――――ァッ!!」


 その内のどれが致命傷となったのか。

 死体たちの声など目じゃあ無いくらいの声量で、影が断末魔を挙げる。硝子を引っ掻いたような不快感に、ソニアは。そしてノイジーさえ思わず耳を塞いだ。


 それは、痛恨の隙と言えた。

 影の一部、切り払われた破片が一塊に纏まった。その中心に黄金の宝石が浮かび、その眼がギョロリと、その場で最も弱い存在に目を付ける。ソニア・ミザレット。彼女の左眼と影の瞳が出会い、両者を因縁の糸で結びつけた。


「あ、あぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

「ソニア!!」


 糸が引かれ、影が、ソニアの顔面に襲い掛かった。ノイジーの爪も間に合わない速度で影はソニアの肌に取り付き、燃え上がった。

 肌が、そして眼球が熱した鉄に焼かれていく。その激痛と不快感が、ソニアの精神を限界へと追いやっていく。


 身体から力が抜けて、自分の倒れる音が遠くから聞こえてくる。


 ――獲物を追い詰めた最後の瞬間、ソイツから目を離してはならない。

 暗転していく意識の中。狩りに連れられたときにガルネルシア候から教わった、もっとも基本的な忠告をソニアは今更のように、思い出していた。

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