第18話到達した先で

 ソニアの予想通り、ノイジーが見たという建物はどうやら教会のようだった。


 夜空に月はもう、高いを通り越して傾きかけている。夜明けまではまだ遠いにしても、もう夜のピークは過ぎたのでは無いだろうか。緊張と興奮のお陰で眠気こそ遠いものの、身体中に疲労が重くのし掛かる。中でも両肩は、ミスター・ノーツを運んだせいもあって折れそうなほどに痛んでいる。


 辿り着いた建物の傍で、ソニアはミスター・ノーツの身体をできる限り丁寧に下ろした。あの爆発事故以来死体たちとは遭遇していないが、鳴り響く呪詛の咆哮が彼らが消え失せたわけでは無いことを教えてくれている。


 さておき、教会だ。

 周囲や足下に気を付けながら慎重に進んだ墓地の、ほぼ中心部、点在する霊廟より一際大きな建物には真円で囲まれた十字架、いわゆる秩序十字アズクロスが掲げられていたから間違いない。

 間違いないが、それでも『どうやら』とか『ようだった』とか不確かな表現になってしまうのは、単に建物そのものの状態が劣悪過ぎるせいだ。ほんの僅かでも信仰心を持ち合わせる者なら誰でも、壁が半ば崩れ、ステンドグラスの破片が周囲に散らばる様を教会だとは信じたくないだろう。何しろ、六体並んだ聖人の石像などは台座と足首しか、残っていないのだ。


「……壊したって感じじゃあないね」

 ノイジーが片目を細めて、淡々と感想を零す。「長い間放っておかれただけだろうね、自然に崩れていった、って感じ」

「空しい話ね、誰かが暴れ回って壊した、と言われる方がマシだわ。教会の手入れを忘れるなんて、ヒトの信仰心が試され、そして敗北した証だもの」

「勝手に試されて勝手に失望されるのアタシなら嫌だけど。それに、アタシとしちゃあ断固として、アンタの感想にノーを言いたいね。少なくともアタシたちが追ってる獲物は、ここを壊す気分になるほど上機嫌じゃあないわけだし」


 ソニアは溜息を吐いた。

 我が妹に信仰心を覚えさせるには何が必要かしら? 分厚い聖典? それともカリカリに焼いたチキンを司教様から差し出されること?

 自分の時はどうだっただろうか。特別なことは何も無かった、と思う。ミザレット家の長女として当然学ぶべき教養を学ぶ内に、自然と秩序神教会への信仰は身についていった。ガルネルシア候も、そしてお父様も、ソニアが聖典の一節を諳んじる度に嬉しそうに笑ってくれた――ミセス・クラリネットはチョコレートをくれた。


 ソニアは軽く首を振り、幸せな過去を追い出した。思い出に酔うのは自分のベッドの中だけにしなくてはならない、ここは今、危地なのだ。


「……臭いはどう、ノイジー? あの影はここにいそうかしら?」

「多分ね、濃くなってる。けど……やっぱり臭いンだよね、うまく臭いを嗅ぎ分けられない」


 所々で割れている石畳を進んで門に近付く。腐って崩れた門扉は開けるまでも無く通れそうだ、ソニアは近づきそして、うっ、と短く呻いて後退った。


「……確かにひどい臭いだわ」

 鼻の奥から後頭部まで突き刺すような腐敗臭に、ソニアは反射的に浮かんだ涙を拭き取って、そのままハンカチを口に当てる。「このドレスは捨てるわ、貴女のそれもね、ノイジー」

「アタシは慣れてきたよ、鼻が死んできたのかもしれないけどね。ところでさ」

 入れ替わるように中を覗きながら、ノイジーはソニアの足下を指で示した。「?」


 そいつ、というのは間違いなく、ソニアの足下でぐったりとしているミスター・ノーツのことだろう。

 放置するわけには行かずとにかくここまで連れてきたが、確かにここから先は大荷物を担いで進むには危険すぎる。目が覚めてくれれば、と多少期待していたのだが、ソニアの幸運は自身の悲観的観測より更にランクが低いらしい。


 いくわけにはいかない、けれど、とソニアは眉根を寄せる。


「置いていくにしても、その辺にただ捨てていくわけにはいかないわ」

 ミスター・ノーツは貴族では無いが実力者だし、金持ちだ。「彼の死が私たちの責任だと言われたら、とても不味い事態になる。せめて最善を尽くさないと」

「立場ってのは面倒だね。死に方まで気を使わないといけないンだからさ」

「黙って。どこか安全そうな所は無いかしら……」

「安全ところなら心当たりがあるよ」

「本当? どこにあるの、小屋か何かがあった?」

 ノイジーは無言で指を伸ばした。その先には教会の屋根しか無い。「どこ? 裏手の方?」

「単純にさ、ソニア。完璧な安全ってのはまあ、この辺りじゃあ無理だけどさ、あの死体たちにいきなり襲われなければ良いンでしょ? なら任せてよ」


 ノイジーは気楽に言うと、いそいそとミスター・ノーツを背負い始めた。

 それから、ソニアが止める間もなく――ここは重要なところだわ、『ソニアが止める間もなく』――ノイジーは教会の壁に駆け寄ると、

 言葉もなく、唖然とするソニアの前でまるでヤモリのようにするすると、ノイジーは教会の屋根の上まであっという間に辿り着き、秩序十字の下にミスター・ノーツを置いて、今度は一飛びで地面に降りた。


「これで良いでしょ」

 家で言えば三階くらいはある高さから飛び降りておいて、一切痛がる素振りも無くノイジーはやせっぽちの胸を張る。「あそこに手が届く死体は居ないと思うよ」

「それは……でも……えぇ?」


 確かに壁をよじ登れるほど、あの死体たちは運動神経が優れてはいないだろう。それに高いところの方が空気も良いし、呪いの声からも遠くなるから、体調にも良いかもしれない。

 けれどあれじゃあ、ちょっと寝返りを打っただけで転がり落ちないかしら?


 少し考えて、ソニアは自分に魔法の言葉を投げた――この世に完全など無く、あるのは妥協か盲目である――最優先は死体の群れからの安全だ。それ以外の偶発的な事故の危険性は、この際目を瞑るべきだろう。


「……行きましょう、ノイジー。早くこの騒動を終わらせるのよ」

「アンタのそういうドライなとこアタシは嫌いじゃないよ」

「良いから行くわよ」


 促して、飲み込んだ。

 私は嫌い、という言葉を。舌に乗らない内に。









 外は気が滅入る壊れ方だったけれど、教会の内側はより散々たる有様だった。

 入って直ぐに床板が腐り落ちた穴が出迎え、無事な床でさえ半分以上が泥に飲まれている。かつては整然と並んでいたのだろう長椅子は悉くが朽ちて打ち捨てられ、即席の迷路のように不規則な通路を形成していた。


 見上げれば、そのまま夜空。


 雨風に負けたらしく天井に大穴が空き、真下には漆喰の破片が転がっている。説教台は横倒され、威光を示す筈の祭壇は空っぽだ。

 神は財を重要視しないが、神の像は概ね金銀細工である。穢れである、と放逐した一族のために教会がどの程度の資材を投じるかは解らないが、呪いを顧みない不心得者が現れるくらいにはきっと、豪華な祭壇を作っていたのだろう。売り払われたか、鋳つぶされたか。いずれにしろこの空白の座に神が戻ることは、室内の様子を見るに無さそうである。


「臭いが強くなってきたね」

 ノイジーが物珍しそうに辺りを見回しながら笑う。「クライマックスが近付いてるってことだよね」

「…………」

「聞いてる? ソニア?」


 聞いている、聞いては、いた。

 ノイジーの声は勿論ソニアの耳に届き、理解も出来ていたけれど――

 気遣わしげに覗き込むノイジーの様子もどこか遠く。皮膚を冒すような腐敗臭でさえ今は、ソニアにとって額縁の向こうの風景としか感じられなかった。


 ソニアの全ては今や、彼女の極々一部に集中していた。耳も鼻もそして右目も、全ての感覚器からの情報を遮断して、処理能力の全てを無意識の内にそのに集めていた。

 無意識だ、ソニア自身の考えでは無い。武術の達人でもあるまいし、争いとは無縁の人生を歩んできた貴族令嬢が感覚の取捨選択など出来るはずも無い。

 だからこの、反射は本能のなせる技だった――生命の危機に直面した際にヒトが、自分の限界を超えた能力を発揮するように、ソニアの魂が左眼を選択したのだった。


 眼球が沸き立つ鍋のようだった。


 眼窩がんかの周りの皮膚が炙られているように引きつる。

 目の奥底は燃えたぎる炎で、息を吸う度に熱く燃え上がり、吐く度に喉を焼く。だというのに脳は痛みを認識せず、他人事のように『あぁ、焼けてるわ私』と思うばかり。きっとこの熱が全身を覆い尽くしても、ソニアは燃えている手を持ち上げて不思議そうに首を傾げながら、指先から黒い炭に変わってぽろぽろと、崩れ落ちていくのを眺める事が出来るだろう。


 今それどころではないと、ソニアの左眼が叫んでいる。


 この感覚には覚えがあった――昼間、他でもない我が家でソニアは、今と同じような状態に陥ったのだ。

 花に吸い寄せられる蝶のよう、或いは、火に誘われる蛾のように。

 自分の意思を忘れてしまったソニアの左眼がじいっと、祭壇の奥を奥を見詰めて見て見て視て観てミテ……、


 


 ゾッと、背筋を悪寒が駆け回る。

 たった今気が付いた恐怖では無く。

 恐怖が既にこちらを認識していたという、恐怖。

 無痛の火が脳髄の奥底を侵すように、鋭い視線の針が突き刺さる。見ては駄目、視ていては駄目と無言で叫びながら、視られることを止められない。あぁ、だってほら、あの魔界のような漆黒の暗闇のその奥でさえ輝く、金色の宝石が美しい、美しすぎて目をそらせない、離せない、もっと近付いて見たい――。


「ぁぁぁぁぁ――痛っ!?」


 頬に衝撃が走り、ソニアの視界が強制的に逸らされる。

 冷ややかな炎が消え失せて、代わりにひりひりと、痛みを伴う熱が右頬を覆っている。顔を上げると、平手を振り抜いた姿勢で睨み付けるノイジーが仁王立ちしていた。


「……もしかして私今、頬を殴られたかしら……?」

「まだマシだと思って欲しいね、鈍感。気付いてるか解らないけどアンタ、危うく食われるところだったよ」


 ふん、とそっぽを向くノイジーの言葉は、多分本当だ。

 あの穏やかな燃焼は今や、額縁の向こうへと去って行ったけれど。

 その不在を身体が強く感じている――あまつさえ、。魅入られている、正に言葉通りソニアはアレに呑まれているのだった。


 左眼が、燻る。


 燃え残った身体が今度は現実として、アレの存在を認識している。

 ノイジーも同様なのだろう、祭壇の奥を見透かすように睨みながら、ゆっくりと、獲物に飛びかかる猟犬のように体勢を整えている。


 二人分、三つの眼差しに見詰められて。照らされるように晒されるように。

 祭壇の上に影が、その姿を現した。

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