第3話必要な証明

 貴族院を出ると、空は曇天だった。

 ソニアの気持ちを代弁しているようだ、と言うと少々わざとらしく聞こえる。何せこのトライレイブンの街は一年の大多数が曇り空で、中でも火の月は半ば過ぎには雨季に入る。これでいったい、何が火の月なのだと戦神マチューバ様も呆れ顔だろう。


 ともかく事実として空は曇っていて、ソニアの気持ちも沈んでいた。雨が降りそうだ、どちらの空にも。

 行きと同じく貴族院付きの馬車が待っていた。ハイヒールを履いてきたソニアには、無料の馬車は有難い措置だ──いつかブーツが儀礼衣装フォーマルになる日が来ると良いのだけれど。


 御者は無言で、どころかうつ向いたまま、ソニアの顔も見ないでドアを閉めた。無礼にも思えるが、これが社会的なソニアの地位だと思うと何も言えない。


 ガルネルシア候の対応は予想通りだった──極めて単純明快な対応、一言で言うなら『金を払え』。貴族としての能力、その証明は良くも悪くも金貨で城を築けるかということらしい。

 全く見事な手法だ、経済力というのはどんな言葉より雄弁に人となりを語る。ソニアは結婚相手を探す時にそれを見ろと言われたが、それ以前の付き合いにも当てはまるようだ。但し、今回は自分が審査される側だが。


『とある筋から、としか言えないのだがねミス・ミザレット。どうやら最近、多くの使用人に暇を出したようだ』

 実に気の毒そうに、ガルネルシア候は言った。『家財や美術品を売りに出してもいるようだな、それを根拠に君の能力と資産を疑問視する者がいるのだ』

『……何段目ですか?』

『五段目だ、それに四段目も賛同した』


 それに貴方も反対しなかったのですね、とはソニアは言わなかった。

 計略の一つだと理解している。こうして表に出てくる単純な悪意などたかが知れている、ならば早い内に潰しておく方が良い。

 それに──ガルネルシア候は絶対に認めないだろうけれど──ソニアの資質に疑問があるのは二段目も、きっと同様なのだろう。内密に売り飛ばした絵の中には、ガルネルシア候が友人に描いた油絵も含まれていた。


『金額は二百ルナだ』

 敢えて何でもないことのように、ガルネルシア候は宣告した。『言っておくが、最大限に譲歩した結果だ』


 詰まり、どうしようもないということ。

 思ったよりも不味い状況に歯がみしながら、ソニアは刺繍入りのハンドバッグレティキュールから預金通帳ゴールドスミス・ノートを取り出した。


『ご覧になって頂ければお解りになるでしょうが、ガルネルシア候。ミザレット家の資産には断じて問題はありません』

『だが口座そのものに問題があるようだな。職人協会のミスター・グランビアルが教えてくれてな、君が口座を利用するために別な方法は無いかと相談してきた、と』


 あのお喋りめ、とソニアは喚き散らしたくなった。もし手にしているのがリーラ・リーラのティーカップでなければ、恐らく壁に投げつけていただろう――もしかしたら、壁ではない方へ投げるかもしれないが。


『方法は問わん、無論だが。次の会合の時までに儂の前に、金貨を積み上げろ。でなければ、非常に残念な決定をせねばならん』


 あぁ全くと、ソニアは苛々と記憶を打ち切った。

 価値を証明し続けること、それが貴族に求められる義務だ。それは解っているがしかし今回は、不必要な証明としか思えない。家を継いだばかりの若輩を如何に貶めるか、それだけを考えている偏屈な者が、悪意に満ちた罠を仕掛けた。それだけのことに踊らされる羽目になるとは。


「それでも、どうにかしなくちゃ……」


 口座には黄金が、金貨で五千枚分はある。

 下手な金策に走るよりは、金銀細工師の大袈裟な利用制限を突破する方が堅実だろうか。あぁお父様、どうしてあなたは、指輪を片方しか残さなかったの?

 答えはけして帰ってこない。父が帰ってこなかったように。


 今の自分に残されたものは半分だけの証、家、名前そして、ミセス・クラリネット。我が唯一にして最高の従者。それらを守る。それだけを考えて、私は生きていくのだ。


 馬車が止まる。

 御者がドアを開けるのを待ちながら、ソニアは今後を計画し始める。最終的な目標は決まっているし、あとはそこまで、どうにかして辿り着くしかないのだ。









「全く、何てことでしょう!」


 ミセス・クラリネットは話を聞いて、当然ながら激しく憤った。

 羽根飾りの帽子を脱ぎ、日傘パラソルを置いて、ソニアはミセス・クラリネットの手を借りながらドレスを脱いだ。財政難のミザレット家に残った数少ない余所行き用のドレスから簡素な、それ故に丈夫な普段使いのシュミーズドレスに着替える。

 脱ぎ捨てたドレスを、丁寧に仕舞い込む。この黒いジゴ袖のドレスはかなり流行遅れだが、今となってはかなり貴重な品だ──衣装箪笥クローゼットの中身は最早、南方大陸のミンクサハラぐらい荒廃しきっている。儀礼的な舞台に辛うじてではあるが耐えきれるのは、この一着だけなのだ。


 シュミーズドレスは楽だが、石炭が貴重品の我が家にとっては、いささか力不足な程薄手だった。ミセス・クラリネットが差し出したショールを羽織るとソニアはようやく、今日初めての温かみに触れたような気がした。


 それから、忠実なる女家令が淹れてくれた紅茶を、有り難く頂く。砂糖は生憎、使えないけれど。それにあぁ、パン! 蒸し鶏のチョップと青菜のマスタード和えクラリネットスペシャルを挟んだ黒パンは、朝からほとんど何も食べていないソニアにとって正に、ご馳走だった。


「ガルネルシア候と言えば、旦那様の無二の親友でいらした方ですよ! それが随分じゃあ、ありませんか!」

「仕方がないわ、ミセス・クラリネット。あの方にも立場というものがあるもの」

 それに、とソニアはパンを切り分け口に運んだ。「あの人の絵を売ったわ、私たち」

 ミセス・クラリネットは肩をすくめた。「それこそ、こちらにも事情があるということです。大した額にもなりませんでしたしね」

「それを言ったらもっと怒るでしょうね。ガルネルシア候どころか、貰ったお父様にも申し訳がないもの」

「旦那様はあの絵があまり、お好きではありませんでしたよ」


 それも黙っておいた方が良いだろう。全く、銅貨一枚にもならない秘密ばかりが増えていく。それを仕舞っておくための秘密の引き出しにさえ、今、ソニアは事欠いているというのに。

 皿を少し避けて場所を作ると、ソニアは机に使い込まれた家計簿を広げる。ミセス・クラリネットから引き継いで以来、この赤い表紙の帳面と万年筆はいわば三つ目の腕であった。


「とにかく今大切なのは、お金を稼ぐこと。今、私たちが自由に使えるお金は幾らくらいあるかしら? 週初めには確か、二十七ルナ八十スターあったと思うけれど」

「御嬢様に預かった三ルナは、残念ながら肉代と石炭、それに野菜を買ってしまいました。肉代は但し、先月分ですが」

「ミスター・ビンクスには五ルナ渡したわ。それにお父様の手続きに十ルナ、あぁいえ、墓地に名前を彫って貰うのに二ルナ五十スター余計に払ったわ。とすると……残りは七ルナ三十スターね……」


 数字を書き込んで、ぐったりと背もたれに体重を預ける。七ルナ三十スター。具体的に示された現状は、ソニアの気分を曇天どころか大嵐に突き落とすのに充分な威力を持っていた。七ルナ三十スター。右肺地区でミセス・クラリネットと二人、どうにか一月暮らせるかどうかといった程度の金額だ――それも、相当に節約をして。

 【三段目】の特権として水道が無料なのがせめてもの救いだった。この上で水道使用料まで取られていたら、恐らく二週間でソニアたちは路頭に迷う。


「ミザレット家の口座はやはり、使えませんでしたか?」

「えぇ。あの職人たちは寧ろ、私の破産を望んでいるようにも思えるわ。目前の黄金を誰の物でもなくしたいのでしょうね」

「ろくでもない連中ばかりですね、全く。昔は彼らも、自分の技術に誇りを持っていましたよ。それを信頼し黄金を預けられることにも、同じように考えてほしいものですが」

「誇りって磨かなくてはいずれ錆びるものよ、そして磨く布は高価なの。ヒトによっては払う気も無くなるくらいに。さあ、ミセス・クラリネット。私たちはこれから一財産、築かなくてはならないわ。何かアイディアは無いかしら?」


 悩む素振りの末、ミセス・クラリネットは申し訳なさそうに首を振った。


「私ではとても、思いつきません御嬢様。恐らく何か、価値のある物を売りに出すしか無いとは思いますが……」

「それも難しい、わよね……」


 書斎を、そして自宅のどこかを想像しても同じだが、ぐるりと見回せばそこにことが解るだろう。値の付く物はそれこそ銀食器から花瓶まで全て売り払った――絵画も含めて。

 鑑定に来た【個人商店街モノポリー】は屋敷の惨状を見て目を閉じた、彼は一言「値踏みするべきものはありません」とだけ宣言すると、以降一度も目を開けることは無かった。


「……地下の物置を探してみましょう。もしかしたら何か、売れる物が残っているかもしれないわ」

 専門家がさじを投げた荒野に果たして何が埋まっているか、ソニアにそれが見付けられるか。問題は多い、だが、やるしか手は無い。「それにもしかしたら……」


 父が失踪する前、最後に目撃されたのは正にその地下室だ。そして父は当主の指輪をいつも、身に付けていた。

 ソニアの枕元に置かれていた一つ、だとすればもう一つは、父が填めたままだったのではないか。それか、或いは外してどこかに隠したのでは? 隠すために地下室に行ったのでは?

 可能性は低い、だけれどもし指輪が二つ揃えば、問題は一息に解決するのだ。


 ミセス・クラリネットは嫌そうに、溜息を吐いた。


「では、捨てても良い服をご用意致します。彼処の掃除は正直に申しまして、この三年ほど手を付けていませんから」

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