2nd CASCADE
痲依は衰弱しきっていた。
ぼくはようやく眠りについた痲依を箱ベッドから救い出し、彼女を起こさぬようにそっと姪のベッドに寝かせた。
妹が使っていたそのベッドは、彼女の死後は姪が使い、やがて息を引き取って以来、一度も使われたことはないけれど、いつかぼくが誘拐するだろう「彼女」のためにベッドメイキングを欠かしたことはなかった。妹は病院で死に、姪は入退院を繰り返して家で死んだ。ぼくの家の血は代々、女性遺伝で蛙よりはましな心臓を女に与える。男は正常な心臓をもちながら遺伝子だけを引き継ぐ。心臓移植をしなければ長く生きられないが、女たちは皆臓器に眠る元の持ち主の残留思念のようなものを畏れて拒絶する。だから皆早く死んでしまう。セックスをすれば死ぬ体でもあった。
だから12歳で自殺しようと考えた妹は、ぼくに抱かせてくれたらいいのに、ぼくを拒絶するかのように、売春をして、なぜか死なずに妊娠をして出産して死んだ。
死の間際、妹はぼくに、
「わたしはお兄ちゃんがずっと好きだったけれど、でもお兄ちゃんがわたしに望んでいたのはとてもいけないことよ」
と言った。
頭のいい妹だった。だけどぼくは妹の選択は誤りだとそのとき感じた。
だからぼくは姪が死んだ妹と同じ年になるのを待って、彼女を抱き、そして殺してしまった。
だから姪のベッドは、ぼくが姪を殺したベッドだ。
このベッドから、ぼくと痲依ははじまるのだ。
彼女は妹のかわりでもなければ姪のかわりでもない。ただ「彼女」の代わりではあった。
しかし、同じ過ちは二度としないとぼくは心に決めていた。
姪のベッドで目を覚ました痲依は、
「メイちゃんの部屋だ」
と言った。
メイは半年前に死んだぼくの姪の名前だ。名付け親はぼくで、姪だからメイと名付けた。
妹によく似た、きれいな子だった。ぼくはメイを妹の代わりに、というよりは娘のように可愛がり、メイはぼくをパパと呼んだりお兄ちゃんと呼んだりした。
「メイを知っているの?」
ぼくはメイの体のバニラのにおいを思い出しながら、そう訊いた。
「友達だったから。
何度かこの部屋に遊びに来たこともあるよ。メイちゃんのお葬式のときも来た。
どこかで見たことあるなって思ってたけど、おじさん、メイちゃんの年の離れたお兄さんじゃない?あれ?お父さんかな?
そっか、ここはメイちゃんの家だったんだ」
メイと××は同じ私立の小学校に通い、三年生からはずっと同じクラスだったのだという。
小学校を卒業する前に死んでしまったメイにも卒業証書と、卒業アルバムが贈られていたから、ぼくはメイの机の引き出しから取り出すとはじめてアルバムをめくった。
学級写真の中でメイは右上の空に四角く切り取られていたが(生徒手帳と同じ写真だ)、学校行事の写真の中に痲依とメイのふたりきりの写真を見つけた。
体操服とブルマ姿のメイとスクール水着を着た痲依がプールサイドに体育座りをして、楽しそうに笑いながら水泳大会の応援をしている。メイは心臓が今にも壊れそうで運動をすることを禁じられていた。痲依はもう一泳ぎしたのか、水着が濡れていた。
「かわいいなぁ、メイちゃん。友達になる前からわたしはずっとメイちゃんみたいにかわいくなりたいって思ってたんだ」
と、メイに話しかけるようにそう言った。
「でもその写真のメイちゃん、ブルマからパンツがはみでてるんだよ」
本当だ。
アルバムとともに贈られていた卒業文集には、「大好きな友だち」というメイの作文が載せられていた。
文集に載せる作文は皆、年が明けてから書いたらしく、メイの作文だけは5年9ヶ月の間にメイが書いたものを担任の教師がすべて読み、その中から一番良いものを選んだのだという。
―――わたしの大好きな友だちは、桑元痲依ちゃんです。
痲依がよくこの家に遊びにきてくれること、そのたびにメイの後をおうように死んだ母とメイが精一杯おもてなしをする、という内容だった。コメディドラマを見ているように、母とメイは痲依の前でどじばかりしている。
「それは五年生のときの作文。先生がそれを載せるけどいいかってわたしに見せて訊いたの。わたしはそんな作文を書いててくれてたなんて知らなくて、もう適当な作文を書いて提出していたんだけど、メイちゃんのことを書きたくなって書き直したんだ」
何枚かめくると、痲依の作文があった。
同じタイトルだった。
痲依の立場から母とメイのもてなしをおもしろおかしく書いてある。
―――メイちゃん、メイちゃんとはもういっしょに遊んだりできないけれど、わたしはメイちゃんのことは絶対忘れないし、わたしたちはずっと友だちだよ。
ぼくは涙を止めることができなかった。
なぜならメイを殺したのはぼくだった。
痲依はそんなぼくを見つめて、
「メイちゃんのお兄さん、どうしてわたしを誘拐なんてしたの?
メイちゃんがいなくなっちゃったからってだめだよ、こんなことしたら。
メイちゃん悲しむよ。メイちゃんがかわいそう」
痲依も泣き出してしまった。
だけど帰りたいとは痲依は一言も言わなかった。
ぼくは今、痲依の前で夕食をとっている。
痲依には食事を与えてはいない。
知り合いの女医から借りた点滴を注射している。はじめはめずらしそうに、一滴一滴落ちるのを眺めていた彼女も、ぼくの食事が気になるらしく、お腹を鳴らしながらスプーンの動きを目で追っている。
点滴は彼女が脱水症状を起こしかけていたための処置であり、飲み物もスポーツ飲料を与えてある。彼女は一口一口、まるでワインを飲むかのように味わい、飲み終えるとぼくに言った。
「おなかすいた」
ぼくは少女の美声に並々ならぬフェチズムをもっている。紅茶に溶けていく砂糖のような彼女のような声は特にだ。ぼくを優しい気持ちにしてくれる。
彼女を誘拐した日に口汚く罵られて以来、久しぶりに聞いた彼女の声は、食事よりもぼくの空腹を満たしてくれた。
つい食事を与えたくなってしまう。
しかし、ぼくは口では笑い目では怒っている顔をして(今日のために一週間鏡の前で練習した顔だった)、彼女を見つめるだけにとどめた。
ぼくは今、はじめて愛する女の子のために心を鬼にして叱っている最中なのだ。
ぼくの食事を食べようとしなかった、食べ物を粗末に扱った彼女を、簡単に許すわけにはいかなかった。彼女に食事を与えるのは、教育を終えたあとだ。教育は明日から行う。
目の下にくまが出来ていても、皮下脂肪が少し落ちてしまっていても、彼女の美しさは変わらない。
仲良くなったら写真を撮らせてもらおうとぼくは考えていた。
痲依のセーラー服は誘拐したあの日に彼女の小便で濡れてしまっていたから、ぼくはメイの洋服や下着を痲依に着せていた。
メイが死んだときに着ていた、サリーちゃんみたいなピンクのワンピースを着た痲依は、指を丸くしてゴムの代わりに髪をふたつくくりにして、メイのようにぼくに笑いかけた。
半年前のあの日、ぼくはメイをこのベッドに押し倒して、そのワンピースは胸元までまくしあげ、メイの桜色の乳首を噛んだ。メイはブラジャーをまだしてはいなかった。指が下着の中で、メイのまだ毛もはえていないあそこに触れると、メイはうれしそうな顔をした。
「おばあちゃんがいつかきっとお兄ちゃんとこういうことする日がわたしにもやって来るけど、それはとても女の子にとってしあわせなことたがら、そのときはお兄ちゃんのすきにさせてあげなさいって言ってたの」
ちっとも濡れないメイのあそこにぼくが無理矢理入っていくと、苦しそうに痛そうにだけど精一杯うれしそうに笑いながら、そう言った。感じているのか、痛いだけなのかはわからないが、メイの息は次第に荒くなっていった。
ぼくはその笑顔を見ながら射精し、そのときにはメイはもう死んでいた。
痲依がメイに見えた。
ぼくの両足は立ってはいられず、ぐらりと傾き、膝をつき、ぼくは痲依の下腹部に顔を埋めた。
「メイちゃんのお兄さん?どうしちゃったの?」
ごめんよ、ごめんよ、とぼくは痲依に謝り続けることしかできない。痲依は優しく、そんなぼくの頭を撫でてくれた。
「メイを殺したのはぼくなんだ」
ぼくがその言葉を体の奥からようやく絞り出したとき、痲依はぼくの手をふりほどき、すっと体を引いて三歩下がると、ぼくを睨みつけた。
「メイちゃんは運動は一切出来なかったけれど、いつも元気で明るい子だったんだ」
ぼくと痲依は、メイの痲依のプールサイドの写真のように、メイのベッドの上で体育座りをして、痲依はぼくの知らないメイの話をしてくれた。
ぼくの知るメイは、冬の病室の窓から見える細い木の枝で北風に揺られる葉を見つめてため息をついているような女の子だった。
「誰とでもすぐに仲良くなって、クラスの中のまとめ役で、スカートめくりが大好きで」
意外な言葉が並ぶ。女の子のくせにスカートめくりが好きだなんてかわいい、とぼくは迂闊にも笑ってしまった。
「だけど、メイちゃんはアリスみたいに、うさぎを追いかけて落とし穴に落ちて不思議の国に行ってしまうような危うさをわたしは感じてた」
「アリス?」
草詰アリスという女の子がぼくの教え子にいたのを思い出した。草詰はぼくの知るメイによく似ていた。
「不思議の国の」
「あぁ」
ルイスキャロルは苦手だった。幼い頃に妹と読んだが、訳が悪いのかとても読みづらくて、ぼくは途中で諦めてしまった。ディズニーアニメのアリスも観てはいないし、だけどそんな始まり方だったかもしれない。
「そんな話をしたこともあったんだ。そしたらメイちゃんはお兄ちゃんがいるからだいじょうぶだって」
メイは姪だが、痲依にはぼくのことを兄だと話していたようだ。
「メイちゃんはあなたのことがとても好きだった。だから難しい映画を観たり、好きでもないクラシックを聞いたりして、すごく背伸びをしていつもあなたに合わせてた」
そうだ、ぼくはいつもメイをぼくの観たい映画や聞きたい音楽に付き合わせて、メイの好みを知ろうともしなかった。
「教えてくれないか、メイは何が好きだったんだ?」
ベッドの上に広げたアルバムの中で、メイは楽しそうに笑っている。ぼくが見たこともない笑顔だった。
「もう全部終わってしまったことだよ。メイちゃんを殺したくせに」
痲依は超常現象の特番をテレビに食らいついて見ている。確かメイもそうだった。
ぼくは【カスケード】の能力者でありながら、オカルトめいたものはまったく信じてはいない。そんなぼくでも今年の、今月が、いかに彼女たちにとって重大な時なのだということくらいは知っていた。
1999年7の月。
恐怖の大王。
終末。
ノストラダムスの大予言。
しかし知っているのはそんなことと、予言者の母国では一切盛り上がってはおらず、騒いでいるのは日本ばかりだということや、千年前にもこの国で末法思想という終末論が流行ったということくらいだ。
番組は研究家によってさまざまに異なる解釈を次々と紹介していく。
出演者たちは肯定派否定派に分かれて議論を交わすという番組のはずだが、手前勝手に自分の意見だけを相手に押しつけているだけだ。司会者であるお笑いタレントであり映画監督でもある男は、その奇妙な空間を楽しんでいるように見える。肯定派にも否定派にも組みしない、雷メイクのロックミュージシャンも同じだ。
痲依は一昔前は高木ブーを歌っていたその男のファンなのだという。ぼくは耳を疑ったが、メイも彼のファンだったらしい。心臓の弱いメイはライブには行けないかわりに、ぼくに内緒で買ったCDと毎週放送されるラジオ番組を聞いていたのだそうだ。彼はあまりテレビに出ない。
だからわたしもライブには行かないの、と痲依は言った。
それにしても小中学生が聞く音楽にしては少しマニアック過ぎる気がした。
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