インターミッション 行方知れずの子守唄
少女は大好きな呉羽お兄ちゃんがまた遊びに来てくれることを願っていた。
16歳の冬、本当は呉羽お兄ちゃんに抱かれるために、お金がなかったから各駅停車の電車に乗って遠い東京まで会いに行ったのに、その日の夜にもお兄ちゃんに抱かれるつもりだったのに、ふたりでお風呂とトイレがかろうじてついている古いアパートを出て、山手線に乗って新宿まで出たのは覚えているけど、少女は気がつくと病院のベッドで寝ていた。
兄は少女の手を握り、悲しそうな顔をしてうつむいていた。
少女はどうしてわたしは病院になんかいるんだろう、と思った。
胸のあたりが何かできつく締められて、両腕も動かなかった。点滴を腕に受けていた。
「お、にぃ、ちゃ、ん」
喋ると、口の中が切れているらしく、血の味とにおいがした。とても痛かった。
兄は顔を上げて、
「フミカ」
と、少女の名前を読んだ。
「わた、し、どうし、た、の?」
息をすることさえ苦しくなりながら、少女は聞いた。苦しくて涙が出た。
事故だよ、と兄は優しく言った。
「じ、こ?」
そうだよ、ふたりで新宿に行って、フミカははしゃいで繋いでいた手を離して、道路に飛び出してしまったんだ、それで車にひかれてしまったんだよ、と兄は言った。
嘘だ、と少女は思った。
少女は覚えていた。
兄は少女を後ろから強く抱きしめて、その力があまりに強かったものだから、少女の体は壊れてしまったのだ。
骨が折れる、おぞましい音を少女は思い出して、こわくなってしまった。
でもどうして兄はフミカにそんなことをしたのだろう。そんなことをする兄ではなかった。
だけど、兄が自分のために涙を流してくれているのを見て、許してあげようと思った。
そのかわりに、少女は腕が自由に動かせるようになると自分の手首を切ることを覚えた。
少女が手首を切るときは、いつだって兄を許したかったからだった。
一年が過ぎた頃、兄は知らない女の人を少女の病室に連れてきた。
病室はある朝外科病棟から精神病棟に移されていたが、少女は気がつかなかった。
七つも年上の、まもなく三十に差し掛かろうという女だった。
きれいな顔立ちをしていたが、化粧は薄く地味で、頬にはそばかすがあり眼鏡をかけていた。おとなしそうな印象だ。
頭はよさそうだが、結婚式に呼べる友達はほんの少ししかいなさそうだった。
確かに兄の好みのタイプだ。
昔から兄が付き合う女はいつもそういうタイプで、人見知りをする性格のせいで同級生から孤立してしまっているような、容姿もさして良くない女ばかりだった。
優しい言葉をかけてあげるとすぐに落とせるのだと言っていた。
兄はその女の人と結婚する、と言った。
兄は少女が入院してからは大学をやめて毎日見舞いに来てくれていた。
しかしある日背広を着てやってくると、働きはじめたから毎日は来てやれないかもしれないと言った。
見舞いのペースはすぐに三日に一度になり、やがて週に一度になり、いつしか一ヶ月に一度になっていた。
両親が見舞いに来たのは一度だけだ。心中してしまったことを少女は知らない。
一ヶ月ぶりに見舞いに来てくれたかと思ったらわたしに何の相談もなく結婚するだなんてあんまりだわ、と少女は、殺してやりたいとさえ思った。
誰を?
兄を。
だけど少女は兄を愛していたから、兄のかわりに少女から兄を奪った女を殺すことに決めた。
女は兄のこどもを妊娠していたから、殺すときは赤ん坊を引きずり出して食べてあげよう。
すべてあの女が悪いのだ。だからそうするしかない。
憎たらしい女。
骨折は完治したのに何故入院しているのか少女にはわからなかったけれど、女は病室に入ったときから少女をかわいそうなものを見るような目で見ていた。
わたしはあんたにそんな目で見られるほど落ちぶれちゃいない。
兄が大学をやめたのは少女といっしょにいてくれるためだ。
兄が働きはじめたのはこの女がそそのかしたにちがいない。
結婚だなんて! 兄はこの女にだまされているのだ。
少女の思考はエスカレートした。
この女が死ねば、兄はまた毎日少女に会いに来てくれるはずだった。
結婚式にさえ呼ばれなかったことが少女を駆り立てた。
少女は兄を愛していることを証明したくて、誕生日に買ってもらった一番お気に入りのロリ服を着て(もちろん体中をコルセットできつく締め上げて体のラインを細く見せ、胸だけは大きくするために未開封の点滴を胸元に入れた)正装し、病室を抜け出した。
オペ室に忍び込み、ナースを襲ってメスを盗んだ。
履きなれない真新しい厚底の靴はすぐに少女の足を使いものにならなくしてしまったので、通りかかったタクシーに乗った。
運転手はどこかで見たことのある女だった。
目的地を伝えると、
「ひょっとしてフミカちゃんじゃない? もう退院できたの?」
と運転手は言い、
「ほら、わたし、覚えてないかしら? 近所に住んでた名古屋のおばさんよ」
と言った。
少女の家のすぐそばに名古屋という苗字の家があった。あの家のおばさんだ。
確か三歳か四歳になる女の子がいたはずだが、名古屋さんの家は共働きで、帰りが遅くなるときなどは家族ぐるみのつきあいをしていた少女の家でその子の面倒を見ていたこともあった。
あの子の名前はなんて言ったっけ。
名古屋のおばさんは、少女の家につくまでひとりでずっとしゃべっていた。
中年の女はよく喋る。うっとうしくて仕方がなかったが、お金はいらないと言ってくれたので、素直にありがとうとお礼を言った。
家の玄関には鍵がかかっていたが、少女も鍵くらい持っていた。
扉を開けると、たまごが焼ける甘いにおいが奥のキッチンから玄関まで流れてきていた。
少女は大きく深呼吸した。
肺いっぱいにそのにおいを吸うと、あの女を殺したいという欲求が、いよいよ少女の体を完全に支配するのを感じた。
あの女を殺せ!
腹を引き裂いて赤ん坊を引きずりだせ!
本当にそうしたら、兄は一年に一度、少女の誕生日にしか会いにきてくれなくなかった。
女の腹から引きずり出した3センチくらいの本当に小さな小人を舌の上で転がして遊んでいたのを兄に見られてしまったのがいけなかったのだと少女は反省した。
12年が過ぎた。
少女は12年間をぼんやりと天井を眺めながら過ごしていた。
天井には無数の顔があり、少女をにらんだり笑ったりしていた。
そのひとりひとりに少女は名前をつけていた。
広がり続ける宇宙のように無数の顔は増えていく。
名前をつける作業には終わりがなかったから退屈しないですんでいた。
12年前の脱走と殺人を二度と繰り返させないために、少女は手足を動かせないように拘束具をつけられていた。
口にも拘束具が押し込まれていて、食事の時間だけははずしてくれる。
生理現象はオムツに垂れ流しだ。はじめは恥ずかしかったがすぐに慣れた。
男の看護士がそれを片づけて、少女の股間をきれいに拭いてくれることが今は楽しみでさえあった。
彼はごはんを食べさせてくれるし、歯を磨いてもくれるし、耳掃除もしてくれる。
髪や爪は月に一度その看護士が切ってくれたが、おかっぱにしてしまうし、深爪にしてしまう。少女はそれだけがいやでいやでたまらなかった。
しかし少女はようやく兄を忘れて、彼に恋をしはじめていた。
彼は今日、まだ来てくれない。
少女はひょっとして早起きしてしまったのだろうか、と思った。病室には時計がなく、厚いカーテンのせいで窓の外が明るいけれど日が差し込んでいないのか、まだ暗いのかさえわからなかった。
点滴の減り具合から想像することしかできない。
点滴が終わる頃には彼は少女に会いにきてくれるだろう。
と、そのとき、病室のドアが開いた。
彼が来てくれたのだ。
だけど、少女の顔をのぞき込んだその顔は彼のものではなかった。
その顔は天井の無数の顔のひとつににていた。
いつも少女を笑っていたその顔は、今日は笑ってはいなかった。
笑われていることをいつも不愉快に感じていたその顔は、笑わないととてもおぞましいものであったのだと少女が知ったとき、少女は首に鈍い痛みを感じた。
かつて兄に強く抱きしめられて骨が折れてしまったときと同じ音を少女は聞いた。
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