第Ⅵ章 黒い朝、白い夜

 午前11時から午後1時までの番組は今日は右下に新宿アルタ前の映像が流されることに決まっていた。フジテレビ側は正午から一時間新宿アルタ前だけを流したいと言ったが、監理官であるぼくの父が放送は通常通り行ってほしいと言い、そういう形になった。


 パラドックスが安田刑事の誘いに乗るとは思えなかった。


 しかしアルタ前には新宿署の私服の警官が数十人配置されていた。彼らに与えられている命令は、何が起こってもそれを止めるな、というものだった。何かが起こるならそれはパラドックスからのメッセージだ。アルタのいいともとは別のスタジオや周辺のさまざまなビルにカスケード障害の少女たちとCRTが配備されている。カスケード使いが現場に現れ、特定できたときだけ、警官たちはカスケード使いを逮捕するために行動を起こせる、ということだった。


 目の前で何が起ころうとも、たとえ人が死んでも、カスケード使いの逮捕が優先されなければならない。


 オープニングタイトルのバックでは裸の女たちが整列していた。映像がスタジオに移動したとき、タモリがまたかという顔をした。


 右下の小さな画面で裸の女たちが一斉に手首を切り始め、そして倒れた。


「はじまったな」


 と安田刑事は言った。ぼくたちは新宿署の一室を借りてそれを見ていた。安田刑事はたばこに火をつけた。ぼくもそれにならった。マユがまねをしようとしたのでぼくと安田刑事はあわててマユからたばことライターを取り上げた。


 レギュラー陣たちは出てこない。タモリがサングラスをはずし、放送の中止を告げた。アルタ前の映像が画面いっぱいに広がった。


 裸の女たちはアスファルトの上にのたうちまわり、アスファルトの上に血が垂れる。それは何か文字のようなものを、ひとり一文字ずつ書き始めているようにも見えた。


 私服の警官たちが一斉に動いた。CRTがカスケード使いの特定に成功したのだ。


 捕らえられたのは、また少年だった。




 心臓が早鐘を打っている。毛細血管たちがそれについていけずぼくの胸でぶちぶちと音を立ててちぎれているような気がする。大動脈や大静脈も水道につけた水まき用のホースのようにとれてしまいそうだった。胸が痛い。空気がうまく吸えない。全身が血液の流れを感じられるほどに敏感だった。


 かと思えば体が自分のものではなくなってしまったかのようにまったく力が入らず指先が冷たく感じる。手足が痺れ始めていた。脳は電子レンジに入れられてしまったかのように、まわりながら表面から加熱している。


 思考の海に残酷な言葉たちが侵入をはじめた。歯ががちがちと音を立てる。震えが止まらない。顎が痛い。こめかみは焼き串で貫かれてしまったかのようだった。


 あぁまたきたな、とぼくは思った。


 内倉学が捜査本部に現れたときにもそれはきた。母が死んだときにもそれはきた。それはいつも体の一番奥からやってくるのだ。


 落ち着け、落ち着け。そう思う。だがそう思ってしまったら最後だ。もう落ち着くことなどできない。ぼくは余計に何かを見失ってそれにのみこまれてしまう。それのみこまれてしまったらたぶんどんなに大切な人の言葉もぼくの心にはもう届かなくなってしまうだろう。ぼくはぼくでなくなってしまうかもしれなかった。


 マユ、助けてくれ。

 ロリコ、きみに会いたい。

 誰でもいい。誰かぼくを助けてくれ。


 手を握ってくれたのはマユだった。マユはぼくの震える手を両手で包み込むとにっこり笑った。


「マユはナツ夫のママのかわりだったよね。マユが呉羽の奥さんになってもそれはかわらないよ。だいじょうぶ、ママがついてるから」


 ぼくの体からそれは後退しはじめた。

 ぼくは胸をなでおろした。


 それは死の使いだ。


 それは1986年11月のあの日、10歳のぼくと母が今ブラウン管に映し出されている場所に居合わせてしまってからぼくを襲うようになった。


 カスケードを目の当たりにした者によく見られるというPTSDだった。阪神淡路大震災よりも早かったけれど、ベトナム戦争よりはあとだったから、PTSDは日本でも囁かれはじめていた。

 ぼくも母もカスケードにかかることはなかったけれど、ぼくと母をたびたび襲うそのPTSDが両親が別居した理由だ。おそらく同じものを安田刑事もかかえている。


 母は父に見捨てられ悲しみの中で死んだ。

 カスケード使いを憎んでいるのは、安田刑事だけじゃない。ぼくもまた、カスケード使いを許すことはできなかった。


 愚かな安田刑事愚かな警察諸君今日はきみたちにつきあってやったわけだが満足していただけたかなその少年をまたきみたちに贈ろう今度は殺すなよ私にたどりつけなくなるぞ、裸の女たちの血文字はそう読めた。救急車がかけつけたとき、女たちはすでに失血死していた。


 パラドックスからの贈り物だという少年は、インディーズバンド・バストトップとアンダーのメンバーのひとりだった。


 確かナカムラとかいった。

 彼はカスケード使いじゃない。カスケード使いはまた例の差し歯だ。




 一夜を東京のホテルで過ごし、ぼくと安田刑事とマユは、警察病院を訪ねた。裸の女たちは救急車で東京中の病院に運ばれたが、皆出血多量で死んだそうだ。13年前と同じように、今回の事件はぼくや安田刑事のようなカスケードのPTSDに悩む者をも増やしただろう。


 すべては安田刑事の責任だった。


 ナカムラは病室で眠っていた。


「抗精神病薬を投与して眠らせていますが、目を覚ましても彼はおそらく満足に話すこともできないと思います」


 ドクターは、こんなひどいカスケード障害ははじめてだ、と続けた。どこかで見たことがある顔だと思ったらカスケード・リターン班の班長だった。


「一般に精神科医はカスケード障害を境界性人格障害としてしか治療を行いません。ですがカスケード障害と境界性人格障害は症状こそにていますが、まったく別のものなのです。私は医師免許を持っていましたから、志願してこの病院でカスケード障害の患者だけを治療させていただいています」


 窓ガラス越しに見るナカムラは、内倉学同様にバストトップとアンダーのチラシで見た顔に間違いない。

 だが、気狂いの顔をしていた。


「同じ顔でもその日の気分によって違う顔に見えたりするように、重度のカスケード障害は人の顔を変えてしまいます。しかしあんなにも顔が変わって見えるとは思いませんでした。パラドックスは度重なるカスケードの経験から力を増しているのかもしれませんね」


 ぼくの体がまた震えはじめた。パラドックスを逮捕するなんていうことはもはやできないのではないだろうか。マユがぼくを抱きしめてくれた。安田刑事はぼくたちを引き離した。


 ぼくたちは別の病室に案内された。六人部屋を十部屋。カスケード・リターンにかかせない57人の少女たちが皆点滴を受けていた。


「ここに案内したのは、大変申し上げにくいのですが、彼女たちを使ってのカスケードリターンはもうできないことをお伝えするためです」


 ぼくたちは足を止めた。

 少女たちは皆、ナカムラと同じ顔をしていた。


「CRWを使ったカスケード波の増幅は脳への負担が大きく、彼女たちのカスケード障害を悪化させてしまっているのです。おそらくもう一度カスケード波を増幅したら彼女たちは廃人になってしまうでしょう。今ならまだ回復の見込みがあります。しかし廃人になってしまってはもう回復は見込めないでしょう。たとえあなた方から命令があっても私にはもうできません」


 ドクターはCRTの班長の顔でそう言った。そして、


「もはやカスケード・リターンでは差し歯しか見つけられません。パラドックスを特定することは我々にはもうできませんよ」


 と、そう付け加えた。




 7月23日はみんななんか変だったんだ、何枚もロリコたちはアルバム作ったけどぜんぜん売れなくて、ずーっと他のバンドと対バンしてて、でもこないだ作った「タエコ先生の自転車」っていう曲が結構売れて、はじめてロリコたちだけでライブができるーっていうのに、なんだかみんな約束の時間には遅れてきたし、がんばろーってロリコ張り切ったけどみんな生返事で上の空みたいだった。

 ライブが始まってもいつもはおもしろいバリくんとシンゴマンのMCが全然おもしろくなかったし、演奏もドラムのロリコとバリくんが録音してたピアノだけはちゃんとしてたけど、ナカムラくんのベースなんかめちゃくちゃだったし、シンゴマンはドラムもベースも無視して勝手にひいちゃうし、バリくんは歌詞を忘れたり一番と二番間違えて歌ったりひどかったんだ。

 打ち上げにも三人ともこなくて、ロリコはライブハウスの人たちと飲みに行ったの。ロリコはまだ12だからジュースしか飲めないんだけど。

 ライブハウスの人にたるんでるって言われちゃったんだ。

 バストトップとアンダーはもうだめかもしれないねって。

 ロリコはドラムだけじゃなくてギターもベースもピアノも弾けるし、シンゴマンの曲を編曲してたのロリコだし、あとロリコはかわいいし、他のバンドから声かけてもらったりしてるから、どこのバンドでもやっていけるでしょって。

 ロリコもそう思うんだけど、でもロリコはバスアンが好きなんだ。

 ナカムラくんのことはちょっと苦手だったけど、歌がへったくそなバリくんのことも難しいコードは全然弾けないシンゴマンのこともロリコは大好きだから、他のバンドにはいかないって決めてたの。

 バリくんが死んじゃっても、だからロリコはバスアンを続けたいの。

 三人ともインディーズのくせに、ほら今バンドブームでインディーズでもオリコンの上位に入ったりしてるでしょ、プロと違ってレコード会社とか事務所とか面倒なものとかなくて売り上げは全部バンドのものだから、プロよりお金儲かったりすることもあるの、だからみんなプロ意識だけは強くてプロがしてること真似したがってね、別に悩んでもいないのに自己啓発セミナーに通ったりしてたんだ。そういうおばかなところがロリコは好きなんだけどね。

 あの日も三人で確かセミナーに朝から行ったんだよ。

 セミナーで何か言われたりしたのかな。

 ねぇ、おまわりさん、チョコレートパフェもういっこだけ頼んでもいい?




 バリの本名が内倉学であったように、ロリコもナカムラもシンゴマンももちろん本名は別にある。


 ロリコは橋本依子(はしもとよりこ)、

 ナカムラは仲村賢司朗(なかむらけんじろう)、

 シンゴマンは片羽真吾(かたばねしんご)といった。


 バストトップとアンダー(それにしてもひどいバンド名だ)は内倉学と片羽真吾が中学時代に結成した。

 当時はまだ内倉学は橋本学であり、血の繋がらない妹だった橋本依子がそれに加わった。

 学は当時14歳で中学生であり五つ年の離れた依子はまだ9歳だったが、譜面すら読めない片羽真吾がギターひとつで作った、天才的だが音楽的にはひどい出来だった楽曲を編曲し、ベースとドラムを機材に打ち込んでみせたことが依子がバスアンに入るきっかけだったのだという。


 片羽の天才的だが音楽的にはひどい出来だった楽曲が天才的であるために依子の才能は必要不可欠のものであった。

 仲村は片羽の高校の同級生だ。

 学も同じ市立高校だったが、彼は中学同様高校でも不登校を続けていた。


 学の歌詞も唄も仲村のベースも、ふたりの才能に比べたら見劣りするものであり、バストトップとアンダーがこれまで売れなかった理由がそれだった。

 ロリコは三人がプロのミュージシャンの真似をして自己啓発セミナーに通っていたと言ったけれど、おそらくふたりの天才を目の当たりにした学と仲村はそうでもしなければバンドを続けられなかったからであり、片羽もまたロリコの才能を恐怖していたからだろう。

 彼だけは随分贅沢な悩みだけれど。

 それらはバストトップとアンダーの楽曲を聴けばわかることだった。


 ぼくは学と仲村に同情する。

 努力ではどうにもならないことはこの世界にはあるのだ。

 天才になれない者は天才を回避して生きない限り幸福に生きられることはない。


 名古屋の街に帰ろうとしていたぼくと安田刑事は監理官からの命令でロリコと片羽真吾を保護することになった。学と仲村が共に偽物のカスケード使いとしてぼくたちの前に現れた以上、ふたりは無作為に選ばれたのではないことは明らかだった。

 そして合同捜査本部は自己啓発セミナー千のコスモの会の家宅捜査に乗り出そうとしている。




 名古屋に帰ったぼくは一番にロリコに会いに行った。

 ロリコを保護しなくてはならなかったから、ではなかった。

 ロリコに会いたい、と思ったからだ。


 キャリアであるおかげで十数万もしたファミレス代が経費で落とせることが前回の経験でわかっていたし、甘いもの(スウィーツなんて言う奴は死ねばいいと思う)を食べたときにこぼれたロリコの笑顔をぼくはまた見たかった。


 新幹線が名古屋駅についてすぐ、ぼくはホームから携帯でロリコに電話をかけた。ロリコはすぐには電話に出なかった。


 ぼくはひさしぶりに東京に帰ったというのに警視総監の娘に会ってやらなかったことをそういえば思い出していた。

 それどころじゃなかったといえばそれまでだけど、時間くらいいくらでも作ってあげられたはずだった。

 もう何週間か届いたメールに短い返事を返しているだけだった。

 もうどんな声をしていたかさえも忘れてしまった。

 しかたがないとぼくは思う。

 ぼくの心に彼女などはじめからいなかったのだから。

 帰国子女が珍しかったけれどお嬢様ならありふれたステータスだし、いつかは海外に住みたいだなんて自分がつまらない人間だと言っているようなものだ。

 もう会わない。


 十数回コールして、ロリコが出た。


「もしもし、あれれ、このあいだのおまわりさん?」


 ロリコはあの女とは違う。住む場所を変えなくても世界をいくらでも変えることのできる女の子だ。

 そうだよ、とぼくは言った。


「今から会える?」


 そう訊いたのはぼくではなくロリコだった。


「ロリコをナカムラくんに会わせてくれるんでしょう?」


 何かを期待してしまっていたぼくは、その言葉に裏切られた気がした。


「仲村賢司朗には会わせてあげられないよ。彼は今、東京の警察病院で精密検査を受けているから。カスケード障害がひどいから当分は入院だ。それより今から会えないかな。次はたぶん片羽真吾がカスケード使いになる。ぼくは彼ときみを保護しなくちゃいけないんだ。きみたちを保護したら彼らが通っていた自己啓発セミナーを家宅捜査する」


「ロリコも?どうして?」


「彼らと同じバンドのメンバーだから」


「わかった。それじゃあ、おまわりさんはロリコをシンゴマンに会わせてくれるんだね?」


 ロリコの言葉の意味をぼくは一瞬理解できなかった。


「ひょっとして片羽と連絡がとれないのか?いつから?」


「こないだおまわりさんとデートした日からだよ。ねぇ、シンゴマンもナカムラくんももうロリコとバンドしてくれる気ないのかなぁ?」


 ロリコのさびしそうな声。


 おそらく片羽は近日中に新たなカスケード使いとしてぼくたちの前に姿を現すのだろう。


 ぼくはロリコが悲しむ顔を見たくなかった。




 この間と同じファミレスでぼくはロリコと待ち合わせた。


 ぼくが頼んでやったフルーツパフェをロリコは一口も食べようとはしなかった。


「片羽真吾が心配?」


 ロリコは首を縦に小さく振った。


「だいじょうぶ、内倉学は死なせてしまったけれど、仲村賢司朗は無事だし」


 廃人のような状態の仲村を、無事だと言う自分がおかしかった。


「きっと、片羽真吾も無事見つかるよ」


 見つかるわけがないことくらいわかっていたことだった。


 軽カスケード障害の女の子たちによるカスケードリターンはもうできない。

 仲村や差し歯にカスケードはできはしないから、おそらくあの場にパラドックスはいたはずだが、裸の女たちは皆ひとり残らず失血死している。

 仲村ひとりでは、以前のようにカスケード使いを見つけだすことはできない。


 ぼくはふと目の前にいるロリコは自己啓発セミナーに通ってはいなかったのだろうか、と思った。

 甘ロリと両の手首のリストバンド。

 不釣合いで、リストバンドの下にはリストカットの傷があるのではないだろうか。

 境界性人格障害であるかどうかはわからないから確証はもてないが、軽カスケード障害といえなくもなかった。


「ロリコちゃん、リストカットしてるんだね。だめだよ、そんなことしちゃ。いつからしてるんだい?」


「ロリコちゃんはロリータが似合うよね。すごくかわいい。でもいつからそういうのを着るようになったのかな?」


 パフェのアイスクリームがとけてしまって、そのどろどろの深い海にフルーツが浮かんでいる。


「わかんない。気がついたらしてたし、着てた気がする」


 ぼくはテーブルの上に投げ出されていたロリコの手を両手で優しく包んだ。


「三人といっしょにロリコちゃんも自己啓発セミナーに通ってたんじゃないのかな? 通いはじめてからロリータを着たりリストカットをするようになったんじゃないのかな?」


「わかんない」


「わからないわけがないだろう」


 ぼくは大声をあげてしまった。ロリコの体はびくっと小さく震えて、そして固くなってしまった。


「ごめん」


 ぼくは詫びるしかなかった。


「本当に何にもわかんないの。いつからこんなの着てるのか、いつからこんなことしてるのか、ロリコはバリくんの妹じゃなくなったから、女の子として見て好きになってほしかったし、家でパパとふたりきりなのがさびしかったからだと思ってた。だけどロリコもセミナーに行ったことがあるのかもしれなくて、それからなのかもしれない。でもわかんない」


 泣き出して動こうとしないロリコをぼくは背負って、捜査本部に帰った。


 CRTの班長と目があった。


「至急仲村賢司朗を警察病院からここに移送してください。CRTには彼とこの橋本依子を使ってカスケード・リターンを行っていただきたい。今回の目的はパラドックスの特定ではありません。行方不明の片羽真吾の身柄を確保するためです。彼にはおそらくすでに例の差し歯を付けられているはずです。よろしくおねがいします」


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