第6話ノイジーと『鍵』
結局、少女ノイジーの非文化的な食事は、ミセス・クラリネットの怒りが呆れに変わるまで続いた。パン、ハム、ソーセージ。
全く、感心するしかない食べっぷりだわ。明日の朝食料倉庫を見るのが、怖いけれど。
実のところミセス・クラリネットの表情から察するに、倉庫の中は恐らく、怖いどころの話ではないだろう。
それでもソニアは、ノイジーの食事を中断させようとが思わなかった。止める気がなくなるほど、彼女の食べっぷりが豪快だったというのもあるが何より、少女はずいぶんと痩せこけていたのだ。
指も脚も体つきも、コノエの河川敷を
どこでどのように暮らしていたのかは知らないけれど。少なくとも食事に関して恵まれた環境では、なかったようだ。履き古したボロボロのブーツに、傷みきって汚れの染み付いた布を寄せ集めて継ぎ接いだドレスの模造品は、それがノイジー自身の好みで無い限りは、ソニアの想像を担保してくれていた。
適当に一本でまとめられたゴワゴワの髪は、元の色が解らないほど泥で固まっている。そんな格好の痩せた子供からパンを奪うような真似、ミザレット家当主としては絶対に、出来ない。例えお目付け役に背後から、恨みがましく睨まれていたとしても。
「それじゃあ、ミス・ノイジー。満足したのなら話をしていただける?」
「満足はしてないけど、話はするよ」
恐ろしいことをさらりと言いながら、ノイジーはしかし顔をしかめた。「だからその、『ミス』ってのは止めてよね。
「解ったわ、えっと、ノイジー」
「よろしく、ミザレット」
ミセス・クラリネットが口を挟む気配を察して、ソニアは代わりに紅茶のポットを示した。
口を挟まないで貰うための口実ではあるが、ノイジーのお陰で食事の大半は紅茶になってしまったから、そこにはもう、今後の話に耐え得るだけの量は残っていないのは事実だ。
「……あいつはアンタの何?」
不服そうに無言で出て行ったミセス・クラリネット、その背中を見ながらノイジーは首を傾げる。「母親ってやつ?」
「いいえ」
思わず想像してしまい、ソニアは苦笑した。「違うわ、ノイジー。彼女は昔から仕えてくれている、私の家令よ――昔からね」
「ま、そりゃあそうだろうね」
「……訳知りなようね、ノイジー」
「教えを乞いたいってわけ? 肉ってやつを食べさせてくれた分、面倒だけど別に構わないよ?」
「いいえ」
そんなことはどうでも良いわ、ソニアは自分の好奇心に蓋をした。聞かなくてはいけないことを見失わないで、ソニア。この質問の権利は、今のミザレット家にはとても高く付いたのだから。
ミセス・クラリネットがお茶を淹れるまであと、どのくらいだろうか。その砂時計の残りはそのまま、ソニアが自由に情報を仕入れる事の出来る時間でもある。無駄遣いは出来ない。
「私が聞きたいのは幾つかあるけれど、先ず一つ前提として聞いておきたいの。貴女は――向こう側から来たのよね?」
「そうだね、ここを『こっち側』と呼ぶつもりなら」
あっさりとした返答に、ソニアは思わず言葉に詰まる。
それを横目で見ながらノイジーは、脂でベタベタになった指をベロリと舐めた。味が気に入ったのか、それともソニアの様子が面白いのか、唇は笑みの形に歪んでいる。
「呼び名はそれぞれ自由だよ、アタシはそう思う。あっちの方もアンタたちを、『鉄と煙の嵐の世界』って呼んで馬鹿にしてたしね。大事なのは中身をどれだけ知ってるかだよ、ミザレット。言ってみたら?」
「……私は『森』について聞いたわ」
答え合わせしてあげるよ、そう言ってソファーにふんぞり返るノイジーに、ソニアは記憶を整理しながら話す。「永遠の森。枯れる傍から芽生える草木、季節ではなくそれぞれの好みで咲く花」
話し出すと、言葉は冬明けの川のように止め処なく流れ出した。七年、いやそれ以上の間理性がせき留めていたものが、一気に飛び出している。
「精霊、魔獣、獣人、
ソニアは少し悩み、やがて彼女らしく意を決した。「――妖精。概念の結晶、魔法の化身」脳裏には忠実なるミセス・クラリネットの顔がちらつく、八百年変わらない顔が。「貴女は、
「半分当たりってとこかな。けど、ふうん……森ねぇ……」
不思議そうに、或いは納得したように。
ノイジーはゆらゆらと揺れながら、ソニアの様子を観察している。
いや、その視線はソニアの顔のごく一部に集中しているような。
「……私の顔に何か付いているかしら、ノイジー?」
「付いてないのかなと思って見たんだよ、ミザレット。アンタさ、見られたでしょ、あれに」
「そう、だと思うけれど」
影に浮かんだ眼球の群れを思い出して、ソニアは軽く左頬を撫でた。「……あれは何?」
「知らない」
ソニアは顔をしかめた。
どちらかと言うならこれこそ、ソニアが聞きたかったことなのだが。あんな生物――多分、生物よね――これまで一度も見たことがないし、見る予定も無い。聖国国立博物館に足跡の化石でさえ、寄贈されることはないだろう。
あれは、間違いなくこの世界の法則に属する謙虚さを持ち合わせては、いない。寧ろ対極の、無自覚に世界を壊していくタイプだ。
世界の破壊者。日常の侵略者。不気味で危険な存在について考えているからだろうか、ソニアは不可解な胸の高鳴りを感じていた。
ノイジーは全く真逆の感想を、この話題に感じているようだった。苛立ちに至る途上のような無表情で顔をしかめた、ソニアと同じように。
「あのさ、ミザレット。アタシがあんな得体の知れないヤツと知り合いだと思ってンの? それってかなり、心外なんだけど」
「それは、ごめんなさい。けれど同じ部屋から出てきたのだから、お知り合いだと思ってもおかしくないでしょう?」
ノイジーは鼻を鳴らした。「アタシとアイツは、同じ所から入ったわけじゃあないからね」
「どういうこと?」
「『双つの世界』について知ってる癖に、門については知らないって?」
からかうようなノイジーの言葉に、ソニアは何故か深刻では無い苛立ちを感じた。確りとした足場の上にいるような、安心に裏付けされた苛立ちだ。この言葉に対してソニアが怒ったとして、それに対してノイジーが怒り返したとして――控え目な表現だ、彼女は間違いなく怒る――二人の怒りの炎はけして、どちらの何も焦がしはしないという、そんな理解がソニアの心にはあった。
ノイジーも同じように感じているのかしら? 多分そうだろう、そんな気がする。
「勿論お父様は私に、『この世界への門をくぐってくる』とは言っていたわ。けれど……」
ソニアは地下室で見付けた輝く扉を思い出す。それから、娯楽小説や歌劇を参考に勝手に想像していた『境界の門』のことを。「それがあんな、普通の扉だなんて思わなかったわ」
ソニアは勝手に、『境界の門』はもっと神秘的な儀式で生み出される、特別なものを想像していたのだ。
見たとしても理解できず、誰にも同じように作ることの出来ない唯一無二のもの。きっと素材からして『向こう側』の物で、施された細工には未知の物語。その解読だけで人生を、二三人分捧げることになるような、空前絶後の大発見。
夢を見ていた世界だ、入り口だってもう少し、夢に落とす努力をして欲しい。
「ふーん……」
ノイジーはパタパタと、行儀悪く足を揺らしてソニアをジイィッと見詰める。
夕暮れ色の瞳にやがて面白がるような色が浮かび、彼女の唇を笑みの形へと吊り上げていく。
ノイジーの振る舞いでソファーがギシギシと不吉に軋むのを見ながら、ソニアは気が気では無かった。七ルナ三十スター。もしソファーが壊れたら、ミザレット家は瞬く間に破産することになる。
薄汚れた暴君がソファーの上で立ち上がった時、ソニアは思わず悲鳴を上げてしまった──ひどく失礼かもしれないけれど、ノイジーが弁償できるとは思えないし。
「アンタの言ってる『門』ってのはさ、ミザレット。これでしょ?」
何を、と問う間も無かった。実際にそんな暇があれば、降りなさい、とソニアは叫んでいただろうけれど。
ニマニマと意地悪そうに笑いながら、ノイジーはソニアに指を突き付けた。
ひな鳥の骨よりは多少ふくよかな人差し指を、ナイフのように真っ直ぐに伸ばして、脅すように。
「何を……、っ!?」
無遠慮な仕草にソニアといえど、流石に注意しようと口を開きかけたと同時にそれに、気付く。
突き付けられた指先が半分虚空に消えて、空間が歪んでいることに。
波紋。水面に石を投げ込んだときのように同心円状の波紋が、指の断面を中心として断続的に発生している。断面そのものは波紋のせいでぼやけていて、空間がそこで途切れているようだ。衝撃的な情景を見ることが無かった安心感が、随分悠長に湧き上がってきた――あまりに常識から外れすぎていて、他の些細な、どうでも良いような事に意識領域が奪われてしまうのだ。
「あはははっ! 良いねミザレットその、
「……今のは、何を……?」
「『鍵穴』に『鍵』を突っ込んだの」
スポスポと軽快に、ノイジーは指先を出し入れする。「アンタも少しは知ってる通り、『ここ』と『あそこ』とは繋がってる。そこには『門』があって、なら当然『鍵』が掛かってるでしょ?」
「それで貴女は『鍵』を、持ってるということ?」
「試してあげようか?」
ニヤリと笑うノイジーが、手首を軽く捻る。
併せて波紋が徐々に、激しさを増していく。凪いだ水面のようだった空間が波立って、不吉な嵐の到来を予言している。外は嵐だよ、お父様が言っていた。困ったように笑いながら、ドアノブを捻ろうとする幼いソニアを、穏やかに押し留めていた。
あの時のソニアが、ノイジーの隣で笑っている。
「…………」
「……?」
それなのに、いつまで待っても何も、起こらない。中途半端に捻られたままで止まった手首を、ソニアは少し見詰めてそして、視線を痩せた子リスの顔に移す。
ノイジーは、先程までの上機嫌は何処へやら、実に不機嫌そうだ。そう、それこそ『雷鯨が水ぶっかけられた』みたいな顔だ──スカイホエルとやらが何なのか、知らないけれど。
訝るソニアの前で、ノイジーは指を引っこ抜いた。
「どうしたの、ノイジー?」
「…………アンタさ、もしかしてなんだけど」
すっかり気分が落ちたのか、ノイジーはソファーにポスン、と腰を下ろした。「この『門』から飛び出すのが、人畜無害なヤツばっかりだと思ってる?」
「そんなことはないわ、ドアの向こうはいつだって嵐よ。無邪気に開けたら、あっという間に風に拐われるわ」
そうね、とソニアは一つ頷いた。「開けないのならそれで良いわ、嵐の日に窓を開けるなんて、危ないものね」
「…………」
ノイジーの沈黙に、ソニアは首を傾げる。
ついさっきまで彼女はあんなに、楽しそうに嬉しそうに笑っていたというのにどうして、どうして──あれほど不快そうなのかしら?
「……デモンストレーションが終わったのなら、ノイジー、色々と身支度を整えましょうね」
「みじたく? あぁ、『着替え』ってやつ? へぇ!」
ノイジーの機嫌は急速に回復した、ソファーにとっては不幸なことに。「そういうのって女王様しか出来ないと思ってたよ。アンタ、もしかして偉いの?」
「女王ほどじゃあないわ、けれどもそうね、偉くはあるわ」
今のところは、だけれど。「貴女のサイズに合う服は多分、それほど流行に沿ったものではないと思うけれど」
「良いじゃん、アタシ、いつかこの服を棄ててやりたいと思ってたんだ!」
そう言って嬉しそうに、楽しそうに。笑いながらソファーの上で逆立ちするノイジー。
その足から剥がれ落ちたのが泥の塊だと気付いた時、ソニアは次の段取りとして風呂を、最先端に決めた。
「…………」
銀盆に載せた紅茶から、徐々に徐々に風味が落ちていく。
基本的に茶は、主人の下に運ばれた時点で最高の飲み心地になるよう計算して、淹れる。キッチンから居間までの道のり、そこに掛かる時間を完璧に記憶していてこそ、例外的な女家令という立場にミセス・クラリネットは居られるのだ。
それでも今、ミセス・クラリネットは自慢の茶葉を無駄にしている自覚はありつつも、ドアの隙間から部屋を覗く以外に何も、出来なかった。
あぁ、とミセス・クラリネットは沈鬱な思いを心に満たした。ノイジーと同じく、彼女もそれを見てしまったのだ。
それ──ソニアの、表情を。
「御嬢様……」
ソニア・ミザレットはけして愚かな小娘では、ない。彼女は賢く、今時の女性らしく知識も豊富だ。
常識がある。良識もある。己の限界を正しく判断できる。
なのに、あぁ、なのに。
どうして貴女は笑っていたのですか?
ミセス・クラリネットの立ち往生は、結局茶を淹れ直さなくてはならないほどに続いた。
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