第16話危地。

「ふぅ……ふぅ……ふぅ」


 ミスター・ノーツの身体をどうにか物陰に引き込んで、ソニアは大きく息を吸って、荒い呼吸を整えた。

 やはり多少は身体を鍛えた方が良いかも知れないと、痛感した。貴族令嬢とはいえいざという時に、ヒトを一人くらい運べないといけないわね。でないと、例えばこうして化け物の群れのただ中で息を殺す羽目になるのだから。


 持ち上げることは当然出来ず、肩を貸して歩かせることも出来なくてソニアは、結局ミスター・ノーツを引きずるようにして運ぶしか無かった。お陰で彼の、見るからに最高級と解る仕立てのズボンは泥だらけになり、小石や木の根によってひどい状態になってしまった。恐らく、二度と履かれることは無いだろう。

 もしも弁償を要求されたらどうしようかしら。危機に麻痺した頭はそんな、何でも無いことを心配してしまう。これから生き残れるかなんて解らないというのに。


「……ノイジー」


 あの子は大丈夫かしら。

 遭遇した今なら解る、あの声は悲鳴ではなく『威嚇』だ。目が覚めた死人たちが、自分たちの領域に踏み込んだ異物へ向けた、警告の声にして先制攻撃だったのだろう。逃げ帰るなら良し、逃げないのなら――ソニアは彼らの朽ち果てた肉体と、それに反するように生々しい舌の蠢きを思い出す。あぁそれと、あの歯。与えられた【チカラ】が彼らを蘇らせたのなら、彼らは『歯』と『舌』を『必要』と判断したのだろう、求める願望のために。


 ミスター・ノーツは問うていた、死者は何を渇望する?

 答えは『歯』と『舌』。あぁ、彼らは要するに


「……どうしたら、良いの……」


 声は長い間響き渡り、それから息継ぎのためか少しの間静かになり、再び響くというサイクルを繰り返している。そしてミスター・ノーツの顔色は、声を聞かされる度に悪くなっているように見える。

 手元に鏡は無い、覗き込んだらソニアの顔もこのような、土気色に染まっているのかしら? 今のところ体調に大きな変化は無いけれど、万全を示すわけではないということくらい解っている。

 表に出ないだけで身体の中では、声の悪影響が蓄積されているかも知れない。今のところは耐えられているけれど問題は、果たしてそれがどの程度耐えられるのかだ――具体的には彼らが消え失せるまで。


 計算するまでもない、不可能だ。あの化け物たちがいつ消え去るのか、ソニアには解らないのだから。

 少なくともミスター・ノーツは保たないだろう。貴族たるもの彼が保たないのなら意味はない、待つという選択だけは選べないのだ。となると――残る手は一つだけ。


「…………


 あぁ、我が妹。これは彼女の側の存在が引き起こした事態だ、ノイジーならば全てを把握してはいないにしても想像の、取っ掛かりくらいは提示してくれるだろう。

 彼女と合流する必要がある。どうにかして先走った彼女を見付けるのだ、或いは――


 ソニアはじっと、ミスター・ノーツの胸元を見詰め。

 やがて意を決し、そこに手を伸ばした。









「あぁぁぁもおぉぉぉぉっ!!」


 兎人ラヴィみたいに走り回って飛び跳ねながら、アタシは遠慮なく不平不満の大声をぶちまけた。それ以上にも幾つか、汚い言葉も喚き散らしたよ、勿論。


 淑女らしくないって? はいはい、そうでしょうとも。ソニア、アンタが思う『淑女』とやらは多分、枕以外に使い道のないあのジショってヤツの中にしか存在しないよ。完璧で、上品で、清潔って湖の精霊にでもなるつもり? あいつらも大概だよ?


 まあ、とにかくさ。


 アタシは誉れ高き騎士様の物語に出てくるような、儚げで守られるだけのお姫様じゃあないわけ。アンタもそうでしょ、お姉様?

 強いンだ。

 アンタたちが長い長い間上等な頭を働かせる代わりに、ポロポロと取りこぼした武器をアタシは、アタシたちはずっと持ってるのさ。


 ただねぇ。

 今回ばかりはちょっとばかり相手が悪い。というか、うん、アイツら臭いンだもの。触りたくないし、近付きたくないし。

 薙ぎ払うのなんか簡単だよ、そりゃあね。ただ単純に触りたくないってだけ。


 アタシが嫌いだって言ってるンだからさ、向こうだってアタシのことを嫌ってくれれば良いのに。アイツらは全然そういうところがなってないンだよね。

 アタシを食べられると思ってるわけ? なわけないってのにさ。


 アイツらはアタシと同じ所に源泉を持ってる。だったら後は、その質で比べるだけなわけ。で、アタシは強い、めちゃくちゃ強い。だからアイツらはアタシを食べられない、それどころか爪を立てることだって出来ないよ。精々ヨダレでベタベタにするくらい。それが一番嫌なんだけどね。


「面倒くさいし鬱陶しい! くっついてこないでよ馬ァ鹿!!」


 走りながら墓石や柵、或いはそれらだったものを蹴ってアタシは、アイツらから逃げ回る。アイツらは脳みそ腐っちゃってるからさ、目の前でご馳走の尻尾がゆらゆら揺れてたら、そこに向かって一直線ってわけ。で、柵を越えればそこに引っ掛かるのさ。馬鹿みたい。

 けどそれも、長く続くとは思えなかった――流石に一度ぶつかれば、回り道をするくらいの反応は見せるし、そもそもの数がめちゃくちゃ多いしね。


 川に石を投げ込めばさ、確かに流れはちょっとは変わるし時には澱むだろうけど、川そのものは止まンないでしょ? あれと一緒でさ、死体の波をいくら細かく足止めしたって、停まりはしない。

 止めたければ――止めるしかないンだけどさ――を閉めるしかない。あの影、アイツだ、アイツを殺してやる。

 ……見付けられたら、だけどね。

 さっきも言ったけどさ、アイツらは臭いンだよね。臭いが独特すぎてさ、鼻が曲がるし集中出来ないンだよ。


 臭いでアイツを探せない。

 目で見ても死体しか見えない。

 耳? あの鬱陶しい叫び声しか聞こえないよ。


「……くっそ」


 どうにも、コルクの嵌まった硝子瓶に閉じ込められた気分だよ。手詰まり、どん詰まり、行き詰まりに陥った感じが否めない。

 逃げてればいつかはこいつらも消えるよ、影がくべた燃料を消化し尽くせば元々の死体に戻るし、走ったりした分壊れるだろうね。ま、どっち道死体だけどさ。だから逃げてるのは充分正解だよ、ただし


 あの赤髪はどうか解らないけど、アタシは嫌だね。ソニアも嫌でしょ?

 だから走り回って、どうにかアイツを探そうと思ってたンだよね。いくら鼻が利かなくったって、近付けば解るからね。で、見付けさえすればこっちのものさ。アタシの爪の餌食ってわけ。


 けど、それが随分きついってのはアタシにも解ってきてたよ。連中は脳無しだけど能無しじゃあなかった――少なくともアタシを追いやる手腕は、熟練の狩人のそれだった。アタシは墓場の奥へ外へと追いやられて、徐々に行き場が無くなってた。

 もう贅沢を言ってる場合じゃないかもしれないって、思ってた。身体にアイツらの臭いを染みつかせることにはなるけど、やるしかない。


「だからまあ。運が悪かったよねぇぇぇぇっ!!」


 目の前、連中にしてみれば予想通り追い込んだ曲がり角の向こうから現れた死体の一団。その先頭にアタシはアタシの『爪』を叩き付けた。

 枯れ木よりも脆い身体が、あっさりと手応えなく粉砕される。アタシはニヤリと笑った。随分と追い回された分、逆襲してやるのは最高に気分が良いってものだよね。調子に乗ってるヤツの横っ面引っぱたくのって最高だよ、手の臭いも気にならないくらいにね。

 でも、アタシの上機嫌には直ぐに水を差された――粉々になった死体の群れが軽く震えたかと思うと、


「……うっそ」


 流石に呆然と呟いたアタシを嘲笑うように、アイツらが大きく口を開ける。

 油断したアタシに連中の呪詛が突き刺さる、甲高い悲鳴がアタシの心に爪を立てて、健気にも引っ掻いた。


「っぐ……」


 普段なら余裕ではね除けられる呪いを、アタシは顔面にぶちまけられた――怯んでよろけたヤツは弱者だ、集団は弱者には強い。膝をついたアタシを押し潰そうと、アイツらが殺到してきて――、


 


「」

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