第7章 最後の遊園地
「おまえの目、濁ってんな。猫とか殺してるガキの目みたいだよ」
安田は酒を飲みながらぼくに言った。日付はもう今日になっている。昨日は非番だったらしい。マユも名古屋の家の家族ももう寝ている。
「俺の目も濁ってるだろ。長年刑事なんかやってるとよ、誰かれ構わず疑う癖がついちまってよ、気がついたらおまえらみたいなガキより目がにごっちまってた。
だからなのかなぁ、マユみたいなバカと結婚したのは。あいつかわいいけどすごいバカだろ。あんな風に生きてる奴ばっかりだったら世界はもっと平和で、俺の目も濁らずにすんだんだろうなぁ」
ぼくの隣で酒を飲んでいたマユは、ぼくの膝枕で眠っている。ぼくはマユの髪を指ですきながら、安田の話を聞いていた。
「マユの悪口を言うのはやめてください」
そうだゾ、やめろこらー、マユが寝言を言った。
「悪口じゃねぇよ、誉めてんだ。バカでわがままだけどいい子だってな」
マユはかわいい。世界中のどんな女の子よりもかわいい。
ぼくは醜く汚い。世界中の汚物の中でぼくは一番醜い。ぼくは自分の顔を醜悪だと思っていたし、ぼくの口臭や体臭は腐臭のようだと感じている。そういう病気なんだ。そんな病気にかかってしまうぼくはやはり醜く汚い。
そんなぼくの膝の上に眠るマユが汚れてしまわないかどうかぼくは不安だった。マユの頬に触れると、ぼくの指先から毒が飛び出してマユの白い肌を紫色に染めてしまいそうだと思った。マユの頬はとても柔らかい。
「おまえ兄弟はいるのか?」
「姉と妹がいます」
姉はぼくが殺した。
「そうか、俺には妹がいた。妹は病気でな、俺がはじめてもった家族は妹に壊されちまった。マユに結婚しようって言われたときも、また妹に壊されちまったらどうしようって思ったよ。だけど妹は、フミカは、ギロチン野郎に殺されちまった。悲しいはずなのに、俺はほっとしたんだよ。最低の兄だろ」
安田は少し飲み過ぎていた。「そんなことないですよ」とぼくは言った。
「おまえ、明日暇か」
ぼくはうなづいた。本当は暇ではなかった。明日の朝もぼくは首のない少女の死体をごみ捨て場に遺棄しなければならい。
マユを殺すつもりだったけれど、ぼくにはマユを殺せないだろう。
安田は財布を取り出して、一万円札を何枚かぼくに差し出した。
「マユはおまえを気に入っているみたいだから、明日一日マユと遊んでやってくれないか。あいつも友達いないんだよ。そうだな、遊園地にでも連れてってやってくれよ」
遊園地。
ぼくとマユが?
だからぼくとマユは昨日、長島スパーランドに行った。遊園地と温泉が楽しめるうえに、この季節はプールが楽しめる。
地下鉄から近鉄に名古屋で乗り換えて、桑名でバスに乗り換えて目的地に到着するまで、そして遊園地の中でもマユはぼくと手をつないでいてくれた。
遊園地なんてひさしぶりだし、女の子とデートをするのははじめてのことだった。
「マユ、男の子と遊園地なんてはじめて」
と、マユも言ってくれた。
遊園地もプールも楽しめる一日フリーパスを買った。もちろん温泉にも入れる。ぼくもマユも水着は持ってきていなかったけれど。
マユはすべての乗り物を制覇したいと言ったので、ぼくは特設会場で偶然行われていたアニメ声優のラジオの公開録音が見たかったけれど我慢した。何十人もの声優を、声だけでなく癖まで聞き分けられるのがぼくのちょっとした自慢だ。気持ち悪がられたくはなかったから、もちろんそんな話はマユにはしなかった。
ジェットコースターに乗り、ジャンボバイキングに乗り、何十メートルも上空から垂直落下する乗り物に乗ったとき、マユの隣に座った極度の肥満の男にベルトが回らなくて、男は乗せてもらえなくて、ぼくたちは笑っては悪いと思ったけど笑ってしまった。
ホワイトサイクロンに乗り、日が暮れる頃オーロラに乗った。
オーロラというのは巨大な観覧車で、観覧車はしあわせの象徴なのだとマユは言った。だって楽しいところには必ず観覧車があるんだもん。ぼくとマユは観覧車の籠の中で向かい合って座った。繋いでいた手をはなさなくちゃいけないのは少し残念だった。
マユはロリ服を着ている。マユは恥ずかしがったけど、ぼくはロリ服を着たマユが見たかったから無理矢理着せてしまった。
ぼくは昨日と同じ、母親が買ってきた服を着ていた。なんだかいけてなくて、まるでマユについてるカメラ小僧みたいで、マユに悪い気がした。
ぼくはマユが好きだ。
だからぼくはマユと並んで歩いても恥ずかしくない格好をしなくちゃいけない。
そんな風に考えたのもはじめてのことだった。
「ワタルくん」
マユがぼくの名前を呼んだ。
「楽しんでくれてる? マユだけ楽しんでない?」
「そんなことないよ。楽しいよ」
マユといっしょにいられたらどこだって楽しいに違いなかった。
「またマユといっしょに遊んでくれる?」
「うん」
「呉羽も、前に付き合ってたゲロくんも、ふたりとも刑事さんだから忙しくて」
マユについて語り合うスレッドにマユの彼氏だという刑事が書き込んでいたのをぼくは思い出した。
「マユと全然遊んでくれないんだ」
「ぼくは毎日暇だからいつでも遊びに行くよ」
「ほんと?」
「やったー、マユ、ワタルくんのことだーいすき」
観覧車が頂上にたどり着いたとき、ぼくはマユを抱きしめていた。
遊園地からの帰り、名古屋駅前でぼくは電光掲示板に映し出されたニュースを見て驚いた。
ぼくはずっとマユのそばにいたのに、また首のない死体が発見されたのだとそのニュースは報じていた。
リカがぼくの代わりに少女を殺したのだ。
映画を観るつもりだったのにマユと名古屋駅で別れ、あわてて家に帰ると、殺された少女の生首の他にふたりの少女がぼくの部屋にはいて、
「お兄ちゃんが昨日帰ってこなかったから、わたしが全部してあげておいたからね。明日と明後日の分の女の子もわたしが誘拐してあげておいたから、早く殺しちゃおう」
妹はそう言った。
名前も知らないふたりの少女は、後ろ手に縛られて、床に転がされていた。
ぼくはその部屋から逃げ出したくてたまらなかった。
妹が怖かった。
死を覚悟したのかもう何の抵抗も見せない少女たちが怖かった。
部屋中に転がる無数の生首が怖かった。
ぼくが犯した罪が怖かった。
体が震えて、立っていられなくなった。
ぼくは床に膝を抱えて座り込み、泣いた。
「どうしたの?お兄ちゃん。何かいやなことがあったの? わたし何かいけないことした?」
リカがぼくを抱きしめて訊いた。
顔を上げると、妹の目は濁っていて、淀んでいて、ぼくが知るリカのものではないような気がした。
「今日はしたくない?」
ぼくは返事をすることができない。
寒い。体の震えが止まらない。いくら自分の体を小さくして抱きしめても寒気は止まらなかった。歯ががちがちと音を立てる。ぼくは奥歯を噛みしめた。
「じゃあ、わたしが今日もお兄ちゃんのかわりにしてあげるね」
ぼくは耳を塞いだ。
目を閉じた。
少女の、どちらかの、悲鳴が、聞こえる。
血飛沫が、ぼくに、降り注ぐ。
血のにおい。
錆びた鉄のにおい。
こわい。こわい。こわい。
「できたよー、お兄ちゃん」
目を開けると、体中に何本ものカッターナイフを突き刺された少女が横たわっていた。
「えへへ、リカ偉い?
でも黒ひげ危機一髪みたいになっちゃったかな。
お兄ちゃん、人を殺すの楽しいね。あの子も今から殺してもいい?
首を切るのは後でもいいよね?」
だから、この数日、少女たちを殺したのはぼくじゃない。
リカなんだ。
朝、マユから電話があった。
「ワタルくん、栄とか大須とか遊びに行こうよ。マユお金持ちだからワタルくんに似合う服、マユが買ってあげる。いつまでもお母さんに買ってもらった服着てちゃだめだよ」
出かける準備をしていると、リカがぼくに抱きついてきた。
「お兄ちゃんどこいくの? ミカコちゃんのお葬式のビデオを観ようよ」
リカの思惑通り、ミカコの葬式でリカはワイドショーのインタビューを受け、涙を流しながら淡々とミカコについて語っていた。もう何十回と見せられて、ぼくはもううんざりしていた。
「栄に服を買いに行くんだ。いつまでも母さんが買ってきた服なんて着てられないだろう」
階段を降りると、リビングで父が姉の生首を抱きかかえて寝ていた。せっかく真空パックに入れて冷凍しておいたのに、生首はもう腐っていた。
「ワタル」
父は起きていたらしく、ぼくの名を呼んだ。
「おまえだろ、少女ギロチン連続殺人の犯人。なんでキリコを殺した。父さんがキリコにいたずらしてたから、キリコを殺したのか」
ぼくは何もこたえなかった。
「リカも殺すのか」
父は一週間前に姉の生首を書斎の冷蔵庫から発見してから、仕事にもいかず一日中キリコの生首を抱いて寝ていた。
キッチンでは母が首を吊って死んでいる。縄は換気扇にひっかけてあり、そして換気扇はついたままだった。母はずっと回り続けていた。
「リカに父さんを殺してくれって頼まれたよ。だけどぼくは父さんを殺すつもりはないし、リカも殺さない。だからもうリカにいたずらしないでくれよ」
「おまえだってキリコとリカとしたんだろう」
そう言った気狂いの家の主は、もはや人の顔をしていなかった。
「お兄ちゃん、わたしもいっしょにいく。パパとふたりきりなんてやだもん」
リカが階段を降りてきた。
ロリ服を着ていた。そうか、そういうことか、とぼくは思った。
「だめだよ、兄ちゃんはこれからデートなんだ。リカは父さんを楽にしてやりなよ。母さんの横に寝させてやるといい」
「わかった、そうする」
リカは頬を膨らませ唇を尖らせてそう言った。パパ、あそぼ。いっぱい殺してあげる。
「この家は気狂いばっかりだな」
父は笑った。
それが、ぼくが見た父の最後の姿だった。
地下鉄で矢場町へ。
待ち合わせたナディアパークの前の階段で、ウォークマンで筋肉少女帯の最後のアルバムを聴きながらぼくはマユを待っていた。
ぼくはそのアルバムに収録されているカーネーション・リインカーネーションという楽曲を聴きながらこれまで百以上の殺人を行ってきた。
もちろん大槻ケンヂ氏の作詞が殺人を助長するものであった、というわけじゃない。
その楽曲はぼくにとって世界中のどんな楽曲よりも素晴らしいものであったという、それだけのことだ。
だけどぼくはもう四日も人を殺してはいなかった。
殺人から離れた場所で聴くその楽曲は、ぼくの中で本来の意味を取り戻していた。
階段の前に広がる公園で、少年と少女が罵りあっていた。少年は泣き出してしまった。
ふたりの間をすり抜けてマユがやってきた。マユは階段を二段飛ばしでのぼってきた。
頭から足の指先までの完璧なゴスロリファッション。十万円はするのだろう。ワタルくん、とマユはぼくに向かって恥ずかしそうに小さく手を振った。
「何聴いてるの?」
「筋肉少女帯」
「大槻ケンヂ?」
「うん」
「マユも好き。オモイデ教とステーシーはどんな小説家が書いた小説よりもきれいだよね」
一昔前は村上龍のトパーズが風俗嬢のバイブルだったけれど、マユは仕事の合間に大槻ケンヂを読んでいたのだそうだ。
ぼくが殺した女の子たちは、死の間際に皆カーネーション・リインカーネーションを聴いて涙していた。
境界性人格障害、ゴスロリ、リストカット、カスケード被害者たちの四つ目の共通点があるとしたら、皆大槻ケンヂを啓蒙してしまうということなのかもしれない。
ぼくもまた、おそらく軽カスケード障害であるように。
ぼくはあのとき、読んでいたスニーカー文庫を閉じてしまっていたことを地下鉄のなかで思い出していた。
もはやぼくにとって少女ギロチン殺人事件も、カスケードも要雅雪も、何の意味ももたない。
しかし要には感謝しなくちゃいけないとぼくは思う。
要のカスケードが、百人以上の少女たちの死と引き替えに、ぼくとマユを出会わせてくれたのだから。
ぼくはマユと出会うために生まれてきたのかもしれない。
ぼくは嬉しくて、マユの手を握った。マユは握り返してくれた。
マユの手はいつもとてもあたたかい。
「ワタルくんは背も高いし細いし、だから何でも似合うと思うよ」
ふたりで遊園地に行った日、安田に手渡されたお金が半分以上残っていたからマユに返すと、彼女はそのお金でワタルくんに服を買おっか、と言って、ぺろりと舌を出した。
マユのお金でも安田の金でも買ってもらうのはなんだか悪い気がして、ぼくは持ち出してきた父親の財布でマユが選んでくれた服を買った。
着慣れないぴったりとした黒く皮製のものばかりだった。
ドクロの指輪やウォレットチェーンも買ってじゃらじゃらと付けて、気がつくとぼくはバイク乗りなのかバンドマンなのかよくわからない格好になっていた。だけど悪くはなかった。
マユは気にいってくれたのか、
「今度はピアスとかタトゥーとか入れようよ」
と、嬉しそうに笑ってくれた。
ぼくは真夜中の公園でマユに告白をした。
「安田さんが追っている少女ギロチン連続殺人の犯人はぼくなんだ」
その公園にひとつだけあった灯りは、ぼくだけを照らしている。マユは暗闇の中にいて表情はよく見えなかった。
「きみにはじめて会った日、ぼくはこれから殺す少女たちの体をよく知っておきたくてあの店に行ったんだ」
「だから最後の五分だけ、マユの裸を見てたの?」
「きみのことも殺そうと思った。だからきみの家を訪ねて、でもぼくはきみに恋をしてしまった。だから、きみを殺せない。きみだけじゃなくて、ぼくはもう誰も殺せなくなってしまった。今も事件は続いているけど、あれは妹の仕業で、ぼくはきみに再会してから一度だって人を殺したりしてない」
「ワタルくん、マユのことが好きだったんだ?」
マユはくすりと笑った。
「笑うなよ」
「違うよ。男の子に好きだって言われたのはじめてで嬉しかっただけ」
「嘘つけ」
マユには旦那だっているし、前に付き合っていたっていう男だっている。
店の客たちだって、みんなマユに好きだとか愛してるとかさんざん囁いていたに違いない。
「ほんとだよ。ワタルくんがはじめてだよ。
それにね、マユもワタルくんのことが好き」
暗闇から伸びてきたマユの腕にぼくは抱き寄せられた。
マユの柔らかい唇がぼくの頬や額や首や、それから唇に触れた。
この夜、その公園で、灯りの下、ぼくたちははじめて結ばれた。
妹に生きたまま皮を剥がれて死んだ父と首を吊って自殺した母の死体と姉の生首、そしてぼくが殺した百人近い女の子たちの骨や首のない死体や生首たちを、ぼくは庭に埋めた。
日がくれてから穴を掘りはじめ、埋め終わったのは明け方だった。死体を隠すということは大変なことなのだ。
宮沢の家でぼくとリカはふたりきりだった。
リカはぼくにかわって少女ギロチン連続殺人の犯人になってしまっていた。
模倣犯らしくリカの殺人は限りなく無差別で、もはや被害者はカスケードとは何の関わりもない者たちばかりだった。
そしてリカの殺し方はぼくよりはるかに人道的ではなかった。
ぼくは無数の死体たちを埋めながら、安田の言葉を思い出していた。
安田の最初の妻とこどもは妹に殺されたということ。
安田はマユがまた妹に殺されてしまうのではないか、と恐れていた。
そしてその妹がぼくに殺されたとき、ほっと胸をなでおろしたのだという。
マユは今度はぼくの妹に殺されてしまうかもしれない。
ならばぼくに与えられた選択股はふたつだ。
リカを殺すか、マユを連れて逃げるか。
マユをぼくのものにするには、後者しかない。
だけどリカはマユを殺すためにどこまでもぼくを追いかけてくるだろう。
そして安田もまたマユを取り戻すためにどこまでもぼくを追いかけてくるだろう。
マユを殺されてしまうことと、マユが再び安田のものになることはぼくにとっては同じことだ。
ならばぼくはリカと安田を殺し、マユを連れて逃げるしかない。
もうひとりだけ少女を殺して、生首を持ち去り、安田の隣に首のない死体をおいておけば、それをマユの死体だと考えてくれるかもしれない。
だけど、ぼくにはもう人を殺すことはできようはずもなかった。
ぼくはマユを手を引いて走っていた。
どうして?
だってぼくは連続殺人犯だから。
それ以外にぼくがマユといっしょに走る理由なんてないだろう?
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