7th CASCADE
ハナフサシホの家を出て、車に乗り込んだぼくは疲れから小一時間運転席で眠った。
そして目を覚ましたとき、ぼくは自分の目を疑った。
ハナフサシホが助手席に座っていたのだ。
ダウン症の顔ではない、ハナフサシホの本来の美しい顔のまま、彼女はぼくを睨んでいた。
「あなた、パパやママやタカシやミホにカスケードをしたのね」
一体何が起こっているのか、わかりかねた。
ぼくが再起不能にした少女はハナフサシホではなかったということだろうか。
「あんたがわたしだと思って頭の中をいじくったのはわたしの双子の妹よ」
彼女にミホという双子の妹がいたなんてぼくには知るよしもなかった。
「悪いけどカスケードは封じさせてもらうわよ」
シホはそう言って、制服のスカートの下、オーバーニーソックスに、峰藤子の拳銃のように隠し持っていたバタフライナイフをぼくの右太股に突き立てた。激痛がぼくの全身をかけめぐる。シホはさらに傷口でナイフをこねくりまわした。ぼくはもはやなにも考えることができなかった。失禁さえしてしまった。
思うだけで発現するカスケードは、思考を止めれば発現できなくなる。
単純だが、確実なカスケード防止法だ。
ハナフサシホはぼくが思っていたよりずっと頭が良いらしかった。
「二度とあんたになんかに支配されるもんか」
ハナフサシホは勝ち誇ったように笑い、
「頭の中を身勝手にいじくられるってことがどんなに陵辱された気持ちになるか知るといいわ」
と言った。ぼくもまた笑っていた。
甘くみてもらっては困る。
カスケードなどなくともぼくは男でシホは女だ。
いくらでも手はまだあった。
もちろん、ぼくはそのとき一切の思考は中断されており、またカスケードを封じられ、逆に今まさにハナフサシホのカスケードに支配されつつある状況で、ぼくは反撃の手段を考えついたわけではない。
ぼくはただの私立中学の教師で、カスケードという特異な能力を持ってうまれたとはいえ、何の修行も努力も行ってはいない。強靱な肉体と強靱な精神を持ち合わせたコミックヒーローのようにはいかないのだ。
つまり、ぼくの肉体は、ぼくの精神とは無関係に、おそらく生物的本能で、ハナフサシホに反撃を開始した。
ぼくの精神はただ、激痛に耐えかねておえつを唇から喉の奥の方からこぼしていただけだ。
ぼくの肉体は両腕でハナフサシホの首をとらえていた。
首の骨は、すぐに折れた。
太股にナイフがささったまま、ハナフサシホの死体を乗せたまま、ぼくは車をハナフサの家から数キロ離れた場所に移動した。
ハナフサの死体を遺棄して、かかりつけの病院の夜間診療にかかるつもりだった。
巷では少女ギロチン連続殺人事件などという気狂いじみた事件が六月から続いていた。
生きたまま切断された生首が、名古屋市各区のごみ捨て場に遺棄されている事件だと聞いていた。
詳しくは知らない。ぼくはマヨリにかかりきりだったから。
抜きたくはなかったがナイフを抜き、着ていたシャツを破りきつく太股を縛り止血した。
そしてそのナイフでハナフサシホの生首を切断した。
鮮血が車内中に飛び散った。ぼくの血と尿と、ハナフサシホの血のにおいはきっとしばらくはとれないだろう。
生首と肉体を別々の場所に捨てれば、ぼくの殺人も一連の事件のうちのひとつとなるはずだとぼくは浅はかに考えていた。
しかし生首を遺棄しようとしたまさにそのとき、ぼくの甘い期待は打ち砕かれてしまった。
目撃されたのだ。
少女に。
何か超自然的絶対的超常現象的な力が、ぼくに味方してくれているのを感じる。
物の怪という老刑事はいつかヘブンセンシズという言葉を口にした。カスケードはヘブンセンシズと呼ばれる力の一種だそうだが、つまりそれらの力を選ばれし導かれし者に与えた神のような存在が、もちろんその神は既存の神たちとは異なるのだろうが、ぼくに過保護なまでの加護を与えてくれているのをぼくは感じていた。
少女のことをぼくは知っていたのだ。
確か宮沢リカといった。
彼女も以前、ぼくのモデルになってくれたことがあり、もちろんぼくは彼女にカスケードを施し、犯していた。
リカは両手で大事そうに何か袋に入ったものを抱えて、阿呆のような顔をしてぼくを見つめた。
カスケード障害には個人差があり、ハナフサシホは比較的軽かったのだろう。リカとシホは同時期にカスケード障害を煩ったはずだが、リカはまだカスケード障害の中にいるようだった。
「リカちゃんかい?」
「そうだよ、オーブンさん」
リカはぼくのハンドルネームを呼んだ。
「オフラインでその呼び方はやめておくれよ」
「じゃあ、棗弘幸?」
その名もまた偽名だけれど、
「それでいい」
リカの興味はもう、ぼくが右手に提げたハナフサシホの生首に移っていた。
「シホちゃんだ。棗が殺したの?この子生意気だったもんね。自分撮りのどれも同じに見えるような顔しか写ってないような写真ばかり撮って、ちょっとオタクに人気があったからって、モデルとしての才能なんてまるでないくせに、棗にいたずらされたこと恨んで訴えようとするなんておこがましいったらありゃしない」
リカは饒舌にぼくのシホへの思いを代弁してくれた。
しかし、リカがそう考えられるのはぼくのカスケードに支配されているからにすぎない。カスケードの消費期限が切れたとき、リカもまたハナフサシホのようにぼくと敵対するだろう。
ならばここで始末しておかなければならない。
ぼくはリカを優しく抱きしめた。
シホ殺しの罪をなすりつけるために。
もう一度だけカスケードを彼女に施すために。
「棗、シホちゃんの死体、リカにちょうだい。リカが絶対に誰にも見つからないように片付けてあげる」
それは至極簡単なことだった。
宮沢リカにハナフサシホの死体の後始末をさせる手筈を整えた後で、ぼくはかかりつけの医師にかかった。
とうに日付は変わってしまっていたが、榊という名の内科医の開業医である女医は、ぼくの呼び出しに応じてくれ、ナイフでぐちゃぐちゃにかきまわされたぼくの傷口を見ても、さほど驚いた様子も見せず、満足そうな笑みを浮かべて無言のまま淡々とぼくの傷の処置をした。
確か専門は、潰瘍性大腸炎とかいう原因不明の不治の病だったはずだ。
しかし内科医にして腕利きの外科医でもある彼女の、腕をふるう、という言葉がまさしくあてはまる、そんな術式だった。
ひどい傷だ。後遺症が残るかもしれない。そんなことを考えながら、ぼくはただ天井を見つめていた。
処置が終わり、松葉杖を借りて診察室を出るとき、彼女は呟くように、女ね、と言った。
ぼくはその言葉に無言で答えた。
「手術はうまくいったわ。後遺症の心配もなさそうね。これからは色恋沙汰にはもう少し気を付けることね。あなた一応学校の教師なんだし」
彼女の誤解をとく気力も、つもりもぼくにはなかった。
「明日、女の子を連れてきてもいいか?見てもらいたい子がいるんだ」
女医は呆れたようにため息をついて、いいわ、とだけ言った。
「カスケード」
だからぼくは遠慮がちに口にした。
「その子、カスケード障害なんだ、たぶん」
女医の目が輝いた。
「正午にここで待ってる」
ぼくはまだ麻酔で痺れる足で車を運転し、明け方自宅へと戻った。
痲依は居間で目と口を半開きにして眠っていた。
彼女の美しい顔を崩してしまわないよう、カスケードは最小限の威力にとどめたはずだったが、あれ以来彼女は廃人となってしまっていた。一日の大半を寝て過ごし、目を覚ましたかと思えば、あーとかうーしか言わない。
痲依にカスケードをほどこすべきではなかった。「彼女」でなくてもよかったではないか。なぜぼくはあのときあんなにも嫉妬して、カスケードをほどこさなければならないほど追い詰められてしまったのだろう。自分を追い詰めてしまったのだろう。
ぼくのカスケードはもうぼくが自分で理解していた力をとっくに凌駕していた。人の人格だけでなく顔付きまで、遺伝子まで書き換えてしまうほどになっていた。
痲依がこうなってしまうことくらい、わかりきったことだった。
痲依の遺伝子を、いもしない「彼女」に書き換えられるほど、ぼくの力は万能ではない。
「彼女」でなくともよかったじゃないか。「彼女」はぼくが知りうる限りの世界のどこにもいなかったじゃないか。
痲依さえぼくのそばにいてくれたら、ぼくはそれだけでよかったじゃないか。
ぼくは寝ている痲依を抱こうとし、裸にした彼女が処女でないことを再確認させられ、抱くことを諦めた。
そのかわり、痲依の隣で手を繋いで眠ることにした。
「ねぇ痲依、目が覚めたらいっしょに病院へ行こう。ぼくのかかりつけの医師のところだよ。女医だから、痲依は嫉妬するかもしれないね。だけど心配はいらないよ。ぼくにはもう、産まれ落ちたときからずっと探し続けてきた「彼女」のことさえどうでもいいと思えるんだ。ただきみがぼくのそばにいてくれたら。それだけでぼくは」
ぼくはマヨリの薄く開いた唇に、ぼくの唇をそっと重ねた。
それがぼくとマヨリの、最初で最後のキスだった。
診察を終えたぼくと痲依は、並びあったビル群が暑い夏を余計蒸し暑くしてくれる名古屋駅の駅前を歩いていた。やけに値のはるコインパーキングに車を停めて。
痲依は白いワンピースに厚底のサンダルを履いて。
ぼくは真夏にアルマーニのスーツを着て。
「日焼け止め、買おうか?」
ぼくは痲依の長い黒髪の頭に麦わら帽子をかぶせて聞いた。
「ううん、いい。わたし、日焼けとかしないから。肌が赤くなるだけなんだもん」
「だから痲依の肌はこんなに白くて美しいんだね」
ぼくは痲依の白く細い腕を撫でた。
水族館に行こうと言い出したのはぼくの方だった。
女医から処方された薬は、カスケード障害が境界性人格障害に症状が酷似しているためか、トフラニールやトリプタノール、ルジオミール、テトラミド、アモキサンといった抗うつ剤で、マヨリは少しだけ精神の安定を取り戻しはじめていたけれど、安静が必要だ。
だけど、ぼくは痲依にきれいなものを見せてあげたくなってしまった。
「イルカ、見れるなら行きたいな」
イルカショー、一度見てみたかったの。痲依もうれしそうにそう言ってくれた。
名古屋港水族館には地下鉄東山線を栄で降りて、名城線に乗り換える。右回り左回りがあり、そのどちらだったか、とにかくぼくとマヨリは水族館前駅へ地下鉄を乗り継いだ。
電車は混んでいて、ぼくはなんとか席をひとつ確保すると、痲依をそこに座らせた。ぼくは吊革につかまって、マヨリの白いワンピースからのびた白く長い手足を見ていた。昨日手術を終えたばかりの傷口が立っているだけでひどく痛んでいた。
痲依にそれを悟られてしまわぬよう、ぼくは平静を装った。
顔をあげて、痲依が訊いた。
「わたし、もう麻衣ちゃんにならなくていいんだよね?」
ぼくは痲依の頭を優しく撫でてやった。
ぼくたちが水族館にたどり着いたのは夕方のことで、イルカショーはもう終わってしまっていた。
「イルカ、見れないの?」
「そう、みたいだね」
途端に痲依は水族館に興味をなくしてしまった。
「でも今日は花火大会の日みたいだけど」
「イルカ見れないならいい」
マヨリがそう言ってきかないので、ぼくたちは到着早々帰路につくことになったのだった。
地下鉄の中でぼくは駅で見掛けた頭の悪そうなカップルを思い出していた。
いや、頭が悪そうだったのは少女の方だけであったのだけれど。
いっしょにいた少年は大きな紙袋をいくつもさげて、ため息を繰り返していた。
「だからねワタルくん、いつまでもお母さんが買ってきたような服着てちゃだめなの。今日はマユがワタルくんのためにたくさんワタルくんに似合う服選んであげたんだから、ワタルくんは今度マユに会うときはもっとお洒落してきてよ。お洒落じゃなかったらマユ帰っちゃうからね」
ワタル、と呼ばれた少年にぼくは見覚えがあった。
いつだったか教育実習で訪れた中学校で見た顔だった。
少女にもどこかで会ったことがあったかもしれない。
ふたりとも軽カスケード障害にあるということは、カスケード使いであるぼくには一目でわかった。
ゴスロリのファッションや境界性人格障害の他にも、カスケード障害者を見分ける術をぼくは持っていた。
色、である。
それはつい最近になって、カスケード障害者がオーラとでも呼ぶべきだろうか、色のついた何かを身にまとっているのが見えるようになった。
色はぼくに向かってまっすぐだが弱々しく伸びており、運命の赤い糸のように、カスケード使いであるぼくと彼女たちを結びつけているのだ。
ワタルという少年と、マユという頭の悪そうな少女からは、緑と紫の色がぼくに向かって伸びていた。
そしてぼくにはなぜか、わかってしまった。
あの少年が、少女ギロチン連続殺人事件の犯人なのだと。
水族館から帰ってくると、家の前に見知らぬ少年がいた。
「はじめまして、痲依の兄です」
と、バリと名乗った少年はそう言った。
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