少女ギロチン・ビハインド 「悲しき雨音」 CASCADE 0
少女の名前をぼくは知っている。
一度も会ったこともない、顔も声も知らない少女の名前を、ぼくが何故物心ついたときには記憶していたのか、そのこたえをぼくは知らない。
ぼくが少年になった頃少女のことを話すと、母は幼い頃に観たアニメかコミックのキャラクターだろうと言い、妹のひまわりは前世の恋人に違いないと言った。青年になった頃には、姪のメイはその子はきっと運命の赤い糸で結ばれた恋人だよと言った。
どれも違う、ということは、よく考えなくてもわかることだった。
少女を誘拐するためにぼくは産まれたからだ。
ぼくはどうしても少女を誘拐しなくてはならなかった。
本当は他に何かすべきことがあったはずだけれど、それを思いだそうとすると、少女を誘拐しなくてはならないという思いがより強くなり、心は押しつぶされそうになってしまう。
妹が死に、姪が死に、母が死んだ。父とは幼くして死に別れていた。腹上死ということだった。ぼくには女子高生の婚約者がいたけれど、女ばかりの守るべき家族を失って、二十年以上の年月を費やして考えた誘拐計画を実行に移す日を、ぼくはようやく迎えられる気がした。
ぼくは中学校の教師になっていた。
国公立の教育大学を卒業し教員採用試験を現役合格した教師たちに囲まれて、私立大学の文学部卒で臨時教師という肩書きのぼくは肩身が狭く、教師になって八年が経過していたが未だ先生と呼ばれることに馴れない。
ぼくの名前は棗弘幸。
ぼくがいまだに、ぼく、とこどものような一人称を使うのは、ぼくがおとなになってしまうのを拒否したこどもだから、というわけではなかった。
大学時代に写真部だったぼくは、確かようやくアメリカの大学院生のグループがヤフーを作った頃だったが、その頃からインターネット上で写真を公開していた。
コミックのヒーローの名前を借りて、まるでこどもたちの代弁者のような顔をしていると、女の子たちはぼくのカメラに撮られたがった。彼女たちの辞書に危機管理という言葉はない。テレビや新聞がいくら出会い系サイトで知り合った男に殺された女の事件を報じようとも、ぼくたちの出会い方は少し違っていたとはいえ、簡単にラブホテルでふたりきりの室内撮影をさせてしまう。
ぼくが少し精神系の女の子にウケる写真が撮れるからといっても所詮カメラ小僧よりは技術的にましでしかないように、素人の女の子がいくらモデルを気取ったところでたかが知れている。被写体に分不相応な何人かの女の子は裸にして、処女膜まで写真に切り取った。あとは脅せばなんだってしてくれる。
彼女たちと違ってぼくの身の安全はしっかり確保されていた。複数の名刺を持ち、ハンドルネームではなく偽名を使い分けた。所有していた携帯は盗品やプリペイドのものだ。女の子たちのカメラ付き携帯やプリクラに写ることをぼくはさりげなく拒否し続けた。
そうやってぼくは、「彼女」を探し続けた。
しかし、そんな趣味と実益を兼ねた毎日とはまったく異なる場所でぼくは「彼女」と出会った。
別に教師になりたかったわけではなく、何の楽しみも見いだせなかった職場で、仕事だけはそつなくこなせていたから、昼休みは職員室を離れて校舎の屋上に上がり、気がつくとフェンス越しに「彼女」を探していた。ぼくが勤める中学校には、「彼女」になりきれなかった少女がひとりいただけだった。
その少女はぼくとの関係が終わってしまうと学校にこなくなっていた。
しかしある日、ぼくはついにフェンス越しに「彼女」を見つけた。姉妹校との交流行事の日だった。部活動の練習試合を通じて親睦がはかられる、というものだが、名前さえも知らない相手と親睦などはかれようもない。フォークダンスでもするならまた別だが。
「彼女」はひとり、わたしの屋上へ登ってきた。
まるでぼくに誘拐されるために。
ぼくは「彼女」を知っていた。間違いない。ようやく出会うことができた。
しかし、まだそのときではない。
本当に彼女が、ぼくの知る「彼女」であるかどうか確かめなければならなかった。
「きみの名前は?」
「彼女」にけっして恐れられてはいけない。ぼくはできうる限り優しく笑った。
「桑元痲依」
彼女は後ろに手をくみ、背筋を伸ばし胸を突き出して、短いスカートからぼくを誘うように長く細い足を伸ばしている。
肌はとても白かった。紺色のセーラー服にとても映えた。
しかし、彼女は似ていたが「彼女」ではなかった。くわもとまより。その名前に、ぼくは落胆した。「彼女」の名前は加藤麻衣で、ぼくは加藤麻衣を誘拐しなくてはいけなかったのだから。
桑元痲依は、しかしぼくがこれまでカメラで切り取ったどんな少女たちよりも美しく、けっして犯してはならない神々しささえ感じられた。
「彼女」でなくても構わないではないか。
もうひとりのぼくが甘い言葉を囁き、ぼくはそれを振り払おうとした。
彼女を誘拐してしまった後で。
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