第5話影とノイジー

 かつてアードライト聖国の偉大なる冒険家、ヴィアゴ・【ロングホーン】・オデュッセイはその名が『波乱に満ちた冒険オデッセイ』として残る程の大冒険の中で、風砂月海ユンハルトゥラ大陸での現地人との出会いをこう振り返っている──彼らとの交流には勿論困難が予想されたが、夕食の席に紅茶とミルクが無かったことで決定的となった。彼らが食後に音を立てて煙草の葉を噛み始めた時には、私の心は既に船上に在って、もっと文化的な島を目指していた──と。


 食文化は交流の難易度を計る最も初歩的な指針だ。互いに差があればある程、相互理解は難しくなる。肉の焼き加減はまだ良い、茶葉や酒の好みなら要警戒といったところ。

 そして目の前の光景をミセス・クラリネットに教わった判断基準に照らし合わせて、ソニアは夜警への通報を何とか思い止まった。本当にギリギリの判断だった、あともう一つ何か悪い要素があれば、ためらい無く通報していただろう。


 当のミセス・クラリネットは通報を強く主張した。


「どう考えても御嬢様、夜警を呼ぶべきです! どこの誰とも知れない侵入者への待遇は、良識ある聖国民としてはそれが当たり前です!」

「その気持ちは良く解るわ、ミセス・クラリネット。私だって『良識ある聖国民』よ、治安の維持がどれだけ大切かは充分に、理解しているわ」

「でしたら!」

「けれど」

 ソニアはちらりと、の方を見た。「あの子は飢えていたわ。見捨てるなんてことは出来ないわよ、『良識ある聖国民』としてはね」

「そのお考えは、御嬢様。私とて御立派だと思いますが……」


 言葉を濁すミセス・クラリネット。何度も言うようだが、彼女の気持ちも解る。目の前の光景はソニアにしても、夜警への通報を本気で考える程度にはひどい、正しく惨状を呼ぶに相応しい光景だったから。

 散らばった皿、役目を放棄したテーブルクロスと引き継がされたカーペット。壁にはソース、床にはパンくず、鳥の骨。以前下男のジョシュがミス・ルルラをな食事に誘った次の日聞いた感想を、ソニアは思い出した――酒場の連中は食事を絵の具と勘違いしてる、床専門の下手な画家だわ――ミス・ルルラが見たものはきっとこれだろう。

 少なくとも淑女の居間で見て良い光景ではない。


「……ねぇ、小さなお嬢さんミス・リトル。一つ聞いても良いかしら?」

「んぐんぐ……ミス……何?」

 口いっぱいに黒パンを頬張ったままで、は首を傾げた。「それアタシのことフォレファタフィノフォフォ?」

「口に物を入れたまま喋ってはいけません! 食べ終えてから話しなさい」

そっちが聞いたんじゃんフォッヒガフィイタンファン!」

 ミセス・クラリネットの叱責に、少女は直ぐさま抗議の声を上げた。睨む瞳には激しい怒りの炎が、燃え盛っている。「気にするんなら大人しく待ってなよ!」

「まあ、何という下品な言葉遣いでしょうか! 御嬢様、やはりこの子はミザレット家の居間に相応しいとは思えません!」

「アンタは相応しいっての、『レッゼ』?」


 揶揄するような少女の口調に、ソニアは首を振った。レッゼ、レッゼツァイヒェン。妖精たちのお気に入り、老化機構不全症候群、停滞者。家で、家族をそんな風には呼ばせない。



 少女は、意味の解らない呻き声を出した。

 どちらか解らないときは都合の良いように解釈するべし、ガルネルシア候の教えに従ってソニアは、その鳴き声を同意と受け取ることにした。


「食べ終わったのなら話を聞かせて頂戴、ミス・リトル。貴女と――」

 ソニアはそっと、左瞼を撫でる。脳裏に浮かぶのは、の光景だ。「貴女と、









 手を掛けた瞬間、ドアノブは回っていた。

 何の抵抗もなかった。少なくとも七年間、お父様が消えてから誰も触れていない筈のドアノブが、錆の気配もしない何てことがあるのかしら。

 そこで気付く。、それも一枚の板から作られているのだと何故か、気付く。


 気付く、気付く、気付く。

 どういうわけだろうか、どこかの誰かに無理矢理教えてもらったみたいにソニアは、気付いた。扉はきっと今日、この時のためにここに在ったのだ――


 後にして思えば──全く、夢見心地なこと。独り善がりの気付きなど所詮は夢だ、見たいものを見たいようにして見ただけの、夢。フィーバーヴィジョン、熱に浮かされた戯言。


 何にせよ扉は開かれた。

 そしてその瞬間にソニアは、『扉にはがある』という極めて単純な事実を思い出した。開かれたのならあとは、侵入はいってくるだけなのだ。


 ──その交錯は一瞬だった。


 扉以外に光の無い地下室で、勢い良く飛び出したそれは正しく影だった。確固とした形を持たず、ただぼんやりとまとまった黒い霧。

 その一瞬だけのすれ違いでソニアは、黒影にギョロリと蠢く眼球の群れを見出だした。


 埃を被りつつあった母の部屋で、窓際に置かれていた白樺の鏡台。そこの引き出しに入っていた宝石箱を、思い出した。必要に駆られてソニアはその、ため息が出る程美しかった小箱を中身ごと売り払ったのだが。

 今でもあの、数種類の宝石の欠片を散りばめた蓋を鮮明に思い描くことが出来る──金貨の詰まった袋と引き換えにそれを差し出した、苦い惨めさと同時に。

 赤、青、黒、茶色、深緑色に金色、或いはそれらの幾つかが複雑に絡み合った紋様など。影の一角を乱雑に埋める眼球の群れはそれほど、至宝の財宝のように美しく見えたのだ。


 流れていく芸術に吸い込まれるように、ソニアの左目が影を追って動く。脳裏に浮かぶ思い出の品との類似点を、何処かに探すように。


 それが間違いだったと気が付くまでに、長い時間は必要なかった。

 単純な話だ。ソニアは見た、。好き勝手に蠢いていた眼球が一斉に、ソニアの左目と視線を合わせたのだ。


「…………っ!?」


 ゾゾゾゾゾッ、と。

 音を立てて全身の血の気が失せる──不安、無理解、恐怖、嫌悪、冒涜。理由もなく、或いは理由を理解できないまま、生命の危機を本能が声高に叫ぶ。死亡届にした署名、ガルネルシア候の笑み、紅茶、ミセス・クラリネットのトースト、父の穏やかな声、見覚えの無い母の笑顔。理性が人生をまとめに掛かる。死、死、死。ソニアは自分が惹かれていたのが芸術、それも、酷く不気味な生物であることを漸く理解した。


 ありとあらゆる負の感情が眼に突き刺さり、脳の髄まで染み渡っていく。あぁ、死ぬ。実際には傷一つ負っていないにも拘らず、ソニアの心が死を受け入れていく。



 叫び声が、死の影に追い付いて来た。まだまだ幼さの残る、良く言えば若々しく瑞々しい、生命に満ちた声。

 静かで美しい死を追い立てるように、騒々しい生命が扉から飛び出してきた。


 残ったソニアの右目がそれを眺める。獣のように尖った爪、黒い鱗に覆われた枝のような指。五本指の鶏の脚を思い起こさせるそれが真っ直ぐに、寄越せ寄越せというように、黒い影へと伸びていく。

 長い爪の切っ先がたなびく黒い影の、その裾の端に、届いた。


『ッキアァァァアアァッ?!』

「おぉっと?」


 甲高い声。意味の解らない、そもそも聞いても言葉として成立しないそれは、。生命に反するモノ。視線だけでソニアに死を覚悟させた黒い影が、突き立てられた爪に有り触れた、生物らしい悲鳴を上げている。生命の危機を、彼ないし彼女は与える側から瞬く間に、与えられる側へと転落していた。

 鳴り響く悲鳴は、長くは続かなかった。影は勿論ヒトではないから、迫る危険に獣じみた応対を見せた――爪が刺さった部分を蜥蜴のように、切り離したのだ。


 勢いをいきなり返された手が体勢を崩して、扉の中へと転がり落ちる。影は、それを見届ける時間も惜しいとばかりに脇目も振らず、壁を這うようにして駆け抜けていく。

 ソニアが落ちてきた穴に入った後はもう、正しく影も形もなかった。我に返ったミセス・クラリネットが慌てて穴を覗き込んだが、直ぐに首を振った。


「見失いました、申し訳ありません御嬢様……お怪我はありませんか?」

「えぇ、大丈夫。それよりも……」


 それよりも。

 去って行った脅威のことは一先ず後で良い。問題はそれよりも、脅威の方だ。しかもそちらの方はあの黒い影を、爪先だけで追い払った。危険性でいえば間違いなく、あの黒い鶏腕の方が高い。


 扉を閉める、という選択肢は無い――既にソニアは扉から二歩、離れてしまっている。あの影に追い付くほどの速度なら、万年運動不足の貴族令嬢が駆け寄って扉を閉めるまでに、幾らでも開け閉めできるだろう。まして今回扉は開いている、ただひょいと、身体をくぐらせれば良いだけだ。

 出来ることは二つだけ。覚悟すること、そして貴族らしく出迎えることだ。


「……何者ですか?」


 告げる。

 背筋を伸ばして、声に力を込めて。開け放たれた扉の向こうへ、興奮と恐怖で暴れる心臓の鼓動を威厳へと無理矢理に変換して。

 自分に問い掛けるのよ、ソニア。私は誰、私はソニア・ミザレット。【十三階段】三段目の貴族。ミザレット家の当主。ここは何処、ここはミザレット家。私の家。誰であっても『相手に合わせて』『もてなして』みせる。


「私はソニア・ミザレット、この家の主です。知性があるのなら、名乗りなさい」

「……?」


 驚いた、返事が返ってきたことに。

 ミザレット、ミザレット。幼い声はブツブツとソニアの名字を、舌の上で転がしている。味わいを試すように、舌触りを確かめるように。


「あはははっ!」

 疑問の種が芽吹くよりも早く、扉の向こうから笑い声が鳴り響いた。「そっかそっか、!」

 ソニアの返答は溜息から始まった。「言葉は使えるようだけれど、話は出来ないようね。私は名前を聞いたのだけれど?」

「んんん? 、何々アンタ、何でそんな機嫌悪いわけ?」

「……へぇ」


 一転して冷えた声には、納得の響きがあった。

 八つ当たりにも似た言葉に、ソニア自身引け目があった分静かな答えは意外だった。


 がしり。

 意外性に揺れた心を、状況が更に揺らす──扉から両手が、ドア枠を握り締める。出てくる、指先に力が籠るのを見ながらソニアは、全く別のことに気を取られた。


 切り揃えられた爪、筋張った細い指。その手はどちらも──


「名前を聞いたよね、ミザレット」

 順繰りに現れたヒトの、幼い少女のパーツ、その中で歪んだ唇が楽しげに踊っていた。「アタシはノイジー。ところで──?」

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