第8話夜の街を行く
「当然解ってると思ってたンだけどさ。あの影野郎は結構、ヤバいヤツだよ」
馬車と馬とを物珍しそうに眺めてから、ノイジーは座席に飛びついた。
白モスリンのシュミーズドレスに丈の短いジャケット、それに注文通りオールドブルのブーツ。ノイジーの服装は十年前の自分自身を見ているようだった、ソニアは彼女に続いて馬車に乗り込むと、ステッキとレティキュールを大事そうに抱え込んだ。
かく言うソニア自身の服装は、ミセス・クラリネットの「どうせ汚れるのでしょうからね」という言葉で、シンプルな黒のロカイユドレスに赤い
ノイジーは帽子を断固として拒否した。三つ編みさえも断り、
ミセス・クラリネットは賢明にも、少女の衝動を放任することに決めたようだった。それでもソニアに渡したキャロットケーキを、ノイジーには渡さないことで不満をしっかりと表明していたけれど。
「覚えているのかは解らないけれど」
閉じられたドアを慎重に確認し、それからカーテンを確りと引いて、ソニアはようやく答えた。「貴女は何も知らないと言ったわ、あの影について、何も」
「知り合いじゃあないって言っただけだよ、アタシ。初対面だけど、噂を聞いたことくらいある。ろくでもない噂って結構、広まりやすいものだよ」
「それじゃあ教えて頂戴、ノイジー。あの影にはどんな逸話があるのかしら?」
「アイツそのものが何かしたって話じゃあ無いけど」
驚くべき事にノイジーは、ソニアのために身体をずらしてスペースを作った。カーテンを見たいだけ、という素振りではあったけれど。「『寂しがり屋』だって聞いたね。何かしたヤツの傍に大抵、アイツがお上りネズミみたいにちょろちょろしてたってわけ」
嫌なヤツね、ソニアはノイジーのように呟いた。
どこにでもそういう手合いはいるものだ。自分自身の夢のために全身全霊傾けるのが、生命というものであるだろうに時折、異端が生まれる。辿り着きたい場所を持たず、誰かが走る様を傍から眺めてそれで、満足する手合い。
あの影もそうなのだろう。目指すものを持たずに、他人の人生を娯楽として消費するような。
「しかもアイツは、背中を押す。何かした連中ってさ、大体が周りからそれほど注目されて無かったヤツなんだよね。そんな度胸も実力も無くて、ただプライドばっかり高いようなヤツ。それが――やらかすンだ。出来もしない筈だったことを、最悪の形で実現させるの」
「願いを叶える、みたいなものかしら?」
ソニアはおとぎ話を思い出した。「ヒトの頭ほどもある水晶に魔性が棲み着いて、願いを叶える代わりに願いを失わせる。悪魔、そんな風に呼ばれていたわ」
「そういうのはこっちにもいたなぁ、確か黄金だったけど。何だろうね、やっぱり、綺麗なものって周りを惑わすのかな?」
「……あの影の眼も、綺麗だったわね」
「そうなの? アタシはそれ、見なかった」
綺麗なものには罠がある、ありがちな話だわ。あの煌めく星々のような眼球の群れを思い起こして、ソニアは納得する。
あれはヒトを、いや、知恵持つ存在全てを惹き付けてしまう魔性だ。そして惹き付けたものに、過分な力を与えてしまうのかしら。
「危険なものね、貴女があれほど慌てていたのも解るわ」
「別にアタシは慌ててないし」
獣のように尖った犬歯を剥きだして、ノイジーは否定した。「アタシはただ、アイツが先にいったのが気に食わないだけ。アタシはずぅっと待ってたのにさ、入ってみたらアイツが出ようとしてたんだよ? 最悪じゃん」
「それはもしかして、もっと最悪な事態じゃあない? じっと待ってた貴女以外にも、気が向いたら誰だってこっちに来られるってことでしょう?」
「そりゃあ、あのままだったらね」
顔色を変えたソニアに、ノイジーはしてやったりの表情を返した。「キチンと鍵くらい、掛けてきたよ。あれはアタシの扉だし」
「誰のものかは話し合いが必要だけれど、とにかく良かったわ。ありがとう、可愛いノイジー」
「ちょっと! 気安く頭を撫でないでよ!」
ふんっ、と勢い良く身体を背けて、ノイジーはソニアの手から逃れる。
実に微笑ましい行動だ。痩せて小さい背中と綺麗な髪を見て、それから自分の、典型的な金髪を軽く撫でた。
「ねえ、この布開けて良い?」
「カーテンのこと? そうね……良いわよ」
常識でいえば答えは『駄目』だ、けれどソニアは許可を出した。この同乗者は街を訪れたばかりだし、鍵の件に関してはそれなりのご褒美が必要だろう。それに『常識』? ノイジーからは最も縁遠い言葉だ。
ご褒美はソニアが期待する以上にノイジーを喜ばせた。
彼女は嬉々としてカーテンを開けた。土埃で汚れたガラスに額を擦り付けるようにして、外の様子に釘付けとなっている。
そんなに見るものがあったかしらと、ノイジーの熱中にソニアは首を傾げる。時刻は夕方を越え日も落ちて、設置されたばかりの街灯は既に不調を来している。通りには人通りもまばらで空は曇天、時折すれ違う馬車のランプが暗がりを僅かに、照らしていくだけ。
「どう、あまり見えないんじゃない?」
「んー。まあまあかな、夜の森よりはマシだよ、あっちじゃあ誰も篝火焚こうとしないしね」
見た目とは裏腹の言葉だった、ノイジーはソニアを振り返りもしない。「向こうの方が賑やかではあるけどね、うろついてるのはヒトじゃあないけど」
「そうなのね。こちらでは夜は――危ないから」
「危ないから出ないの? 面白いのにね、危ない方が」
「同意を求めないで頂戴、私は安全な方が良いわ」
ノイジーはちらりとソニアを振り向き、馬鹿にするように鼻を鳴らすと景色の方へと向き直った。
そんな態度を取られても仕方ないじゃない、ソニアは少しムッとしながら行儀良く姿勢を伸ばす。私は貴族令嬢、好んで危険に飛び込むほど荒事に慣れている訳がないじゃあない。平穏で、静かに。それだけが望みだ――今ではそこに『慎ましく』が付け加えられるだろうけれど。
「煉瓦の家が多いね、後は漆喰?」
「えぇ。五年前だったかしら、家を作るときは外壁を煉瓦にすること、そんなお触れが王室から出たのよ。漆喰の家はそれ以前から有った家か、反骨精神を混ぜたのかもしれないわね」
「あそこは賑わってるじゃん、明るいし。アレは何?」
「あそこはバーね。大人がお酒を飲む店よ」
「サケ? それに、ミセ?」
「
「んー、あー、コインでしょ? 使ってるヤツもいるし、使わないヤツもいるね。だって宝はもう、宝だけで価値があるじゃん。わざわざ作り直す必要無いでしょ」
「アルコールは?」
「魔術師が良く飲んでたヤツじゃないかな、『脳に翼を生やす薬』とか言って飲んでるのを見たこと、あるよ。アタシは飲んだこと無いけどさ……そうだミザレット! アタシも飲んでみたい、サケ、後で飲ませてよ!」
「駄目」
文句、それから新しい興味、説明、そして文句。
道中は正にその繰り返しだった。ノイジーはコロコロと、夏空のようにとにかく表情を変える。顔色を窺い顔色を隠すのが常の社交界には、当然ながら居ないタイプとの会話に、ソニアは奇妙な居心地の良さを感じていた。
「そういえばさ、これはどこに向かってンの? アイツ追っかけてはいないよね?」
「どんなことでもね、ノイジー。行動には手続きが必要なのよ」
貴族院、そしてガルネルシア候。
街の治安に関することなら先ず、彼らを通さなくてはならない。例え、【
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