第14話呪われの土地

「さあさ、着いたよ」


 そんな言葉と共にノイジーは馬車を止めさせた――窓を開けて顔を突き出して「そこそこそこっ!」と叫びだしたときにはどうしてくれようかと思ったけれど、これまでの彼女の暴虐ぶりからすれば、まだまだ序の口というところだろう。慣れ、というヒトが生きるために編み出した叡智を噛み締めつつ、ソニアは妹を引っ張り戻した。

 ミスター・ノーツに呆れられなかったかしらと、不安になったソニアが振り向くと、赤い青年は珍しく難しい顔をして窓の外を眺めていた。

 何かしら、まるで、予想外の一手に虚を突かれたチェス師のようだった。まさかこんなところに『猟師ハントレス』を打たれるなんて、という顔だ。


「正しくその通りだよ、ミス・ミザレット。思ってもみない方向から矢が射られて、驚いているのさ。君、ここがどこだか解るかな?」

「……随分と外れの方に、来たようだけれど」

 ノイジーの頭越しに眺める景色は、夜遅いこともあってほとんどが闇だ――その中にぼんやりと、崩れかけた壁が見えているだけで、場所を特定できる目印は存在していない。

「そうだね。まあ、これでも僕たちからすれば近い方なんだが」

 言いよどむような間合いの後に、ミスター・ノーツは溜息を吐いた。「……君は降りない方が良いかも知れない」


 激高は瞬間で冷却され、ソニアは軽く眉をひそめるだけでその言葉を受け流すことができた。というのもミスター・ノーツが、見るからに情けない表情で視線を泳がせていたからだ。

 自分でも無茶を言っていると、彼は確りと理解しているようだ。どうせ聞いてはもらえないだろうけれど、一応、言うだけ言っておこうかという空しい覚悟がその瞳に浮かんでいる。

 その頼りなさに思う所こそあっても、叱責する気分にはならない。


 代わりに気になるのは理由だった。総じて言えば隙の無いミスター・ノーツが、こんな弱点を見せるなんて。


「単純な話だよ。ここは雨上がりの畦道でね、ドレスとハイヒールの淑女には相応しくないということさ」

「私がドレスの汚れを気にするような、狭量な貴族だとお思いなのかしら?」

 先程とは方向の違う苛立ちを、ソニアは全身にみなぎらせる――我が財布事情を見透かされないように。「それは随分と、無礼な観察ですね」

「汚れにも種類があるということだよ、けして、君を侮った訳ではない。洗っても落ちぬ汚れとて勿論、捨て去ってしまうことは出来るけれどね――その汚れが足そのものにまで達していては、いくら何でも困るだろう?」


 足を捨てるわけにも、いかぬだろうしね。


 そんな言葉と共に浮かんだミスター・ノーツの笑みは、ひどく力無くそれ故に、とても真摯に映った。

 七年間で初めて見た、ヨルバ・ノーツの素顔にソニアはどうにも困ってしまう。

 かつて、とある島で硝子職人たちの作品を見たことがある。あの時に見たシャンデリアのような繊細さを、ソニアは青年の笑みに感じていた――無造作に投げ捨てることの出来ない、貴重なものだと感じていた。


「……

 ポツリと、窓の外を見ながらノイジーが答えを言い当てた。

のかい?」

疫病蜘蛛プレイグクラウドの足跡みたい。生き物が肉も骨も、魂までも腐っちゃったあとの臭い。誰かが死んだ時に皆泣くのって多分、この臭いのせいだよね。鼻に針でも刺されたみたいに、勝手に涙が出てくるでしょ? ま、その前に吐き気も来るンだけどさ」

「その歩く災厄みたいな生物に関してはともかく。詰まりここでは何か、魂が腐っているというの?」

「死ねば大体のものは腐るでしょ。ここはまあまあ、昔からある場所みたいだし」


 昔からある場所、腐るほどの魂、そしてミスター・ノーツの態度。

 それらを統括してソニアはようやく、その土地が何なのかに辿り着いた。


「ここは、墓地なのね……」

「まあ、そういうことだ。ノーツ家伝来の墓地でね、死んだ者は皆この土地に埋められる」

「だからかも。ってことは――ちょっと急いだ方が良いかな」

「え? ちょっ、ちょっとノイジー!!」


 呟くと、ノイジーは彼女が急いだらどうなるのかを見せつけた――するりと手品のように、窓から外へ飛び出したのだ。

 一切のためらいの無い動きだった。慌てて窓に駆け寄ったソニアの見る間に、最短距離を最速でノイジーは駆けていく。その背中が馬車の灯から闇に踏み込んでいくのを見た時点で、ソニアは意を決した。


「あぁもう、あの子ったら!」

「待ってくれ、ミス・ミザレット。さっきも言ったがここは墓地だ、墓地なんだぞ。貴族の君が踏み入るべき場所じゃあない」


 ミスター・ノーツの制止が、完全にソニアの心を決めさせた。

 わけのわからない熱が胸の奥に点り、全身に炎を巡らせているようだった。ソニアは決然とミスター・ノーツの眼を睨み付け、その身体を押しのけるように強引に、馬車から降りる。


「ミス・ミザレット!」

「私はあの子の姉よ! 放っておくくらいなら靴でも足でも捨ててやるわ!」


 言い捨てて、ソニアはノイジーの後を追うように駆けだした。あぁ全く、どうしてこう淑女の服は走りづらいのかしら!


「…………」


 開け放たれたドアを、ミスター・ノーツはじっと見詰めていた。そこから出て行ったソニアの背中を、追うように。









 馬車の灯からそれほど離れない内にどうにか、ソニアは窓から見えた壁に辿り着くことが出来た。

 月明かりに照らし出される白い漆喰の壁は、どうやら塀らしく見渡す限りずらりと続いている。表面は朽ちかけてひび割れ、所々など穴が開いている。手入れをしていないのかしら、そう言えば足下の地面は舗装されておらず、雑草が一面伸び放題になっている。どうやら庭師はいないようだ。


 そっと壁に手を触れる。古くて脆くなっているとはいえ、その手触りは堅くしっかりとしている。当然だが扉があるわけでもなく、それなのに先行したはずのノイジーの姿は見当たらない。


「ノイジー、どこ?!」


 呼び掛けてみるが返事はない。

 全く、どこまで行ったのかしら。軽い苛立ちと多くの不安がソニアの身体から、先程突き動かされた思いの熱が、底の抜けた鍋のように瞬く間に抜けていく。


 自分は今墓地にいる、ノーツ家の墓地に。その認識が今更になって、一人きりの心細さを強調させてくる。この土地に関するソニアの認識はいわば机上の、文字として希釈された資料でしかなかったが、こうしてその大地に足を下ろしてみると、異様な冷ややかさがブーツに染み込んで、徐々に皮膚を染めようとしているとさえ思えてくるのだった。

 汚れ、穢れ。呪い。

 魂が腐っているというノイジーの言葉が、棘のようにソニアの心臓を引っ掻いていた。もしこの鼓動が激しくなると突き刺さるのではないか、そんな、強迫観念に苛まれながらソニアは妹の名前を呼ぶ。


 返事はない。

 もう中へ入ってしまったのだろうか――ノイジーは、少なくとも見た目は身軽な小猿のようだ。ソニアにとっては何のとっかかりもないのっぺりとした壁でも、彼女なら乗り越えることくらい出来るのかも、しれない。


「全く、せっかちなんだから……」


 さて。

 とにかく後を追わなければ。ここが呪われているという話はさておいたとしても、少なくともあの黒い影はいるのだ。一人きりで放ってはおけない。


 ここが墓地ならば、とソニアは辺りを見渡す。絶対に入り口がある筈だ、それと生者のための出口も。

 塀に沿って回ってみよう、ソニアは左右を順に見て、良し右と決めた。


 その、瞬間だ。


「きゃあっ!?」

 踏み出したソニアの右腕を、誰かが掴んだ。力強く、溺れたヒトを引き上げるように。

「……待ちたまえ、ミス・ミザレット」

「み、ミスター・ノーツ……っ! 驚かさないで下さい!」


 大袈裟に鳴り響く心臓を押さえながら、ソニアは青年の手を振りほどいた。

 ミスター・ノーツは溜息を吐いて両手を挙げると、ソニアに力無く微笑んだ。


「墓地への入り口は左から回ると早い。そちらからでは遠回りだよ」

「……気が変わったのかしら?」

「君の気が変わらないようだからね」

 先に立って歩き始めながら、ミスター・ノーツは懐に手を入れる。「……不気味なだけじゃあなく、今は危険なんだろう? 一人では行かせられないよ」

「用意が良いのね」

 取り出した手に握られているに、ソニアは顔をしかめた。「効果があるかは解らないけれど」

「無いよりはマシだろう、きっとね」


 胸元に戻すと、ミスター・ノーツは堂々と背筋を伸ばした。

 見栄を張るような仕草だ、誰に、というのは解りきっている。ソニアは微かに顔を背けて、迫る現実から目をそらした。


「……ノイジーは中へ入ったかしら」

「のんびり散歩しているとは思えないね、扉に辿り着いたか塀を上ったか……塀を壊していないことを祈るよ、直すのが難しいんだ」

「職人に払う金はないの?」

「まさか、金はそれこそ腐るほどあるよ。そうではなく、僕らの墓地を直したがるヒトがいないのさ」


 僕らはだからね。


 ソニアは何も言えなかった。

 カワハギ――動物の死骸から皮を剥ぐことを生業とした彼らを、かつての貴族たちは冷遇した。死にあまりにも身近で、血にまみれた彼らを精神的にも公衆衛生的にも、街の中に入れなかったのだ。

 その区別は直ぐさま差別に変わった。排斥から徐々に合理性は消えていき、生業が変わった今でもノーツ家は、街の外れにしか居住区を持てない。


 そして墓地は。こうして外れの更に外れにしか、埋葬を許されなかった。


「ガルネルシア候のような御老人は特に、僕たちが関わるのを良しとしないだろう。彼の錆び付いた脳内では未だに、僕たちは野犬の腸を煮て食べているのさ。今ではもう、彼らの屋敷を買い上げることさえ出来るというのにね」

「…………」

「君を下ろしたくなかったのもそれが理由だ。この土地を訪れたと知ったらあの御老人、君を家に上げなくなるだろう」

「そんなことは……」


 無い、とは言えない。

 寧ろそうなるだろう、間違いなく。


「……君は良い子だ、君の妹もね」

 ミスター・ノーツの背中が、静かに語る。「彼女の世界は、ここよりもっと美しいのかも知れないね」


 同意も、反対も出来ずに。

 ソニアはただ黙って、ミスター・ノーツの後に従って歩くしかなかった。

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