第4話地下の地下
ソニアがパンを食べ終えるまで装備を厳選し、結局、ミセス・クラリネットは自らの主人に
「雨外套はともかく、グローブ?」
ゴムの感触に顔をしかめながら、ソニアは首を傾げる。
「以前料理人が一週間ほど休んだのを覚えてらっしゃいますか?」
ソニアは頷いた。「発熱と腹痛、それに頭痛が出ました。彼は地下室でネズミに噛まれ、そうなったのです」
ソニアは黙って外套のボタンをしっかりと閉じて、グローブを填める。ミセス・クラリネットも同じように、身体のほとんどを厳重に覆い隠した。
階段を降りて、居間の奥へ。
地下室の入り口は屋敷の北東の端にある。廊下の一番奥、一見すると行き止まりにしか見えないような飾り気のないドア。
ミザレット邸には、石炭や食材の貯蔵庫がキッチンの地下にある。日常的にはそちらだけで事足りるため、昔から滅多に地下室を使うことはなかった。
「何代前でしたか、大して見る目もないくせにやたらと骨董品を買い漁る当主がおりまして。価値の無い物が、ひたすら積み重なっていたものです」
「お父様はそれを、良く整理していらしたわ」
ハンカチを口に当てて、それでも染み込んでくるカビと埃の臭いに辟易しながら、ソニアは懐かしさに頬を緩める。「一つ一つ、何に使うものかを説明してくれたの」
「覚えておりますよ、お陰で御嬢様のスカートは何度もダメになったものです」
けれど得られたものはあったわ、ソニアは積み上げられた文字通りのがらくたの山を見回して、その中のいくつかを指し示した。それらはお父様が特に、興味を持った品物だった。
机だったり、或いは謎の置物だったり。
もしもお父様が何か、最愛の娘に残すものがあるとすればきっと、ここに隠す筈だ。
結論から言って、四時間以上の探索は無駄に終わった。心当たりの品を入念に、それが置かれていた地面の周りさえ這うようにして探したが、隠された秘密は何一つ見付からなかったのだ。
埃が舞い上がる、ソニアは自分が溜息を吐いていたことに気が付いた。自覚すると同時に精神的な疲弊感が湧き上がり、もう一度、深く溜息を吐いた。
吐いた息を吸い込むと、温かな香りが鼻腔をくすぐる。
「そろそろ一息入れませんか、御嬢様?」
「ありがとう、頂くわミセス・クラリネット」
上に戻りたそうなミセス・クラリネットには悪いけれど、ソニアは未だ戻るつもりは無かった。適当な樽の上をハンカチで払い、そのまま敷いて即席のテーブルを作る。視線でティーセットを置くよう促すと、ミセス・クラリネットは嫌そうにしながらも大人しく従い、手近な小箱をイス代わりに仕立て上げた。
良い味だ。多分、というか間違いなく良い茶葉ではないがそこは流石のミセス・クラリネット、技量だけでその風味を数段階引き上げている。
「良い味だわ、ミセス・クラリネット。これなら――貴女の今後は安泰ね。炊事洗濯、掃除、家計管理まで貴女はこなせる。
私と違って、という言葉がソニアの言外に漂っている。そんなことを言ったらミセス・クラリネットは血相を変えるだろう──御嬢様のような方が『働く』だなんて!
彼女は忠実だが、魂と同じように考え方も古い。女性がドレスの不自由さに我慢する、逆に言えば動かなくても良いような時代ではないというのに。
言葉に出来なかった劣等感は雪のようにソニアの心に積もっていく。ソニアは料理も洗濯も、掃除だってやったことがない。やれば出来るだろうし練習の機会も今後は増えるだろうけれど、それで金が貰えるとは思えない。金銭とは出来ることの対価に支払われるものだ、『やろうと努力すること』は対象ではない。
ソニアに出来るのは読み書きと計算。そしてそれらは、残念ながら女性の仕事ではない。
ミセス・クラリネットは曖昧に微笑んだ。
「ありがとうございます。しかし私の今後は御嬢様、貴女と共にありますよ」
「……まだ、考え直すつもりはないのねミセス・クラリネット。貴女だって気付いているでしょう、私にはその、未来さえ今は見えない」
少なくとも指輪は見当たらなかった。
指輪がなくては口座は使えない。先の職員とのやり取りを思えばそれは間違いない、彼は、口座を使わせないことで利益を得る立場にいるようだ。
口座が使えなくては金貨二百枚は夢のまた夢、半分だって用意は出来ない。そして用意が出来なければ、ソニアは完全に路頭に迷うこととなる。
「ご安心ください御嬢様、もしそうなっても私が、御嬢様に辛い思いはさせません」
「それこそ駄目よミセス・クラリネット。私のために貴女が辛い思いをするなんて、そんなことは絶対に駄目。安心して、そうなったら私だって、どうなってでも生きていけるわ。ほら」
ソニアはポン、と手近なタンスにもたれて見せる。「こんな埃の中ででも全然平気……」
「御嬢様っ!?」
埃を被ったタンスに体重を掛けた瞬間、ソニアの身体は宙に浮いた。古い古いとは思っていたがそのタンスは、ソニアが思うより遥かに時の流れに晒されていた──元はさぞ立派な黒柏の板だったろうに、中心から腐り落ちた戸は痩せっぽちのソニアの体重でさえ、耐えきることが出来なかったのだ。
酷い音と共に支えが消失したソニアの身体は、そのまま、タンスの中へと転がり落ちる。
落ちる、落ちる、落ちる。
上と下とがぐるぐると回る、何度も何度も。
何故、乱暴に
異世界まで転がるかと思っていたソニアの身体は、体感的にはともかく客観的には幸いにも、それほど長い間転がること無く底に着いた。
「痛っ…………」
強かに打った肩と腰を摩りながら、ソニアはよろよろと立ち上がる。無意識の内に頭は守ったようで、その代わりにドレスの袖は散々な目に遭ったようだ。捲ってひりひりと痛む腕の状態を確かめる、そんな勇気は無かった。
取り敢えず、出血はしていない。
「……御嬢様ぁぁぁっ! ご無事ですかぁぁぁっ!」
「大丈夫よ、ミセス・クラリネット!」
頭上からの呼び掛けに叫び返す。
見上げた先はぽっかりと、黒い穴が開いている。目を凝らすと穴は捻れていて、お陰でどうにか、骨などを折らずに済んだようだ。
ということは。ソニアは自分の脚を撫でた。
「ミセス・クラリネット! 悪いのだけれどロープか何か、持ってきてくれる?! そうすればどうにか、這い上がれると思う!」
「畏まりました! それまで暗くて心細いでしょうけれど、どうか落ち着いて下さいね!」
「…………暗くて?」
そう言えば、とソニアは辺りを見渡す。
タンスから自分は落ちた筈だ――背板か何処かが腐っていたのだろうけれど、そこから床に開いた穴に運悪く繋がって、そうしてとにかく下へ下へと落ちたのだ。
ここは地下室の、更に地下だ。竪琴弾き曰く。下は死と病の世界であって、太陽の領域では無い。
それなのに。
辺りを見渡すことが出来る。粗野に掘られたと思しき剥き出しの岩盤、ごつごつとした洞窟のような壁や足下を確りと、ソニアは見分けることが出来た。明るいのだ。石炭を節約しているミザレット家の中よりも、もしかしたら。
どこかに光源があるのだろう。けれど、どうして? ここはどう見ても、北の
何か、の答えは直ぐに見付かった。何しろ光っているのだ、眩しい方を向けばそこにある。
光っていたのは――、
「……古い、扉?」
それは、正にドアだった。古いが質の良い一枚板から切り出された、淡く光っている以外は立派な扉。一面に彫刻が施されていて、美しい女性が中央に、金木犀の冠を被った彼女の周りは深い深い森になっている。
何かの絵だろうか、それとも伝承の一幕? どことなく見覚えがあるような気がして、ソニアは慎重に、そのドアに近付いていく。一歩、一歩。淡い暖色系の光はソニアが近付くほどに徐々に、その強さを増していったが、彼女は気付けない。今はただ、彫刻の柄がやけに気になる。どこかで見た、どこで見たのだったかしら? もっと良く見よう、もっと近くで見ればきっと、きっと思い出せるはず……。
がしり、背後から手首を掴まれた。
「御嬢様!」
「……ぁ、ミセス・クラリネット……?」
「行きましょう御嬢様」
ミセス・クラリネットはちらり、光る扉を見て断固とした口調で言った。「此処に居てはいけません」
「でも……」
「いけません」
深緑色の瞳から強い意思が放たれる。手首を掴む白蔦の如き指には、常にはない必死さがソニアの柔肌に痕を刻む。
ミセス・クラリネット。礼節に顔を描いたような人物にしてはやけに、その行いには違和感が濃い。唯一にして最も忠実な女家令に、疑念を抱かせる程に。
「さあ、戻りましょう御嬢様。もう夕飯の時間です、ささやかですがお食事を用意しておりますので」
「……ミセス・クラリネット」
「はい?」
「ごめんなさい」
大人しく着いていくように見せたお陰で緩んだ手を振りほどいて、ソニアは一息に扉へと駆け寄った。
確信があった、この扉には夜中の読書に便利だという以外に何かがある。ミセス・クラリネットが隠したがるような、何かだ。それは間違いなく、父に関わること。
そもそもおかしいとは思っていた。ミセス・クラリネット、何百年もミザレット家に仕える彼女が父の失踪を全く見落とすなんて、そんな失態を犯すわけが無い。絶対に。ミザレット家のことで彼女が知らない事なんて、チーズ一欠片だってあり得ない。
それなのに、ミセス・クラリネットは父の失踪当日に何をした? まあまあ心配することなど有りませんよ御嬢様、紳士というのは時々息抜きが必要なのです、それよりどうですジンジャーケーキを焼きましたよ、だった。
あれ以来聖伐記念日の夜でさえ、ソニアはジンジャーケーキを食べていない。父が戻らなかった今、もう食べることは無いだろう。
思えば心のどこかに、ずっと、違和感の種は埋まっていたのだろう。ミセス・クラリネットが何かを隠しているのでは、そう思ったことは一度では無い。でも何を? 彼女はずっとミザレット家のために、ここ最近はソニアのために尽くしてくれていた、充分な報酬も無いのに。
それには感謝している。悪意が無いことも知っている、ミセス・クラリネットの行動は全てソニアのためだ。けれどもいつか、子は親の庇護から巣立たなくてはならない。その時は今だ。
「御嬢様っ!」
ミセス・クラリネットの悲痛な叫びを背中に聞きながら。
ソニアは扉のノブを捻った。
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