第7話衝撃的

「ふぅ…………」


 ミセス・クラリネットにノイジーを預け、ソニアはゆったりとソファーに沈み込んだ。いきなり、汚れきった仔猫ノイジーを渡された彼女は本当に嫌そうな顔をしていたけれど、それに関しては申し訳なく思うけれども、ノイジーの髪には風呂が間違いなく必要だった。彼女の座っていた――或いは跳ねていた――場所は最早、ロンド公園の芝よりも自然的だった。

 それに、とソニアは紅茶を口に運ぶ。私にも一人になる時間が必要だわ、これだけ一度に知らない情報を渡されては、整理が追い付かないもの。


 地下室に隠された、更なる地下室。

 地の底で輝いていた扉、ミセス・クラリネットの不審な素振り、開いた扉。そしてそこから飛び出してきた、泥だらけの少女。目玉の付いた黒い影。そして、そして。


「……『向こう側』、かぁ……」


 そっと胸に手を当てる。ノイジーほどでは無いけれど慎ましいそこからは、まだ早鐘を打つ心臓の鼓動がどっくんどっくん、喧しく鳴り響いている。

 落ち着いて、落ち着くのよソニア・ミザレット。胸中に広がる興奮の炎を、紅茶で無理矢理消し止める。

 幼い頃を思い出す。ガルネルシア候の講義、テーブルに広げた煌びやかな本、そこに描かれていた此処では無い世界の、不気味で複雑で独特な森。


 水道局の視察で【解錠機構リプルセラー】を見学したことがあった。大掛かりな装置から水源も無いのに吐き出される水が、濾過ろか装置を通して市街地へと送られる光景は、最早魔法としか思えなかった。

 『向こう側』から水を引いていますと、【開門者オープナー】の青年はあっさりと教えてくれた。内部に【境界の門】を制御する機能があり、水量を定めているのだと。

 開門には専用の鍵が必要だとソニアは聞いたことがある。それと、定められた呪文。古代言語で書かれた詩のような呪文はとても複雑で、ソニアには発音の仕方も、解らなかった。


「……使


 鍵と、呪文。

 必須だと言われていたそれらのどちらも、ノイジーは使うことが無かった。ただ己の指と意思だけで扉を開き掛けた、あの様子では鍵なんて、存在さえ知らないのかもしれない――あの子が鍵を使うという礼儀を、知らないという想像は実にしっくりくる考えだった。


「ノイジーは鍵も呪文も使わなかった、【開門者】は鍵も呪文も必要だと言った」

 どちらかが嘘を吐いているのかしら? いや、そうとは限らない。「どちらも本当かもしれないわね」


 多くの【開門者】には必要な物がノイジーには必要ない、これは別に、矛盾することなく成立する――『ノイジーが特殊である』という一文を付け加えれば。


「付け加えるのは簡単よね。あの子は『向こう側』から来たから」


 それが条件かもしれない、『向こう側』から来たことが。

 『向こう側』の存在なら門を、その存在だけで開けられるのかもしれない。或いは鍵を隠していた? 可能性もあるけれど少なくとも、呪文は唱えていなかった。不要なのは片方だけ、ということが果たしてあり得る?


「……駄目ね、疑問だけが多いわ」


 足りない素材で作った塔は間違いなく崩れる。もっとノイジーに聞かなくてはならない、あの影についても。


 紅茶と、それからどうにか生き残ったパンを口に運ぶ。ノイジーは肉を好んでいた、その分黒パンと野菜だけは、ソニアの胃袋に収まってくれた。生のキュウリは高級なのに、ノイジーは一口囓って直ぐに放置した。

 全く、常識が無いわ。ポリポリと瑞々しい食感を味わいながら、ソニアは答えが帰ってくるのを大人しく待つことにした。









「ミザレット! ミザレット!」


 お茶を二杯飲み終えた頃。

 騒々しい叫び声とバタバタという足音が廊下を迫ってきて、ソニアは孤独な自由の終わりを察知した。

 予想通りの時間のあと、ドアが勢い良く開かれる。その粗暴な行動に、ソニアは溜息を吐きながら物思いから顔を上げた。


「お帰りなさい、けれど少し静かにしてノイジー……、え?」


 呆然と。

 大きく口を開いたままで固まるという淑女らしからぬ反応をしてしまうほど、予想通り開いたドアの向こうに広がる眺めはソニアにとって、予想外だった。


っ!?」


 そう。ドアの向こうには勿論ノイジーがいたのだが……不満そうに腕を組んで立つその姿は何故か、全裸だった。

 確か七歳と言っていたか、その割には貧相な身体には一切の布が付随していない。野性的な割には病的なほど白い肌、ところどころ骨の形が浮き出るほど痩せている。

 彼女は飢えていた――その事実を再び突き付けられ、驚き以上にソニアは強い憤りを感じ、そんな自分の情動にまた驚く。私はこんなに、他人に優しい人格者だったのかしら。


「もう、お待ちなさいっ! 身体を拭く前に出歩いてはいけませんっ!!」

 追い付いてきたミセス・クラリネットの叫びで、ソニアはようやくノイジーの髪から水が滴っている事に気が付いた。「申し訳ありません御嬢様、どうにか、身体だけは洗ったのですが……」

「構わないわ、ありがとうミセス・クラリネット」

 どう考えてもこのノイジーを洗うのは、二十年物のオーブンの掃除よりも大変だろうから。

「アタシは構うってのっ!」

 だんだんだんっ! とノイジーが床を踏み鳴らす。「アンタは着替えって言ってたじゃんっ! 魔猪みたいに水浴びせられるなんて聞いてないっ! しかも何あれ、身体中にまっずい泡擦り付けられたんだよ?!」

「だから口と目を閉じておきなさいと言ったでしょう!」

「アンタに言われたから、開けておいたんだよ」

「……貴女の苦労は良く伝わったわ、ミセス・クラリネット」


 やれやれと立ち上がり、ソニアはミセス・クラリネットからタオルを受け取り、彼女に『あっかんべえ』をするノイジーに近付く。それから、自分でも驚くほどの大胆さを発揮した――彼女の髪を、拭き始めたのだ。

 驚きに二人が息を呑む。ソニアだって驚いているのだから、当たり前だ。けれどもソニアは手を止めようとはせず、その行為に寧ろ自然なものを感じていた。


「……何してンの、ミザレット?」

「大人しくしていて、ノイジー。貴女の髪は長くて、波打っていて、それに見事なオレンジ色。まるで金木犀の花みたい、とても素敵だわ、しっかりと乾かさなくては駄目」

「…………」


 諦めたのだろうか、ノイジーは無言でされるがままになっている。

 まるで急に、淑女になったかのようだ。ミセス・クラリネットもひどく驚いて、二人の様子を見詰めている。


「さあ出来たわ。これで完璧なノイジーよ、服さえ着ればね」

「お言葉ですが御嬢様、その子の着ていた布切れでしたらまだ、使えません」

 ミセス・クラリネットが急速に疲れた声を出した。「と言うよりは、もう二度と使えないかもしれません。あれは服ではなく布です、それも汚れて傷んで死に体の」

「そりゃあご機嫌。あれ、ホント趣味じゃなかったしね」

「代わりの服を用意して、ミセス・クラリネット。どうせ持ってはいないでしょうから」

「……御嬢様」

「その『オジョーサマ』の言葉なんだからさ、文句言わずに従ったら?」

「それは違うわ、ノイジー」


 彼女の身体の細かい部分を拭きながら、ソニアは首を振った。


「ミセス・クラリネットは奴隷ではないわ。自分の意思で私を御嬢様、として扱ってくれているだけ。それに甘えてはいけないの、相応しく振る舞わなくては駄目」

「ふうん」

 意外にもノイジーは納得したようだった。「ま、アタシもこの口うるさいのに甘えないってのは、賛成だね」

「貴女が何かに賛成するのは驚きだわ、ノイジー。それも私にね」

 ミセス・クラリネットの顔を見て、ソニアはなるべく可愛らしい御嬢様と思われるよう心がけて、微笑んだ。「貴女と同じように、私も考えているわミセス・クラリネット。とにかく今はノイジーを、完璧なノイジーにしてあげて。私が昔着ていた服が、まだ何着か残っていたでしょう? それを着せてあげて頂戴。シュミーズは……最悪無くても良いわ」

「……畏まりました、御嬢様」

「ねえ、ブーツはある?」


 不意にノイジーが、彼女にしては平坦な声でミセス・クラリネットを呼び止めた。身体半分ドアを出ていたミセス・クラリネットだったが、その無感情さに思わず、立ち止まった。

 ソニアも首を傾げながら、反射的に記憶の物置を探る。


「どうかしら、あると思うけれど」

「アンタの分はあるの?」


 畳み掛けるように尋ねるノイジー。どうしてそんなに、靴に拘るのかしら。そういえば彼女最初に、どんな靴を履いていたかしら? 多分布の塊だっただろう、靴と呼べる物だったとは思えない。

 好みなのかとも思ったが、他人に趣味を押し付けるタイプとは思えない。粗野で暴力的な人格にも見えるがその実、あの子は頭が良い。

 だとすると――


「そりゃあ必要でしょ、ミザレット。

「……趣味が良いと一般的に言われるものを、私は良いと思ってきたわ。貴女と趣味が合うかは解らないけれど」

「じゃあ間違いなく必要だよ、ミザレット。解ってるの? アンタは生き残っただけ。?」

「「……っ!!」」


 戦慄と共に立ち尽くしたソニアとミセス・クラリネット。

 二人の石像の横を気軽に通り過ぎながら、ノイジーはニヤリ、虹色鱈の干物を棚に仕舞うのを目撃した猫のように笑った。


「ま、アンタたちの趣味の良さに、期待してるよ」

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