第2話貴族院へ
「……それでは御嬢様、これにて失礼します」
「えぇ、ありがとうミスター・ビンクス。貴方はとても良くやってくれました」
ソニアの言葉に老執事は深いため息を吐いた。
いつも糊を聞かせていたジャケットにはシワが目立つ。深く肩を落として俯く姿からは普段の、かくしゃくとしたミスター・ビンクスの面影は名残さえ見当たらない。
「どうか不義理をお許しください御嬢様、先代に御世話になったこの身。本当ならば最後まで、ご一緒するのが筋だと言うのに──」
「何を言うの」
ソニアは本心から首を振った。「貴方は本当に、充分すぎる程尽くしてくれたわ。貴方ほどの能力を私は、大した対価もなく忠誠心に甘えてしまったの」
「勿体無い御言葉です……」
書斎の床に崩れ落ち泣き始めたミスター・ビンクスに、ソニアは立ち上がると彼の元に膝をついた。
「貴方には感謝しています。ミスター・ビンクス、今後に何処か、当てはあるかしら?」
「恐れながら、私ももう老体です。故郷に帰り、孫の世話になりながら余生を過ごすつもりです。妻と二人ならば、慎ましく暮らせる程度の貯金はありますので……」
「そう、それは素敵ね。貴方の技量を眠らせるのは残念だけれど……ミセス・クラリネット」
脇に控えていたミセス・クラリネットが、ソニアに封筒を差し出す。それをそのまま、ソニアはミスター・ビンクスに渡した。「貴方の今までの忠誠に、そして今後のために。どうか受け取って」
何度か言葉を変え慎みを表明してから、ミスター・ビンクスは二週間分の賃金が記載された小切手を受け取った。
少なすぎるとは思うけれど、これが精一杯だ──そのことをミスター・ビンクスは、勿論良く知っている。誰もが気が付くだろう、銀食器は
ミザレット家は正に沈み行く船だった。特にこの数年は顕著で、水を掻き出しつつ懸命に積み荷を投げ捨てていた。十八代続いた【三段目】の貴族が果たすべき義務を、父が不在という免罪符片手にかわしてきたのだ。
それももう限界に来た。そしてそうなる前に、乗組員はほとんどが船から逃げ出していった。年老いたミスター・ビンクスが最後の一人だったのだ。
あぁ、いや。
まだミセス・クラリネットが残っているか。
「『長く勤める者が良い従者とは限らない』という言葉の、ミスター・ビンクスは良い例ですね御嬢様」
ミザレット家最後の一人が、閉じたドアを見詰めて言った。「彼一人に支払った一月分の賃金は、正しく無駄でした」
「彼にも面子があるわ、ミセス・クラリネット」
ソニアは、ミセス・クラリネットから茶を受け取りながら首を振った。「父の代から仕えてくれていたし、我先にと逃げ出したら次の勤め先の評価に響くわ」
勿論ソニアだって七年間、建前の森に本音を隠して微笑み合う社交界で生き抜いてきたのだ。耳当たりの良い言葉ほど、自分自身を守るために紡がれるものなのである。
ミスター・ビンクスが田舎に帰るとは、ソニアも思っていない──情報が武器となる社交界だ、どれだけこっそりしようとも、お節介な誰かが必ず教えてくれるのだ。あらミス・ミザレット貴女のところの老執事が今度ワタクシのところに来たいと言ってきたのだけれど御存じ?
どうぞご自由に。ソニアは無言で微笑んだ。もう、私のじゃないわ。
「それに、彼の行動は正当なものよミセス・クラリネット。誰だって自分の身を第一に考える権利があるわ、勿論貴女にも。私としては貴女が考え直してくれる事を、祈っているのだけれど」
「その話は既に済みましたよ御嬢様。ミザレット家八代に使えた私です、今更、それもまだまだ十五歳の御嬢様を一人残すなど!」
「けれど、私にはもう、貴女に渡せる物が殆ど無いわ」
「そんなことはお気になさらないで下さい、御嬢様。私は金のかからなさには自信がありますよ、それに時間も。勿論あの、【悪戯っ子】共が飽きない限りですが」
ミセス・クラリネット、昔から妙齢の姿のままの彼女は柔らかく微笑んだ。「あのミスター・ビンクスのような不甲斐ない真似は晒しませんよ」
不甲斐ないのはそれこそ我が身の方だ、ミザレット家がこれほど傾かなければ彼だって、忠義の徒として墓石に刻まれることが出来ただろう。そうさせなかったのは正に、実質的な当主であるソニアの責任だ。
ソニアは貴族だ、それも、誉れ高き【十三階段】の三段目。例え一時間前に当主を継いだばかりだとしても、父は七年間不在だったのだ。七年分の責任はソニアに間違いなく、ある。
貴族には様々な特権がある。その代わりに貴族ではない者たちを様々な困難から守る義務があるのだ。それには勿論、経済的な困難も含まれる。
ミセス・クラリネットはドアを、その向こうにミスター・ビンクスがいるかのように睨み付けた。
「そのせいで御嬢様は、奥様の形見を手放すことになりました。あの金の懐中時計は奥様が、常に身に付けていたもう一人の御嬢様でした。あの若造は一月前に潔く立ち去るべきでした、功績と名誉を天秤に掛けられる内に」
ソニアは溜息を吐いた。あぁミセス・クラリネット。貴女に比べれば誰だって頼りない迷子なのよ、それに相応しい扱いをしてあげるべきだわ。
とは言えソニアにも、ミセス・クラリネットの苛立ちは充分過ぎる程理解できた。
そもそもミセス・クラリネットから手ほどきを受けたのは最初の二年間で、残り五年間、ミザレット家の家計を切り盛りしていたのはソニアだ。徐々に目減りしていく貯蓄の総額を毎晩計算しながら、見落としている収入源は無いか、削れるところはどこか無いのか──目に付く点はいつも同じだった。
「お父様……」
せめてミザレット家の財産が自由に使えたら。だがそのためにはソニアの指に当主の指輪が二つ無ければならなかった――加えて、父が間違いなく死んでいる必要もあるが。
不謹慎なことを言えば、ソニアは父親の失踪を七年間も維持し続けるべきではなかった。貴族院からの規則に基づいた忠告を受け入れ、最初の二年の後にこう宣言するべきだったのだ、『ドノヴァン・ミザレットは黄色い太陽の御許へ長い旅に出ました』、そして当主の座を継ぐべきだった。
だが誰が、十歳になったばかりの少女にそんな残酷なことが言えるだろう? 目の前で死んだわけでは無いのだ、父はただ姿を消しただけ。毎晩眠る度に思う、目が覚めたら、翌朝目を開けたらもしかして、お父様はひょっこり帰ってくるのではないか? そんな希望を書類一枚で捨てられるものだろうか?
それに指輪も無い。
ソニアは右手の人差し指をじっと見詰める、そこに填まった紅猫眼石の指輪を。王冠と盾を抱えた烏、ミザレット家の家紋を刻んだ当主の証は、しかし一つ足りなかった。彼は最も大事なものを持ったまま、その姿を消したのだから。
「…………御嬢様」
「解っているわミセス・クラリネット」
感傷に浸る時間は終わりよ、ソニア。少女は自分自身に強く言い聞かせた、もうソニア嬢だけではいられない。彼女自身が署名した書類の効果は、ソニアを直ちに『ソニア・ミザレット』へと変えるのだから。
「出掛けます。準備をお願い、ミセス・クラリネット。日傘とそれからドレス……出来る限り、
辻馬車を降りると、ソニアは目の前にそびえる場所の威圧感に思わずよろけた。そしてそれを支えてくれる誰も、自分にはいないということを思い出した。
深く深呼吸。
入る前から怯えているわけにはいかない、それでは戦いにもならないわ。そう、戦うのよソニア。戦って、勝ち取らなくてはならない。あぁお父様、どうかせめて、私を守って。
強く指輪を握りしめる。純銀は結局、自分自身の体温しか返してはくれない。
「…………」
それでも効果はある、ソニアは格段に軽くなった心のまま、大きな獅子頭のドアノッカーを叩いた。二度、一度、それから三度。定められた通りに。
定めは好きだ、その通りにすれば、向こうも決まったままを返してくれる。重苦しい音と共に扉が開き、木登り熊のように大柄なドアマンがソニアを見下ろした。その値踏みするような視線に、直ぐさま指輪を割り込ませる。
家紋を見て取ると、男は鷹揚に頷いて彼女を中へと入れた。
背後で扉が閉まる音。
振り返るとしかし、そこにはもう扉は無い。
「くぐればいつだって別世界だ」
背後から老人の声が響く。「それが扉の役割というものだ。以前教えたが覚えているかな、ソニア?」
「勿論ですわ、ガルネルシア候」
声の方に改めて向き直り、ソニアは丁重に一礼する。
毛髪との境が無くなった見事な髭。白い毛布に包まれた
【十三階段】、二段目。グノーシス・『
実家運営の師がミセス・クラリネットならば、貴族社会の礼儀作法を教えてくれたのは間違いなくこの、ガルネルシア候だ。父の良き友人でもあった彼は残されたソニアを毎日励まし、おそらくは気を紛らわせるために、友人の娘に知るべき事を教え込んでくれた。
彼の穏やかな『講義』と摘み立ての紅茶は、ソニアにとって穏やかな、家族の安らぎの象徴だった。母は物心つく頃に亡くなったし、父の思い出は最早痛み無くしては思い出せない。
「ご無沙汰しております」
「構わん、気持ちは解る。それに、寧ろ儂は誇らしいよ」
穏やかな口調で、ガルネルシア候は微笑む。「我が友のように優しく、それでも貴族として立ち直った。ソニア、いや、ミス・ミザレット。お前さんの決定を儂は、全面的に応援しよう」
さあ、とガルネルシア候は深々と膝を折るソニアを、部屋の奥へと誘った。
その笑みは優しく、背中を押す手は力強い。老人は守り手であり導き手でもあった、彼は正しく貴族の父だ、そう信じさせるだけの貫禄がある。
だからこそ。
ソニアは指輪を軽く触る。私は、この人に並び立たなくてはならないのだ。ミザレット家は三段目、貴族院の運営においては相応の責任がある――剥奪されなければ、だが。
「…………お前さんには、貴族院から通達がある」
ソニアの内心を見透かすように、ガルネルシア候が言った。「貴族には特権があるが、それに相応しいと証明する義務があるのだ、ソニア」
試練がある。それが目の前に迫ったことを感じて、ソニアは静かに頷いた。
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