第1話父を送る
「世界は一つでは無い。ガルネルシア候が教えたはずだね、ソニア、私のお姫様。そのことは理解できたかな?」
私が頷くとお父様は、優しく頭を撫でてくれた。
ほっそりとした柔らかい、大きな手。とても暖かい。それに、生まれたばかりの仔猫を扱うような慎重で丁寧な触れ方。
彼が娘をどれだけ愛しているか、その証明のような手つきに幼い私は上機嫌に舌を踊らせた。
「『おもて』と『うら』があるわ、お父様! わたしたちのいるこの国、アードライト聖国が『おもて』で、『うら』の世界が接しているのよね?」
お父様の年が離れた友人、ガルネルシア候から教わった通りに私は答えた。自信があった私はしかし、一瞬の強ばりを撫でる手から感じ取った。
「お父様……?」
不安そうに呼びかけるとお父様は「ごめんごめん」と直ぐ、撫で方を戻した。
あやすような手に、けれども私は自信を急速に失った。取りこぼした自信は足下で音を立てて割れ、黒く澱んだ不安の池を生んだ。
素足を浸した小川の冷たさのように、指の先からしびれがじわじわと這い上がってくる。私は何かを間違えたのだろうか、お父様は私に、失望したのだろうか。
「……ごめんなさい」
「謝ることではないんだよ、ソニア、私の金木犀。ただそうだな、何と言えば良いか――あの御老人らしい、傲慢な考え方だと思ってね」
「ゴーマン?」
「自分が世界の中心だという考えさ、ソニア」
お父様は悪戯っ子のように微笑んで、ハンカチを取り出した。「どちらが表だと思う?」
ソニアはハンカチの柄を見て、それから生地に触れて「……こっち」一つの面を指さした。
「そうだね、けれどそれは、君が両方を調べたから解ったことだね?」
お父様はサーカスの奇術師みたいに、ひらひらとハンカチを揺らす。「一つの面だけを見てこちらが表だと、どうして言えるだろうか。僕たちは、ここしか知らないのに……」
お父様は、最後には少しだけ寂しそうに言った。
お母様が去年亡くなられたときにも、同じようにお父様は少しだけ寂しそうにしていた。来賓の方々とお話ししている時も、ガルネルシア候に励まされているときもお父様は変わらず微笑んでいて、私のように泣き叫んだりはしなかった。ただ真夜中、窓辺で月を見上げながら、お気に入りのグラスで蒸留酒を飲みながら。一人きりで居るときのお父様はいつも寂しそうに、微笑んでいた。
どうしようもないことだと、お父様はいつか言っていた。どうしようもないことにはどうしようもないんだ、ただ、深く沈むんだ。高く跳ぶために。
私は、高く跳びたいわけではなかったけれど。
お父様に沈んでいて欲しくは、なかった。
「そしたら、お父様。わたし、いつか見に行くわ。『うら』……ううん、『むこうがわ』を見に行って、しらべてくるのよ!」
私の、幼い私の宣言はどれだけ、お父様に響いただろうか。
珍しく目を大きく見開いて、そう、驚いた顔のお父様はやがて、嬉しそうに微笑んでくれた。
「そうだね、そうしたら、いつか一緒に行こうか」
いつか。
私は頷いた、お父様も頷いた。約束したのだ。
もう、遠い昔のことだ。
もう、叶わない願いのことだ。
時よ止まれと、生まれて初めてソニア・ミザレットは神に祈った。
五歳の誕生日から十年間、週末の礼賛をおざなりに過ごしてきた成果としてその祈りは単純に、五歳児の駄々と変わらないものだった――止まれ、止まれ、止まれ、ただただ唱え続けるだけ。
勿論そんな願望の羅列では、神どころか悪魔さえも聞き届けはしない。世界の理を歪めることなど出来ずやがて、時計の短針と長針がとうとう出会った。
「……残念です、ミス・ミザレット」
全く残念ではなさそうに、恰幅の良い役人が視線を時計から手元の書類に戻す。「それでは、処理を進めさせて頂きます」
「ま、待って下さいっ!」
淑女らしからぬ態度だ、それが必死さを伝えてくれれば良いのだけれど。「もう少しだけ……」
「もう我々貴族院は充分待ちましたよ、ミス・ミザレット。これ以上待つ必要を感じませんね」
「そうだ、時計は? 時計は正確なんですか? ネジは巻きましたか、中央統一思考との同期は?」
「ミス・ミザレット」
呼び声には何の感情も籠もっていない。だがそれでも、だからこそ、もうどうしようもないのだとソニアは理解してしまった。
いやそもそも、もうとっくの昔に手遅れだったのだ。見事な鯉髭の彼が言うとおり、確かに貴族院は充分な時間をソニアに、そして彼女の父に与えた。それを使い切ったのはこちら側だ。例え時計が狂っていようとも大差ない、何しろ七年分も大目に見ていたのだから。
自身の言葉の効果を確認して、男は書類にペンを走らせる。由緒正しい飛び
──お父様……。
祈りは最早懇願だった。具体的な解決策が何一つ解らない、ただ、何かがどうにかなって欲しいという程度の祈り。あぁ神様、どうか、お願い……。
か弱き者よ、その願いは却下します。黄色い太陽、秩序神の答えは結局それだけ。事態は何一つ好転しないまま、男は書類を作り終えた。
「ではミス・ミザレット、お願いします」
さらりと何でもないことのように、男が書類をソニアの方に回す。
歴史のある羊皮紙のざらりとした感触が、手袋越しでも感じ取れるようだった。悪意の冷ややかさな感触が指先から骨まで染み込む気がして、ソニアは直ぐに机にそれを置いた。
ことり、添え物のようにインク壺に刺さった羽ペンが置かれる。さあどうぞ、いや、さっさとどうぞか。じろりと男を睨み付けるが、彼はソニアに対して何の感情も無いらしく、さっさと自分の椅子に戻っていく。
男にとってソニアは、搾り終えたブドウだった。大事なのはこの後ソニアが国庫へ支払う財産であって、彼女の心の傷を癒すことではないのだ。
受け取る気の無い相手を睨み付けても無意味だ。ソニアは釣られた魚の気分で、のろのろと、どう見ても気の進まない様子でペンを手に取る。そして、書類を上から下まで三回読んだ。それから隅から隅まで、もう三回読む。
役人も、不親切ではあったが悪竜ではない。ソニアが明らかに不必要な程時間を掛けて、書類を確認する様子を辛抱強く待ってくれた。
甘えるのは厭だが、けれども仕方がない。ソニアは未だ未だ、ようやく『お披露目』を終えたばかりの十五歳。決意に時間が掛かるのは、当然だった。
だがこの数時間で、ソニアはそれこそ嫌というほど世の真理を学ばせられた。それは最も単純で強力な真理だ、時は待たない、それだけ。
こほん、という咳払いの音はやけに大きく響いた。良く我慢した方だと言えるだろう、残酷な任務を帯びた役人に対して茶を出すほど、ミセス・クラリネットは優しくない。
汗を掻きつつある中年役人は、慎みをかき集めたような表情で、雄弁にソニアを促す。
「…………」
実のところソニアがやるべきことは多くない、この場面に向けて貴族院は、十五の小娘にしっかりと教育を施したのだ。
書類は、重いその内容に反して実に簡易な仕組みで成立している。定められた通りに役人は書類を作成している、あとは、ソニアが署名をすればそれで終わりだ。
署名欄も一目で解るようになっている、一番下、一番目立つ場所。
ペンもインクも準備は万全、何も問題はない。何も──。
ソニアはため息を吐いた。
父はいつも言っていた、高く跳ぶには深く沈まなくてはならない──えぇ、全くその通りだわ。
高く跳ぶには深く沈まなくてはならない。口の中で唱えながら意を決し、ソニアはペンを握り締めた。
聖伐歴1877年火の月14日、イグニィ・ミザレットの捜索願は死亡届へと変更された。こうしてその日、ソニア・ミザレットは父親を殺した。
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