インターミッションⅡ 迷子の救世主
ぼくの名前はバリと言った。
もちろん本名じゃない。
ぼくは両親から与えられた名前を拒絶して生きるこどもだった。
そしてぼくはインディーズバンド・バストトップとアンダーのボーカルで、それから終末を望むこどもだった。
これからぼくが物語るのはあなたにとってはもう一昔前の時代の話になるのだろう。
ぼくにとってはまさしく現在進行中の1999年とその年に至る数年間のぼくとロリコと痲依(マヨリ)の恋物語だから。
ヨーロッパの古い預言者の大預言のことは幼い頃にテレビで知った。
たぶん、テレビ朝日のビートたけしの番組か何かだろう。
勉強などいくらしてもどうせ世界はぼくが18の夏に滅んでしまうのだからと、ちびまる子のようにすべてを放棄しかけたこともあったけれど、ある本に「救世主は1981年にアジアに生まれる18歳の少年」だと書かれていたのを読んでから、ぼくはぼくこそが救世主なのだと思うようになった。
アジアよりもアメリカと生きることを選び、地図上でだけかろうじてアジアの極東に位置するこの国が、果たしてアジアであるかどうかは別として、救世主はぼく以外にはありえない、とぼくは思っていたのだ。
ぼくには不思議な力があった。それこそが救世主の証なのだとぼくは確信していた。
ぼくがその奇妙な能力に気づいたのはぼくが小学四年のときだった。ぼくはまだ10歳だった。
妹のおままごとに付き合っている途中で、奇妙な蟲のようなものがぼくの視界を漂っていることにぼくは気づいたのだった。
蟲は理科の実験で顕微鏡を覗いて見た池に棲む微生物のような形をしていた。
ミジンコやアオミドロに似た蟲がぼくのまわりをぐるぐるまわっていたのだ。
ぼくたちの家がある名古屋市熱田区の、夕方になると人さらいが出るという噂の、熱田神宮のそばにある公園で、ぼくたち兄妹は毎日、夜遅くまでおままごとをするのが日課だった。
ぼくたちはかぎっ子で真夜中になっても両親がぼくたちを探しにやってくることはなかった。警官には何度か補導された。
「ロリコ」
と、妹の名をぼくはそう呼んでいた。
妹もまたぼくと同じく両親から与えられた名前を拒絶したこどもだった。
ぼくたちは本当の兄妹ではなかったけれど、世界中のどんな兄妹たちよりも仲が良かった。
「なぁに、お兄ちゃん」
ロリコは茶碗に盛った砂をぼくに勧めた。
ぼくはスプーンでそれをすくって、食べるふりをした。
おままごとをしていると、そんなものや泥水のスープとジュースがおいしそうに見えてしまうから不思議だった。
「ロリコにはこれが見える?」
ぼくは漂う蟲のようなものを指さして言った。
暑いはずの夏の日の、妙に涼しい夕暮れだったと思う。
蟲はぼくの指をすりぬけて、視界の隅に消えようとした。
ぼくの指だけではない。
ブランコの鉄柱も鎖も滑り台も、蟲はどんなものもすり抜けてしまうのだ。
あとでわかったことだが蟲は実体を伴ってはいなかった。
ぼくは蟲を目で追った。追いかければ追いかけるほど、蟲は視界の隅に隠れようとする。
「なにか、いるの? ロリコには見えないよ。こわいよ」
ロリコは泣き出してしまった。
渇いた灰色の砂の上にロリコの涙がぽとぽとと落ちた。
涙は降り始めた雨のようにぽつりぽつりと落ちるものだけど、砂がロリコの涙のすべてを吸ってしまったのだ。
水分も塩分も。
そうやって女の子の涙も自然に還るのだ。
ロリコには蟲が見えないらしかった。
蟲はぼくにしか見えないのだ。
蟲はぼくが特別であることの証なのだとぼくはそのとき思った。
奇妙な能力を有していたのはぼくだけではなかった。
ぼくはよく怪我をするこどもだった。
体育の授業でバスケットボールをすれば突き指をし、サッカーボールを蹴れば捻挫した。
走れば転んで膝をすりむいた。
ぼくは体育の授業のたびに怪我をしていた気がする。
そのたびにクラスメイトたちは「またか」という顔をして、担任の教師や両親はぼくの不注意を責めた。
心配してくれたのはロリコだけだった。
だけどそれらはすべて不注意ではなかった。
神は救世主であるぼくを最終戦争までに鍛えるおつもりなのだとぼくは考えていた。
痛みをものともしない強靱な精神力と肉体をぼくは手に入れなければならないのだ。
ぼくは神にハオ・ジ・マワリーという名前をつけていた。
信者はぼくとロリコのふたりだけ。
いつもどこからかぼくが怪我をしたことを聞きつけてきたロリコは、保健室ですでに手当を受けたぼくの怪我を、絆創膏や包帯を外して消毒液と血と体液の混じりあったピンク色の傷をなめてくれた。
ロリコになめてもらうと一晩でかさぶたがはって、その翌日には怪我はもう見あたらなかった。
ロリコの唾液にはそういう力があった。
ひょっとしたら神はぼくがロールプレイングゲームの主人公のように殺されても殺されても生き返れるようロリコをぼくのそばに導いてくれたのかもしれなかった。
誤解しないでほしいのは、ぼくはその頃言われはじめていたような、ゲームにのめりこみ、なんでもリセットできると考えているようなこどもじゃなかった。
おとなたちが勝手にぼくと年の近いこどもたちをそういうふうに仕立てあげてくれたけれど、そんなこどもはよほど頭が足りないか気狂いかのどちらかだ。
たとえマリオカートでロケットスタートに失敗しただけでリセットボタンを押すようなこどもでも、ゲームセンターの格闘ゲームで一度攻撃を受けてバイタリティを減らしただけですぐにジョイスティックやボタンから手を離してしまうような、少し年上のゲーマーをかっこいいとは思うようなこどもでも、大抵毎日何かしらひとつかふたつはいやなことがあるし失敗だってするけれどどこにもリセットボタンなんかないことくらい誰にだってわかることだった。
ロリコは授業中でも構わずにぼくの教室を訪ねてきては、呆れて何も言えずにいる担任教師の前をすり抜けて、児童はけして登ってはいけないと言われていた校舎の屋上へとぼくを連れ出すのだった。
両親にどこにも遊びに連れていってもらえなかったぼくたちにとって、学校の屋上は世界で一番高い場所だった。
ぼくたちは寒いはずの冬空の下で、心と体の傷をなめあった。
ロリコに傷をなめてもらうのは、ちょっとくすぐったかった。
だけど悪くない気持ちだった。
クラスメイトのませた女の子たちが、あまりに仲の良すぎたぼくたちを疑って、そのうちのひとりが担任の教師の机の中から、ぼくたちが本当の兄妹でないという証拠を見つけて来ては、ぼくたち兄妹の関係をその頃流行っていたまんがで知ったタブーという言葉でひやかした。
禁忌、という意味らしいということは、禁忌の意味までは知らなかったけれどぼくも知っていた。
体験したこともないくせにちょっとエッチな雑誌を読んで覚えた禁じられた言葉の数々を彼女たちはぼくたちが知らないところで紡いでいた。
直接ゴムを手渡されたこともあった。
「こどものくせにこどもができちゃったら困るでしょ」
彼女たちは女子グループのリーダーでミチヨ、カコ、サチリといった。ノッポとデブとチビの三人組だった。ジェルに包まれた親切なピンクのゴムは、ロリコが膨らませて割って遊んだ。
ぼくの母とロリコの父の離婚が決まったとき、すでにぼくの母はロリコの父とは別居していて別の男の内縁の妻になっていた。
母の従兄弟らしい同じ苗字の、建築家だというその男の家がテレビで紹介されたとき、内縁の妻である母とその連れ子のぼくは妻と息子として出演させられたこともあった。
その男がロリコの父に代わって、ぼくの三人目の父になるらしかった。
ファミリーレストランで母はぼくとロリコにお別れを言いなさい、と言った。
「あなたたちはもう兄妹じゃないんだから。
依子ちゃん、いいわね?
いい子だから学とお別れできるわね?」
ロリコはチョコレートパフェに載っていたウエハースをくわえたまま鼻水と涙で濡らしながら、うん、と言った。
「学も依子ちゃんとお別れできるわよね?」
母はぼくを睨みつけていた。
きっともう二度とロリコに会わないように、ぼくをロリコに会わせないように、ロリコの父にきつく言われたのだろう。
そうでもなきゃ母はただの気狂いだ。
ハオ・ジ・マワリーはなぜ、ぼくたちにこんな仕打ちをするのだろうと思いながら、ぼくは「学が依子に会ってはいけない」けれど、「バリがロリコに会ってはいけない」とは言われていないな、と思った。
ぼくはもっていたペンでそのことをテーブルの端にあった紙ナプキンに書き、テーブルの下からロリコに渡した。
それはぼくたちが戸籍上の名前を本当に捨てた瞬間だった。
「けがをしたらいつでもロリコをよんでね」
「じゃあ、ぼくは毎日けがをするよ」
母が会計をすませている間に逃げだそうと思えば逃げられたはずだったけれど、ぼくたちには逃げる理由などなかった。
ぼくたちはいつだって、あの世界で一番高い場所にふたりで行けるから。
ぼくはそのとき14歳で、ロリコはまだ9つだった。
新しい父親の家は熱田神宮をはさんですぐの、ロリコの家とは目と鼻の先のところにあったのに、ぼくはロリコに1年以上会ってやらなかった。
毎日けがしてくれるって言ったのに、とロリコから一度だけ電話があった。
お兄ちゃんはもうロリコのことが好きじゃないんでしょ。
ロリコには会いたかったけれど、あの日逃げる理由がなかったように、ロリコに会う理由がなかった。
学校にはもう行っておらず、ずっと部屋にこもっていたぼくは一切、けがをしなくなってしまっていたから。
同級生に誘われて、ぼくたちはバンドを結成していた。
学校の配布物をぼくに届けに来た彼は、母にぼくの部屋へと案内された。
ギター少年でエレファントカシマシを啓蒙していた彼は音楽について語りだし、ラブソングにしたいといって聞かせてくれた曲にぼくは「蟲の唄」という歌詞をのせた。
虫はおまえを見ている、おまえのまわりをまわりながら、虫はおまえを見ている、おまえに虫は捕まえられない、おまえが虫にならないかぎり、きりぎりすにならないかぎり、かぶとむしにならないかぎり、チャバネ色の虹をながめて、きれいだとおもえるようになるまで、おまえは、おまえは、おまえは、おまえは、きりぎりすの雄と、かぶとむしの雌の交尾を、見つめていきる他ない、おまえは、おまえは、おまえは、おまえは……
何故そんな奇妙な詩を乗せたのかと問われて、ぼくは10歳から見続けてきた蟲のことを彼に話した。俺も見えるよ、と彼が言ったので、ぼくは驚いてしまった。
「網膜の傷が原因だって眼科医が前に教えてくれた」
ぼくは自分が特別な存在ではなかったという現実に打ちのめされた。
ハオ・ジ・マワリーなどいないのだろうか?
しかし、ロリコの治癒能力は確かに存在していた。
ぼくではなく、ロリコが特別な存在だったのだろうか。
だけど、ロリコは86年生まれだ。ロリコは救世主ではない。
彼はぼくをバンドに誘った。
「バンド名はもう決めてあるんだ」
「なんて名前?」
「バストトップとアンダー」
少し頭がたりなさそうなくらい卑猥な名前をつけるのがかっこいいらしい。それにしても語呂が悪いな、とぼくは思った。
バストトップとアンダーは、ぼくのボーカルとシンゴマンのギターだけのバンドだった。
シンゴマンは楽譜も読めないくせにかっこいい曲を書く。
楽譜が読めなかったから、ギターを覚えプロのミュージシャンのスコアブックを買っても、演奏できたことがないのだと言った。
だからもう何年も毎日作曲ばかりしていたのだという。
高校生になった頃にはバンド活動は順調に進み、ぼくはバンドをしながらカメラ小僧もしていた。
毎週末必ず、同人誌即売会に出かけたりコスプレイヤーやネットアイドルの撮影会に参加した。
参加料は大検をとるために塾に通うとか、塾のある名古屋までの地下鉄の定期代が必要だとか、嘘をついて親からもらった金で払っていた。
書店の参考書売場には三日で合格と書かれた裏技集が置いてあるから、試験の三日前にでも買って読めばいいと思っていた。
高校には入学式に出ただけでそれ以来はずっと不登校だった。
その頃、ぼくに彼女が出来た。
ロリコと同い年のまだ11歳の幼い少女だった。まだ小学六年だった。
ネットアイドルでもコスプレイヤーでもなく、同人誌の売り子でもなかった。
そんなものとは無縁の場所でぼくたちは出会ったからだ。
少女は服を着ていないかわりに全身をガムテープでぐるぐる巻きにされ、燃えるごみ専用のごみ袋に入れられて、ぼくの家のすぐそばのごみ捨て場に捨てられていた。
ごみ袋は入り口を固結びできつく縛られ、空気が入るような穴は空いていなかった。
穴が開けられていたならぼくは少女を助けようとは思わなかったかもしれなかった。
袋の中から顔を覗かせた少女は、
「どうして写真に撮ってくれないの?」
と、ぼくが首からさげたカメラを指さしてそう言った。
「あなたは写真をやってるんでしょう?
ごみ袋に詰められた女の子の写真なんてちょっと芸術的じゃない?」
ぼくが撮る写真はそんなものではないんだ、とぼくは言った。
このカメラはコスプレした女の子の写真を撮るためのものなんだよ。どんなコスプレイヤーも、まるで暗黙の了解であるかのようにキャラクターになりきるわけでもない共有のポーズをとる。そのおかげで、どんなアングルで撮っても全部同じに見える写真が撮れる魔法のカメラなんだ、とぼくは自嘲気味に言った。
だからぼくは芸術とかはやらないの、とぼくは少女に説いた。
まるで映画のワンシーンのような、コスチュームだけじゃなくシチュエーションまでをも見せる写真をぼくは撮ってみたいと考えていたし、そんな写真についてコスプレイションと撮る前から名前をつけてさえもいたけれど、そんな写真を撮られたがるコスプレイヤーなどぼくが知る限りいなかった。彼女たちは衣装とかわいく撮ってもらうことにしか興味はないのだ。
だからぼくは半ば諦めたかのように、同じ写真ばかり撮り続けていた。
彼女たちを可愛らしく撮る技術だけは知らぬ間に向上していた。
「撮ってよ、写真」
阿呆のように頬を真っ赤に化粧したその少女はよく見るとロリコにとても似ていた。
ぼくは言われるままに少女にカメラを向けて、シャッターボタンを押した。
続けざまにもう一枚、カメラを縦にしてもう一枚、ごみ捨て場は塀に囲まれていたからぼくは他のごみ袋を踏み台にして塀に登ってもう一枚写真を撮った。
ぼくは体勢を崩して、ごみ袋たちの上に落下してしまった。
少女は顔の半分だけで笑った。
「回収されちゃう前にあなたに会えてよかった。もっといっぱい痲依の写真を撮って」
ぼくはごみ捨て場から少女を連れ出した。
少女の名は桑元痲依といった。クワモトマヨリだ。
ぼくは、なぜ彼女の名前が「麻衣」ではなく、やまいだれの「痲」と、にんべんがいついた「依」でマヨリであったのか不思議だった。
痲依によれば、彼女の両親は、生まれてくる赤ん坊は一卵性双生児だと聞かされていたらしい。
だからふたり分の名前しか用意しておらず、「麻衣」と「依子」だった。
しかし実際には三つ子だった。
三番目に産まれたマヨリは、ふたりの姉から一字ずつもらう形で名前が決められたのだという。
そして、マヨリは先天性の病気があったために麻はやまいだれの痲に書き直されたということだった。
長女の麻衣は死産だったそうだ。
痲依の病気は人体にふたつずつあるものがすべて、ひとつずつしか機能していない、という病気だった。ちゃんとした学名があったはずだけれど、はんぶんこ病と呼ばれていた。
痲依は左耳が聞こえず、右目が見えなかった。
右の肺が動いていないせいで呼吸がいつも苦しそうだった。
腎臓は左側が動いてなかった。
食べるときは右の奥歯しか使わない。
右手だけを使い、左足だけで歩いた。
顔の右側しか笑わなければ、怒りもしなかった。
両親は痲依を気味悪がり、それは離婚する原因にもなったのだという。
長女の麻衣の遺骨は母方である加藤家にあり、父方にひきとられた次女の依子は現在は橋本依子を名乗っているという。
不妊治療に失敗した夫婦の養女になった痲依は桑元という苗字になった。
橋本依子はロリコの本名だった。
橋本依子という名の、痲依とよく似た顔をした少女が他にいるとは思えない。ロリコは痲依の姉だったのだ。
だから痲依はぼくの妹だったロリコと同じ遺伝子情報を有しているということになる。
そのことをぼくは痲依には言わなかった。
ぼくは痲依を家に連れ帰り、部屋のベッドに彼女を寝かせて、ガムテープを剥がしてやった。
痲依が痛がらないように、ゆっくりと優しく。
ガムテープの粘着面には金色の短い産毛がついていた。
真っ白なはずの肌はかぶれてしまって真っ赤になっていた。
痲依は養女になった家の夫婦から虐待を受けており、そしてついに捨てられてしまったのだ。
痲依はぼくの部屋で三日間を過ごし、ぼくたちは何度かキスをして一度だけ結ばれたけれど、彼女は「家に帰る」とぼくに言った。
「バリくん、わたしを抱きながら別の女の子のことを考えているでしょ。
痲依はこどもだけどそれくらいわかるよ」
それが理由だった。
11歳のこどもだったのに痲依はすでにぼくとする前から処女ではなかった。
「バリくんのこと好きだよ、でも痲依は痲依を愛してくれる人としたいの。バリくんじゃだめなんだ」
ぼくはロリコを裏切ってしまったばかりか痲依さえも傷つけてしまったのだ。
出会ったごみ捨て場でぼくたちは別れた。
帰り道の商店街で偶然出会ったロリコをぼくは抱きしめた。
1年ぶりに会ったロリコは二次性徴にさしかかり、胸が少し膨らみはじめていた。痲依よりも背が少しだけ高く、少しだけぽっちゃりしていた。
「恥ずかしいよバリくん、みんなが見てるよ」
ロリコはもうぼくをお兄ちゃんとは呼ばなかった。
本当は偶然ではなかった。ロリコに会いたくて何時間も彼女が行きそうなところを探し回ったのだ。
「ロリコが好きだ」
と、ぼくは言った。
「ロリコも」
と、ロリコは言った。
「いっしょに世界を救おうよ。あのね、ロリコもバリくんと同じで蟲が見えるようになったんだよ」
蟲の正体は網膜の傷だということも、ぼくが救世主ではなかったということも、ロリコに告げることはぼくには出来なかった。
ぼくには世界は救えない。
だけど、ぼくには歌が唄える。
ラブソングばかりが溢れるこの世界で、ぼくは禁じられた言葉を紡ぎ、唄うことができる。
バストトップとアンダーにはロリコも加わった。
「ロリコ抜きで楽しいことはじめてただなんてずるい」
と、ロリコは頬を膨らませながら、まだ小学生だというのに、シンゴマンの楽曲を編曲し、ドラムやベースも打ち込んで、より天才的な楽曲に仕上げてくれた。
ぼくはピアノを弾けたから、ピアノを入れたいと言うとすぐに譜面を書いてくれた。
シンゴマンはナカムラというベーシストを連れてきて、ロリコはドラムを叩くことになった。
ピアノを弾きながら歌を唄えるほどぼくは器用ではなかったし、ライブハウスにピアノを持ち込むのは無理があったからから、ピアノだけは録音だ。
あれ以来、ぼくは痲依に会っていない。ぼくの手には彼女の手や乳房の温もりがまだ残っている。
痲依が誘拐されてしまったという話は、テレビのニュースで見た。
ぼくは「ママゴト結婚」という詞を書いた。マザコン男がママ共々、少女とおままごとのような結婚をする、という歌だった。
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