最終章 平成16年の夏

 マユは今日、21歳になった。


 ぼくは間もなく23歳になろうとしている。


 日本から遠く離れた中東のこの国でも、日本について知ることは可能だ。


 日本は今、四半世紀以上前のオイルショックのような有様らしい。


 自民党を主とする連立政権が先の総選挙で民主党に破れ、民主党のマニフェスト通り日本が「イラクに自衛隊を派遣しなかった」ことがいけなかった。


 日本の石油は中東に90%以上依存していて、アメリカがその利権を手に入れようとしている今、日本は石油を今まで通り手に入れることができなくなろうとしている。


 数年後には電気料金は2~3倍に軽く跳ね上がり、そのため国民の多くは生活のレベルを落とさなくてはいけなくなる。


 やがてはぼくたちの両親がこどもだった頃の、コンビニエンスではない時代に、日本は帰らざるをえないらしい。


 携帯電話などもう持てないし、コンビニなどもちろんなく、新幹線は比べものにならないくらい遅く、大学進学率は極端に落ち、テレビは家庭に一台あるかどうかの生活が待ち受けている。


 数十年か過ぎた頃、日本人の中からビンラディンのような者が現れて、武装勢力を組織するのだろう。


 今度は自由の女神にでもハイジャックした飛行機をぶつけるのだろう。


 そして日本はアメリカの報復攻撃にあうのだろう。



 戦争の片棒を担ぐのを誰もが嫌がった結果がそれだった。


 日米安保条約があるかぎり、もはや戦後ではなくともアメリカの植民地にすぎなかった日本が、アメリカに逆らって幸福に生きられるわけがないことくらい、国民はともかく少なくともNHK受信料未納問題ですぐに辞任してしまったスガ首相は知っていなくちゃいけなかった。


 世論は今やすっかり、なんとかして今の生活を守るために自衛隊の派遣要請に一刻も早く応えろと政府に対して訴えているが、肝心の派遣要請がもはやアメリカから出されてはいない。


 そんな国にぼくは帰りたいとは思わないけれど、マユはときどき帰りたいと駄々をこねるので、ぼくは困ってしまう。


 何しろぼくたちは密航者で、亡命することもかなわず、この国に不法滞在しているにすぎなかった。


 帰りたくても帰ることなどもはやできはしないのだ。


 最下層でもう二度としないと決めていたはずの殺人とか臓器売買の手伝いを引き受け続けてきた。マユにはロリ服を買ってやることもできず、悪いとは思ってはいるんだ。


 毎日命がけで大変な仕事ばかりだけれど、ぼくはマユが売春をしないでくれているのが嬉しい。






 殺人だけがぼくの特技だったから、ぼくは傭兵としてイラクでアメリカ兵と戦いもした。


 だけどぼくを残して部隊はあっという間に全滅してしまった。


 知り合いの日本人戦場カメラマンは、サワダみたいにピュリッツァー賞をとるんだと息巻いていたくせに、結局手ぶれしていないまともな写真を一枚も撮ることなく地雷を踏んで、生首だけの姿となってぼくのそばに転がった。


「地雷を踏んだらコンニチハ」


 と生首になってもまだ息があった彼はつまらない冗談を言った。


 それはサワダじゃなくてイチノセタイゾーだろとぼくが機関銃を乱射しながら言った頃には、嬉しそうな顔をして死んでいた。

 それに地雷を踏んだら、サヨウナラだ。


 弾はすぐに尽きた。


 ぼくは彼のカメラを持って逃げ出した。


 彼が最後に撮った写真は、ぼくをちょっとだけかっこよく撮ってくれていた。


 ぼくとマユが勝手に借りて住んでいる空き家に、その写真は飾ってある。


 ぼくは戦場から逃げる途中でアメリカ兵に銃撃され、片足を失ってしまっていた。


 何人か人を殺したお金で、ドイツ製の本物に限りなく近い義足を買うことができたけれど、今でもときどきないはずの脚が痛む。


 ほとんど知られてはいない事実だけれど、サダム・フセインはカスケード能力者だ。


 日本が戦後、今のイラクのような状況に陥らなかったのは、あのとき軍の上層部にも皇族にもカスケード能力者はひとりもいなかったからだった。






 その戦場カメラマンの遺品であるライカを首からさげて、ぼくは暇さえあればマユと街に出かけている。


 ぼくたちが潜伏しているこの国は雑然としていて、あまり美しい国とは言えない。


 散歩をしていたら当たり前のように餓死したこどもや干からびてしまった老人の死体を見かけるし、ときには踏みつけてしまうこともある。


 そんな死体たちの写真を撮ったり、貧しいながらも必死で生きようとする人々や無邪気に笑うこどもたちの写真を撮ったりするのは楽しい。


 利き足が義足では戦場カメラマンにはなれないが、戦場と離れた場所で取材をするジャーナリストになるのも悪くはないかもしれない。


 パスポートくらいいくらでも偽造してくれる連中はいる。


 かわいい女の子を見つけて、レンズを向けると、マユは必ずその子を押し退けて、写真に写ろうとした。


「だーめだよ、ワタルが浮気したらマユも浮気するよ」


 と言って、マユはいつものようにぺろりと舌を出して笑った。


 マユの白い肌は、一年中が真夏のように暑いこの国の強い日差しを受けても小麦色に焼けてしまうことはなかった。


 ぼくと出かけるときは、まだロリ服を着ている。



 五年前の夏の夜、ふたりでどこか遠い国に逃げようとぼくはマユを誘った。


 約束の場所に来てくれたマユは旅行鞄に詰め込めるだけロリ服を詰め込めて、他には何も持ってはいなかった。


 ぼくはといえばマユが選んでくれた服を着ていただけで、まったくの手ぶらだったからマユのことはとやかく言えないけれど。


 あの頃のぼくたちはふたりとも、現実が直視できないこどもだった。



 ぼくはマユにライカを向けたままシャッターを切った。


 マユはまだ少女のままで、とてもきれいだ。


 きっといつまでも彼女は少女のままなのだろう。


 マユがロリ服を着ている限り、彼女ではなくロリ服が彼女がおとなになってしまうことを拒絶しつづけるだろうから。






 日本の多くの国民がおそらく名前すら知らずに一生を過ごしてしまうだろうこの国は、雨がまったく降らない。


 雨期すらなく、他国から水を輸入している。


 今も昔も人が住めるような土地ではなかった。


 この国の人々は戦争で祖国と聖地を奪われてしまったうえに、国連にこの地をあてがわれてしまったのだ。


 そういえば五年前の夏の名古屋にも雨は一度も降らなかった。台風さえ名古屋を避けていってしまった。


 この国には彼らの信じる宗教によって定められた階級制度と、それにともなう差別があるが、最下層の人々の多くはぼくと同じ仕事をしているので金持ちが多い。


 身分が低い者が裕福な暮らしをしているのが一般階級の者にしてみたらおもしろいわけがなく、最下層はより差別されて仕事を与えられず、犯罪行為を引き受けるしかなく、それゆえに裕福な暮らしを送る、という悪循環を引き起こしている。


 おかげでぼくもそれなりの暮らしをさせてもらっている。


 この国の人々の贅沢は、もちろん水を口にすることだ。


 食事をしても水はほとんど飲まないし、汁物の料理は水の無駄遣いだと感じるらしく出ることはない。


 主食は米だが、豚や牛を食べはしないし、おかずの多くは野菜と虫を炒めた料理でゴキブリなんかを食べたりする。


 マユは平気で食べられるようになったが、ぼくには無理だ。口の中で広がる虫の内蔵の苦みがおいしいのだそうだ。理解できない。


 だけどマユの唇の端から虫の足が飛び出しているのを見たとき、おぞましさは感じず、ぼくは少し興奮した。


 そのことをマユに話すと、


「ワタルくんがわからない」


 と、マユは頭をかかえた。



 ぼくたちは観光者用に初級料理ばかりがメニューに並ぶ店で外食をする。


 黄金カブト虫のチャーハンを作らせたら世界一とマユに誉れ高いその店の料理長と顔なじみになったころから、彼はぼくに臓器売買と銃の密輸の仕事をくれるようになった。


 マユはそのことを知らない。


 知ったら泣くだろうから言わない。


 ぼくは今日もカブト虫を避けて食べた。






 少女ギロチン連続殺人事件があのあとどうなってしまったかと言えば、14歳の少女が逮捕されて事件は解決している。


 厚生施設で仲が良かったというひとつ年上の少女がこの間出所して、彼女に関する本を出版した。


 施設で彼女は大変な問題児らしく、カウンセラーの男とカウンセリングルームで肉体関係をもったあげくに殺してしまったそうだ。


 その本「わたしが知る少女Aのすべて」は大ベストセラーとなっているらしい。


 彼女の友人であったというだけで何年かは食いっぱぐれないですむのだから、運のいい少女がいたものだ。


 逮捕された14歳の少女というのはもちろんぼくの妹のリカだ。


 リカはぼくの模倣犯でありながら、模倣犯なりにオリジナリティーを追求したあげくに遺留品をいくつか残してしまったのが災いして逮捕されてしまったらしい。


 ぼくの家の庭からは、二百体以上の死体が発見されたらしい。


 半分はぼくが殺した少女たちだが、妹も同じ数だけ殺したのだ。


 家族は皆殺害されていたとあるから、ぼくも死んでしまったことになっているのだろう。


 リカが殺したいくつかの身元のわからない男の死体のひとつがぼくということになったのかもしれない。いい加減なものだ。


 とにかく、日本犯罪史上はじめての未成年によるジェノサイドが起きた街として、ナゴヤは世界に知られることになったようだ。ぼくたちの家はナゴヤの隠れた名所となった。


 リカが美少女だったことがインターネットではもはや当たり前のように公開された顔写真で世界中に知れ渡り、リカちゃん人形に手を加えリカに似せた商品がアメリカで売られていたり、リカを啓蒙する人々の奇妙なコミュニティーがヨーロッパ各地にできた。


 リカの事件のドキュメンタリー映画を作ろうという声が日本で上がっており、ぼくの役を交渉中だったという俳優はなぜかマンションの8階から飛び降りていたが、すでに全米での公開が決まっている。犯罪というジャンルではじめて日本は世界に影響を与えつつある。


 ぼくは、少しだけ複雑な心境だ。


 それからリカの事件の最中、要雅雪が逮捕されていた。女子中学生を誘拐したらしい。その事件は扱いはあまりに小さく、ぼくは少しだけ同情した。






 事件に関係した人々のその後について少しずつ記しておきたい。


 ぼくひとりでは調べられず、以前世話になった警察マニアの男に調べてもらったもので、彼を疑うわけではないが確証はもてない。


 リカを逮捕したのは安田呉羽(コープ)刑事と戸田ナツ夫(ゲロ)刑事だ。


 安田(旧姓名古屋)マユミとぼく宮沢渉が行方不明になった後しばらくして、彼らは捜査本部を指揮する戸田刑事の父戸田ハル夫監理官の指示を無視し、独自に捜査を展開しリカを逮捕するに至ったが、踊る大捜査線のテレビシリーズの最終回よろしく、安田は交番勤務に左遷され、しかし戸田はキャリアであったため左遷を免れたが、研修を終えて警視庁に戻った。


 ぼくの死体はぼくの家の庭にリカが埋めた身元不明の男のものということになったが、安田はその後も、マユの生存を信じて独自に捜査を続けているようである。


 安田は二年後の平成13年、愛知県警捜査一課強行犯係に復帰し、現在は警部補になっている。


 戸田刑事は事件後に安田とマユが結婚していたことを彼から聞かされた。警視庁に戻った後は警視総監の娘と結婚した。


 少女ギロチン連続殺人事件以降愛知県内で多発した凶悪少年犯罪を合同捜査本部で監理官である父とともにたびたび指揮することとなった。現在は警視になっている。


 鈴木龍鹿(物の怪)刑事は、平成14年に退官。

 その後は娘夫婦や孫娘とともに幸せに暮らしているが、退官後はある新興宗教団体の信者リストに彼の名前があったりもする。


 彼の友人であり、安田や戸田にかわって要雅雪の家を張り込んでいたが行方がわからなくなってしまった硲探偵と助手のサトシ少年については、本人たちがいつか語るだろう。


 被害者の遺族たちは、加害者少女の逮捕後に「少女ギロチン事件被害者遺族の会」を結成した。会員は五百名以上にのぼる。


 彼らは数多くのテレビ番組に出演したり全国各地で講演を行うなどして、中にはコメンテーターとして成功する者まで現れ、会は芸能プロダクションのようになりつつある。


 2003年には脱税が発覚し会長である榊氏が逮捕された。現在の会長は宮負氏。






 そうだ、娘を紹介しなきゃいけない。


 ぼくとマユのこどもがいるんだ。


 三年前に生まれた。


 モグリの産婦人科医のおかげで母子ともに危険な状態にさせてしまったけれど、無事に産まれてくれたし、産後はマユも順調に回復してくれた。


 産まれた子にぼくとマユはヒナコと名付けた。


 いい名前だろう?


 ヒナはマユに似てとてもかわいい。少女になったらとてもきれいになるだろう。


 なんて、ぼくは少し親馬鹿みたいだ。


 ヒナは死んだはずのぼくと、行方不明のままのマユの間に日本から遠く離れたこの国で産まれたために、国籍も戸籍もないし、出生届けすら出されていない、存在しないはずの女の子だ。この国でも日本でも学校に通うこともできない。


 しあわせになれるはずもない子をどうして産んだのか、とあなたは問うだろうか。


 そのこたえはとっくにぼくの中にある。


 ぼくはぼくの両親よりも親らしく生きる。


 そして、マユの夫である安田呉羽よりもぼくは夫らしく生きる。


 それだけだ。


 胸を張ってヒナに言える仕事なんてぼくにできはしないから、ならばふたりを守るためならどんな汚い仕事だってしよう、とぼくは決めていた。


 ぼくはまた人を殺すだろう。


 ぼくはまた殺した人の体から取り出した臓器を売るだろう。


 麻薬を栽培することもあるかもしれない。


 いつかぼくは泥まみれになって死ぬことになるだろう。


 だけどぼくはマユとヒナを世界中の誰よりも愛して、しあわせの中で笑って死ぬのだ。




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