エピローグ ユダの揺り籠

 目を覚ました少女はどうして自分がその更正施設にいるのかがわからなかった。


 更正施設だと一目でわかったのは、前にビデオで見たことがあったからだ。姉が大学のゼミ発表のために図書館で借りてきたビデオだった。姉は法学部で少年犯罪について研究をしていた。


 昨日まではわかっていた気がするけれど、今日はもうわからない。


 わたしは何か悪いことをしてしまったのかな?


 だから更正してよい子にならなくちゃいけないのかな?


 少女が覚えているのは、少女の体に覆い被さった父の、は虫類のような顔と臭い息、それから優しい姉の笑顔と、ひきこもりだけど本当は誰よりも優しい兄の物憂げな表情だけだった。


 だけど体はちゃんとこの施設での生き方を覚えていて、布団をたたみ、顔を洗い、歯を磨いて畳の上に正座した。その動作はあまりに自然で、もう何ヶ月か、ひょっとしたら何年か、わたしはここで生きてきたに違いない、と少女は思った。


 鏡に映った自分の顔は、化粧をしていないのに少し大人びて見えた。


 窓から空が見たかったけれど、鉄格子が邪魔で顔を出せなかった。


 外は雨が降っていた。そのせいか、部屋の中は肌寒く、湿気が触手のように体にからみつくようだった。いやなにおいが部屋の隅からしている。


 それが自分が使っているトイレのにおいだとはすぐには気づけなかった。


 なんだかずいぶん前に誰かに頭の中をいじられてしまったような、しばらく自分が自分じゃなかったような気がする。


 広げた左手のてのひらが生傷だらけだったことに驚いた。


 生命線を伸ばそうとしたかのような横一文字の傷。


 親指の付け根から手の甲にかけて何か彫られている。


「こわい、こわい、もうすぐわたしがわたしでなくなる、かすけーどがきれてしまったらわたしはふつうのおんなのこにもどってしまう」


 爪はすべて深爪で肉に食い込んでいる。手首には何回もリストカットした傷があった。


 カスケード?


 確かミステリーによく出てくる超能力のようなものだ。ヘブンセンシズとかって言ったっけ。


 わたしは現実と虚構の区別がつかないかわいそうな子だったのかな。


 少女は右手のてのひらも開いてみた。


 片羽根の逆十字が彫られていて、やっぱり親指の付け根に、左手にあったものより汚い字が彫られていた。「りかちゃんへ」とある。


「わたしはきのうまでのあなた、あなたは5ねんぶりにこのからだにかえってきたわたし」


 一度読んだだけではよくわからない言葉が並んでいた。


「だけどあなたはたじゅうじんかくっていうわけじゃないの、わたしとあなたはきおくそうしつになったひとときおくそうしつになっているあいだのひとのかんけいににてるとおもう。


 あなたはおーぶんというはんどるねーむの、なつめひろゆきとかかなめまさゆきとかいうなまえのしゃしんをとってくれるひとにはだかにされてしまったときに、あなたはかすけーどにかかってしまって、あなたはあなたでなくなってしまった。


 そしてきょうかいせいじんかくしょうがいでごすろりでりすとかっととおおつきけんぢがだいすきなわたしがうまれたの。


 あしたわたしはあなたをとりもどして、わたしとあなたはひとつになってしまう。


 あなたがわたしになるのか、わたしがあなたになるのかはわからないから、もしあしためざめたわたしがあなただったら、ひょっとしたらなにもおぼえていないかもしれないから、からだじゅうにわたしがあなたがいないあいだにしたことをかいておきます。


 ふくをぬいでかがみのまえにたってください」



 腕の、日が当たらずに真っ白な内側の肌にまでその奇妙な手紙は続いていた。


 少女は着ていた真っ白なワンピースを脱ぎ、鏡の前に立った。下着は身につけていなかった。


 気づかなかったけれど、膣から太股にかけて血が流れていた。いつの間にか生理がくるようになっていたのだ。胸からお腹にかけてびっしりと文字が彫られている。


 鏡に映ったときに読みやすいようにその字は書かれていた。



「まずさいしょにあやまらなくちゃいけないことがあります」


 わたしがわたしにあやまらなくちゃいけないことがあるなんて、援助交際でもした女の子みたいだな、と少女は思った。


「あなたのかぞくはもうだれものこっていません。

 おねえちゃんはおにいちゃんがころしてしまったし、おかあさんはじさつしちゃったし、あなたがだいきらいだったおとうさんはわたしがころしてあげました」


 おにいちゃんは?


「おにいちゃんはどこにいってしまったかわかりません。いきているのか、しんでしまったのかすらわかりません」


 少女は胸に刻まれた手紙を指で何度もなぞりながら、泣いた。涙は大粒の玉となって、頬を伝うことなく胸に落ちて弾けた。


「たぶんあなたはいま、どうしてそこにいるかわからなくてこまっているとおもいます。

 そこはこうせいしせつといって、はんざいをおかしてしまったこどもが、もうにどとはんざいをしないよいこになるためのしせつです。

 あなたがそこにいるのは、わたしがおとうさんをころしてしまったから、というだけじゃありません」


 突然少女の背中でドアが開いた。


「何をしているの、宮沢リカさん。正座していなくちゃいけない時間でしょう」


 振り返ると、青い制服を着た中年の小太りの女が、特殊警棒を握りしめていた。


 女は少女の胸を凝視している。


「リカさん、あなた、また自傷行為をしたのね」


 女は首にさげていた笛を吹いた。応援を呼んだのだろうか。応援が必要なほどわたしは危険な存在なのだろうか、と少女は思う。


 女は警棒を構えたまま一定の距離を保ち、擦り足で少女の部屋の畳の上を移動した。


 部屋の隅に安全ピンが落ちていた。女がそれを拾いあげたとき、ふたりの女が部屋に入ってきた。今度はチビとノッポのガリだった。三人は姉妹のように皆なかよく特殊警棒を構えている。


「宮沢リカ、これからあなたを反省室へ連行します。反省室では三日間、自傷行為ができないよう拘束具を身につけてもらいます」


 どうでもいいな、と少女は思った。


 鏡の中の自分の胸に刻まれた手紙の続きを少女は読み始めた。


「5ねんまえなごやでしょうじょぎろちんれんぞくさつじんじけんという200にんいじょうのひとがころされるじけんがおきました。


 あなたはそのはんにんとしてつかまり、14さいでみせいねんだったからこのこうせいしせつにいれられたのです。


 たしかにわたしは100にんほどひとをころしましたが、さいしょの100にんをころしたのはあなたのおにいちゃんです」


 女たちに少女ははがいじめにされてしまった。


 手紙にはまだ続きがある。


「離して、離してよ。まだわたしからの手紙には続きがあるんだから。

 わたしはわたしの言葉をちゃんと聞いてあげなきゃいけないの」


 女たちがそれぞれ利き腕で構える警棒がいつでも降りおろせるように高く構えられた。


「意味のわからないことを言って」


「気狂いめ、抵抗するな」


「てのひらにも奇妙な傷があるわ」


「あぁ、おぞましい。なんという気狂いなんでしょう」


 女たちは口々に口汚く少女を罵った。


 少女ははがいじめにされながらも、少女からの手紙を読もうと、鏡に向かい続けた。


「おにいちゃんはすきなおんなのこができてしまって、そのことどこかにいってしまいました。

 わたしはおにいちゃんのかわりにひとごろしをつづけたのに、すべてわたしがころしたことになってしまったのです。

 わたしはわたしのぶんのつみはつぐないました。

 だからあなたはおにいちゃんのぶんのつみをつぐなわなくちゃいけません」


 確かにそう書かれていた。


「気狂いめ」「気狂いめ」「気狂いめ」


 女のひとりが少女の背中に警棒をたたきつけた。


 一瞬痛みを感じないほどの衝撃が、少女の体をセックスをしてイクときのように駆け抜けて、少女は息ができなくなる。


 激痛は数秒おくれでやってきた。


「気狂いめ」もう一撃。


「気狂いめ」また一撃。


「気狂いめ」さらに一撃。


 女たちのヒステリックな狂気に近い笑い声が聞こえる。


 手紙はもうあと残り少しだ。


 少女は最後の抵抗を試みた。


 少女は高く飛んだ。


 おへそのまわりに手紙の最後は書かれている。


「あなたはこうせいされるためにこのしせつにはいったけれど、だれもあなたがこうせいすることをねがってはいません。

 あなたはいっしょうこのしせつからぬけだすことはできません。


 あなたはわるくありません。

 あなたのおにいちゃんもわるくありません。


 みんなかすけーどにくるわされてしまったの。

 みんなかすけーどがわるいのです」



 少女はずいぶん長く飛んでいた気がした。


 少女が着地した瞬間、特殊警棒が少女の後頭部に降りおろされて、目の前が真っ赤になった。

 どくどくと血があふれてくるのを少女は感じた。背中が熱い。助けて、お兄ちゃん。

 リカは気狂いなんかじゃない。リカは死にたくない。




       みんなかすけーどにくるわされてしまったの。

         みんなかすけーどがわるいのです。




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