第Ⅴ章 街
「戸田ーっ」
安田刑事がぼくの名前を叫んでいる。
ぼくは、戸田ナツ夫。
愛知県警捜査一課の巡査部長で、来年にも研修を終えて警視庁に戻り警視総監の娘と結婚し、将来は監理官である父を超えて警視総監になるキャリアのはず、だった。
だけどぼくは違法改造していたモデルガンを両手に握りしめて、床に膝をつき震えていた。
銃口からは硝煙が出ている。
その独特のにおいはぼくを目の前にある現実から逃げさせまいとしているようにぼくは感じていた。
目の前には少年の死体が転がっている。
ぼくがたったいま殺した少年の死体だった。
体中に無数の穴があいていた。穴からは血があふれている。もう弾は一発も残っていなかった。
少年はカスケード使いで、少女ギロチン連続殺人犯だった。
カスケード・リターンによって犯人だと特定されることを悟った彼は捜査本部に逮捕されにやってきた、と言った。四つの生首を手土産に。
そしてぼくらが彼を逮捕するのが先か彼がぼくらにカスケードをしかけるのが先か勝負をしようと持ちかけたのだった。
おそらくはぼくたちに、十日ほど前に血糊だらけの生首もどきを遺棄したような、頭の悪いガキでも捕まえさせ冤罪でもでっちあげさせようとするつもりだったに違いなかった。
カスケードにはそれくらいの力があり、そしてぼくたちの心など簡単に砕かれてしまう。
「事故ってわけにはいかないな」
父さん、いや監理官は少女の生首を拾い集めながらそう言った。
「よりによって違法改造した拳銃とはな。正当防衛といえなくもないが、いささか過剰防衛すぎる。難しいだろうな」
淡々と父は刑事の顔でそう言った。
「なんで殺した? 生かして捕らえればカスケード使いの貴重なサンプルになっただろうに」
ぼくはその問いにこたえることはできなかった。父はぼくの手からモデルガンを奪った。
背広の裏地のポケットに手を差し入れると、予備の弾丸を見つけられてしまった。
鉛の、BB弾と同じサイズの弾だ。
皮膚を破り、肉にめり込むと、肉が弾き出そうと痙攣するその力で弾は弾けるように作られている。
小さな鉄の破片は、肉をさらに引き裂く。
父は弾をぼくの銃に込めた。
そしてこう言ったのだ。
「誰かこの銃でもう二、三度あの少年の死体を撃ってくれないか。
息子には警視総監のお嬢さんと縁談の話があってね、こんなつまらないことでつまずかせるわけにはいかないのだよ」
名乗り出たのは安田刑事だった。
ぼくの指導係であったことの責任をとろうというのだ。
安田刑事らしいといえばらしいけれど、つくづく出世できない人だな、とぼくは思った。
社会に出て出世できるかどうかは、いかにずる賢く責任を誰かに転嫁できるかによる。
責任とか誇りとか男気とか、そんなものはテレビで見て感動の涙を流すものではあっても、社会で通用するものじゃない。
安田呉羽という男の人生は、大学も仕事も結婚もすべてが中途半端で、そういった生き方しか知らないから、それがわからないに違いなかった。
それが安田刑事の魅力なのだけれど、正直虫酸が走る。
ぼくは苦虫を噛んだような、見ようによっては過ちを悔やんでいるようにも見える顔をしていただろう。
安田刑事は死者を冒涜してしまわない場所を探しているようだった。
本当に彼らしい。
だか死者をさらに傷つけることは冒涜以外の何物でもない。そんな場所が死者の体にあるはずがなかった。
「まぁ、いっか、顔で。もういっぱい穴があいちまってるし」
結局彼はその中でも最も死者を冒涜しているように見えるだろう場所へ、六発弾を撃ち込んでしまった。
そのうちの一発が前歯にあたり、上段の歯の右側の前歯が折れて、飛んだ。
差し歯のようだった。
そしてそれはただの差し歯ではなかった。
パラドックス、と裏側にまるでペアリングのように文字が彫られていた。
ばつが悪そうな顔で歯を拾った安田刑事は、父にそれを差し出した。
「ありがとう、安田刑事。
きみがたった今ここでしたことは過剰防衛の殺人だ。
従って私はきみを現行犯逮捕しなければならない」
安田刑事の手に手錠がかけられた。
「いい弁護士つけてくださいよ」
と彼は言った。
「あぁ、あの人がいいですよ。行列のできる法律相談所の北村弁護士」
「残念ながら国選弁護人だ」
「じゃあ、オウムのとくの首にギブスつけてるじいさんでいいです」
安田刑事はひょっとしたら殺人を犯したことがあるんじゃないだろうか、とぼくは思った。
ぼくの体はまだ小刻みに震え続けていたのに、彼は死者を冒涜したというのに心なしか生き生きしているように見える。
長年刑事をして死体を見続けるとああなってしまうのだろうか。
「戸田」
と彼はもう一度だけぼくの名を呼んだ。
「偉くなったらブタ箱に酒でももってきてくれよ」
そう言って笑った。
しかし安田刑事はすぐに釈放された。
司法解剖を担当した法医学者に誰かが根回しをして、事故だと死亡診断者に書かせたらしかった。
安田刑事はまだ床にガムテープと血痕が残っている愛知県警の捜査本部でぼくのゲームボーイをして遊んでいる。
サガ3だった。ロールプレイングゲームで人間であるはずの主人公たちはモンスターが落とす肉を食べてはモンスターになり、ロボットが落とす部品でロボットになる。
「どうなってるんだろなぁ」
「肉食べてモンスターになれるわけがないですよね」
「違うよバーカ。
あのガキ、カスケード使いじゃなかったって話じゃねーか」
彼は捜査本部の捜査員から外されてしまっていたけれど、しっかり捜査本部に居座っていた。
だから少年ではなく差し歯がカスケード使いだったという新たな情報も彼はもちろん知っていた。
カスケード・リターン犯の調べでは、
「あの差し歯がカスケード波を引き寄せているようでした。
差し歯は歯科医によってつけられたものではありません。
おそらく少年はカスケードの対象となり、歯を抜かれてあの歯を差し込まれたのでしょう。
詳しく調べてみないとわかりませんが、素材も一般に差し歯として使われているものではなくて、特殊な、象牙のような何か動物の骨のようなものです」
ということだった。
だから差し歯がカスケード使いだというのは比喩だ。
「なぁ、カスケードって確か滝って意味だろ? なんで未知の人心操作術が滝なんだ? 誰がつけたんだ? どっかの大学教授か?」
安田刑事のキャラクターであるクレパスとマユ、ゲロ、そしてモノノケがモノクロの液晶画面で戦っている。
「アメリカのある大学教授の研究に、人はなぜ正しくないとわかっていながら社会や集団に従い、正しくあろうとする者を糾弾するのかっていうのがあるんです」
「それで?」
「その教授がその現象をカスケードと例えたのが由来、らしいですよ」
「そりゃおかしな話だな」
「どうしてですか?」
「カスケード使いはそのカスケードを簡単に破壊できるじゃないか」
ぼくだってミステリー小説ではじめてカスケード使いを知ったときはそう思った。だけどその結末はとても悲惨なものだった。
「確かにそうです。カスケード能力こそがカスケードを打ち破る唯一の力だという説を唱えている学者もいます。だけど」
「古いカスケードが死ぬかわりにカスケード使いによる新しいカスケードが生まれるだけってわけか」
「そういうことです」
太平洋戦争中の日本はまさにカスケード社会だった。
それだけではない。いじめを見て見ぬふりをする者はいつの時代にもいるし、同和問題や在日差別は永遠に続くだろう。
性別による差別は制度上なくなろうとしているに過ぎない。
世界中にカスケードは蔓延し、カスケードに安田刑事は翻弄されて生きている。
世界はカスケードに支配されている。カスケードから逃れて人は生きることができない。
少年の差し歯は科捜研に預けられ、死んだばかりの少年と四人の生首と60人の軽カスケード障害の少女たちを名古屋市各区に配置してカスケード・リターン班によるカスケード使いの再度の特定が行われた。
三人の少女のカスケード波だけは相変わらず要雅雪に向けられていた。
残り58人のカスケード波は直進するという特徴さえ忘れてコーヒーに混ぜたクリープのようにぐるぐるとまわり続けたそうだ。
要の他にもうひとりいるのだろうと推測されるカスケード使いパラドックスは、カスケード波を狂わせる何らかの方法を実践しているに違いなかった。
ぼくはぼくが殺してしまった少年の家を訪れた。
少年の名前はバリと言った。もちろん偽名だ。
彼が兵士のように首からさげたドックタグにその名前は書かれていた。
「19810815」という、おそらく生年月日だろう八桁の数字の他に「19990723」という、別の人間によって書かれたらしい数字があった。
カスケードによってバリとしての彼が死んでしまった日なのだろうか。
彼の遺品で身元がわかりそうなものといったら財布の中にレンタルビデオ店のカードがあっただけだった。
遺品は他にMDウォークマンとMDが一枚だけ。
ラベルには筋肉少女帯、と書かれていた。
どうやって四人の少女の生首を切断したのか、その凶器すらまだ見つかっていなかった。
数人のCRTも殺されてしまっており、目撃者さえもいなかった。
レンタルビデオ店ですぐにバリの本名はわかった。
内倉学。
磁気カードには彼がこれまでに借りたビデオやCDのリストが登録されており、どうやら彼は邦画ばかり観ていたようだ。
寅さんとヤクザ映画だけは観ないが北野武の映画だけは全部観ている。
北野が原作の教祖誕生も観ていた。あれは名作だ。怪獣映画も全部観ている。
CDにも洋楽はなかった。
内倉学の家は、熱田区にあった。熱田神宮のすぐそばだった。
学の母はぼくを彼の部屋に案内してくれた。
小さいながら匠の業がそれを感じさせない一軒家の内装には見覚えがあった。そうか、内倉、そんな名前の家が前にテレビで紹介されていたのを見たことがあった。
リフォーム番組ではなく、土曜か日曜の朝に名古屋テレビでやってる建築番組だった。
ぼくの父と母はもう十年近く別居していて、高校を卒業するまで母のいるこの街で育った。
母が死に、ぼくは父に母を選んでしまったことを謝り、京都の大学に行かせてもらった。
父はその代わりに刑事になれ、とぼくに言った。
そのテレビ番組を見たのはもう何年も前の話で母親も若く少年は幼かった。建築家の父は一昨年他界してしまったのだという。
居間にある螺旋階段で地下にある父親のアトリエから三階の母親の部屋までが繋がっている。居間は吹き抜けになっていた。
二階の部屋が少年の部屋だった。
階段には随分埃が積もっていた。
母親は、このたびは息子がご迷惑をおかけしてすみませんでした、と何度も謝った。
「息子さんは真犯人に利用されてしまっただけですから悪くはありませんよ」
と言っても謝り続けた。
少年の部屋の壁には、「バストトップとアンダー」と書かれたビラが貼られてあった。
少年の裸の写真が加工されたもので、少年には乳房があり、わき腹からもうひとりの少年の体が生えていた。
日本盤では少女がひとりうつっているだけだが本国ではシャム双生児になっているヴァン・ヘイレンのアルバムジャケットのパロディのつもりだろうか。洋楽を聴く趣味はなかったはずだが。
そのシャム双生児のようなふたりの少年は、バリ、シンゴマン、とあった。
シンゴマンはギターを弾いていた。
その後ろにナカムラというアメリカザリガニの背の高い方に似たベースを弾く喪服の男と、ロリコというドラムを叩く甘ロリの少女が立っていた。
19990723、単独ギグ、とあった。
少年は舌を出していて、舌には「バスアン」と書かれてあった。バストトップとアンダーの略称だろうか。前歯はちゃんと揃っていた。
部屋にはギターはなくベースもないかわりにピアノが一台と、録音機材と、足場が見あたらないほど散らばった様々なジャンルの本があるだけで、少年の学習机も本棚もなかった。
「息子さん、バンドやってたんですか?」
「あぁ、はい、息子は不登校でしたが、中学や高校の友達といっしょに」
「どうして不登校に?」
「夫が亡くなってからです。父さん死んでくれてありがとう、ぼくはやっと好きに生きられるよ、って通夜の夜に言ったんです。夫のような建築家になりたいと言って勉強もよくできる頭のいい子だったのに……。わたしにも母さんも早く死んでくれって言ったんです」
シンゴマンとナカムラとロリコの連絡先を母はもちろん知らなかった。
ぼくはピアノの上に置かれたノート一冊と煙草を一箱拝借した。作詞ノートと表紙にはあった。
内倉学の家を出ると、家の前に甘ロリの少女が立っていた。
バストトップとアンダーは一応はビジュアル系に属するのだろうが、耽美や刹那とは無縁らしく、その少女もまたロリータファッションを可愛く着こなしていた。
「ロリコちゃんかい?」
少女は内倉学の家からぼくが出てきたことに驚いていたようだが、名前を呼ばれると、漫画のように「ドヒャーッ」と言って尻餅をついた。
ぼくは手を差し伸べたが、ひとりで立ち上がると尻をはたいて砂埃を落とした。
「そうだけど、おじさん、誰? どうしてロリコの名前知ってるの?」
不審そうにぼくを見た。
「刑事だよ。きみのことは内倉学の部屋に貼ってあった単独ギグのビラで見たんだ」
訊いておいてどうでもいいらしく、あー、とロリコは言って、ぼくの手から内倉学の作詞ノートを手にとった。
「これだこれだ、あのね、バリくん死んじゃったから、かわりにわたしが歌うことになったの。わたしのかわりのドラムを入れてね、もうひとりピアノもいれて5人体制にして、バンド名もバスアン・スーパーファイブに変えようと思うの」
光GENJIかよ、とぼくは思った。
「でもロリコは作詞はつまらないから、シンゴマンがバリくんの作詞ノートもってこいって言うから取りにきたの。よかった、バリくんのお母さんに会わずにすんで」
ロリコはまんがのようにくるくると表情を変えながら話す。
「ねぇ、このノート、おまわりさんたちにオーシューされちゃわないよね?
ロリコがもらってもいいよね? ね?」
ぼくは内倉学の煙草に火をつけた。煙草を吸うのはひさしぶりだった。
ギグがあった7月23日に何があったか教えてくれたらあげてもいいよ、とぼくは言った。
「そんなのおやすいご用でござる。ロリコに何でも訊くでござる。ロリコは何でも刑事さんの質問に答えるでござるよ」
なぜロリコが語尾にござるをつけたのかわからなかった。
ぼくはロリコに手をひかれてファミレスに連れて行かれた。ロリコはどれを注文しようか三十分もメニューと格闘した後で店員を呼ぶと、
「ぜーんぶもってきて」
と言った。
その瞬間、やばい、恋に落ちそうだ、とぼくは思った。
マユは行方不明になってしまったままだったし、不感症の警視総監の娘とはもう会いたくもなかった。ぼくはさびしかったのだ。ぼくはもうロリコに恋をしてしまっているのかもしれない。
バイブにしていた携帯が鳴っていたのに気づかなかったぼくは、だから正午の出来事を見逃してしまった。
安田刑事はその頃、東京の新宿にいたそうだ。
彼は警察官の制服を着て、厚紙をわきにかかえて13年前の事件の場所に立っていた。
日本犯罪史上はじめてカスケード犯罪が行われた新宿アルタ前だ。
彼は正午に厚紙を高くかかげた。
その厚紙にはこう書かれていた。
「パラドックスへ。わたしは少女ギロチン連続殺人事件の捜査員だ。おまえがカスケード使いならば、明日の正午にここでそれを証明してみせろ」
安田刑事の行動は、笑っていいともの放送を10分間遅らせた。
彼は駆けつけた警察官に取り押さえられたが、同様に駆けつけていたフジテレビの取材スタッフにマイクを向けられた。そしてそれからの数分間が彼を渦中の人にさせてしまった。
「俺は13年前、カスケードによって妹を狂わされ、その妹にはすぐに妻を殺され、こどもも殺された。
妹はこの間おまえかおまえの手下に生首が持ち去られた。
おまえが13年前にここでカスケードをやってくれた奴かどうかは知らねぇ、興味もねぇ。
だけど俺はおまえを許さねぇ。
世界中のカスケード使いを俺は許さねぇ。
こそこそ隠れてねぇで出てきやがれ」
何をしてるんだ、この人は、とぼくは録画されたビデオを観ながら思った。
そう思ったのはぼくだけではないのだろう。
すでに彼は、捜査に私情をはさんだ愚かな刑事として、日本人という民族が民族としてあるために常に探し続ける悪意の対象にまつりあげられてしまっていた。
戦後からずっと日本人はそんなことでしか民族としての団結を深めることはできないのだ。
ぼくは今日彼がぼくを身元引受人に指定してくれたおかげで、新宿署を訪ねていた。
彼は檻の中からぼくに手を振った。
「なんであんな馬鹿なことしたんですか」
ぼくは安田刑事をにらみつけていたかもしれない。
「俺は捜査からはずされたからな、これからは好きにさせてもらう」
と言ってニッと笑ったが、笑ったのは口元だけで目は笑ってはいなかった。何を考えているのだろう。
ぼくを案内してくれた警官とは別の警官が、見覚えのある少女を連れてきた。
「安田さん、あなたの奥さんだって言い張る変な女の子が身元引き受けに来てくれましたよ。だめですよ、こんな可愛い彼女に心配かけちゃ」
「呉羽ー」
少女は安田刑事の檻に飛びついた。
名古屋マユミだった。
「ねぇ、呉羽。このひとにちゃんと言って。マユが呉羽の奥さんだって」
安田刑事はぼくと目をあわせようとはしなかった。
時刻はまもなく正午になろうとしていた。
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