マスカレード②

『灰田。お前に仕事を頼みたい。すぐに来てくれるか?──

 電話口の向こうからそのセリフが聞こえた途端、わたしの腹が嫌な音を立てた。猛烈に嫌な予感がした。しかし、断るわけにもいかない。相手が相手だからだ。逃げられない運命というのは誰にでもある。

「わかりました。今すぐに。場所は?」

「例のクラブだ。よろしく頼む」

 電話が切れると、わたしは盛大なため息をついた。その様子を見ていたアルバイトのグエンが言った。

「どしたのおっさん。今のひと、誰?」

「シキシマ・エンタープライズの専務さんだ」わたしはぼそりと言った。

「へえ。おっさん、そんな人からも仕事もらえるんだね。すごいじゃん」グエンは感心した口調で言った。どうやら、真っ当な会社だと思っているようだ。

 残念ながらそうではない。

 シキシマ・エンタープライズはかつては敷島組といった。関東最大の暴力団、関東会の系列に属する団体だ。暴対法による締めつけもあって、今ではカタギの企業の皮をかぶっている。しかし、一枚皮を剥げば、やはりやくざであることに変わりはない。

 しかし、そんなことをグエンに教えてもしかたない。説明がややこしくなるからだ。

「ところで、なんでそんなため息ついてるわけ? 嫌な相手なの?」

「借りがあるんだよ」わたしは言った。「でかい借りさ。前にでかいトラブルに巻き込まれたとき、ずいぶん世話になってね。だから頭が上がらないのさ」

「ふーん。それでタダ働きさせられるとか、そういう感じ?」

 ほう。お前、鋭いな。

「タダ働きってほどではないがね。報酬の割にヤバい仕事を回されるんだよ──いろいろヤバい仕事をね」

「ふうーん」グエンは疑り深い目つきでわたしを見た。「もしかして、殺しとか?」

 わたしはずっこけた。

「あのさあ。きみ、おれのこと何だと思ってんの?」

「必要とあれば人殺しも辞さない怖いおっさん」

 あまりに端的すぎる表現だ。ぐうの音も出ない。

「……まあね、否定はしませんよ。ただ、おれはね、殺しの仕事は請けないことにしてるの。絶対。そのあたりぐずぐずになっちまったやつもいるけど、そういう連中は長生きしないからね……」

「ふうーん。いろいろ複雑なんだね」グエンはうなずいた。「それじゃ、ま、気をつけてね。留守番してりゃいいの?」

「ああ。よろしく頼むぜ」


 帰宅ラッシュで混雑する大通りを避け、せせこましい道をできる限り急いで飛ばし、わたしは指定されたクラブにたどり着いた。N……駅の東側に広がる繁華街の一画にある、こぢんまりしたクラブである。ドアには〈本日貸切〉の札がかけてあり、そのそばには黒服姿のガタイのいい若い男がひとり立っていた。汗で顔がてかっている。気候は若干涼しくなったとはいえ、こんなところで立ち番させられるとは、哀れな話である。いくらまっとうな企業の皮をかぶっていようが、やくざの本質は変わらない。徹底した上下関係が支配する世界だ。

「どちらさんで?」その若い男が言った。ドスのきいた声だ。

「灰田探偵事務所の灰田です」免許証ライセンスを提示しながらわたしは言った。「森谷モリタニ専務の呼び出しでこちらに参りました」

「へい。少々お待ちください」若い男はポケットからスマホを取り出し、何かしら操作した。チャットアプリで誰かとやりとりしているようだった。一通りやりとりを済ませると、彼はスマホをこちらに向けた。

「すんませんが、マスクを外してください。顔写真を撮らせていただきます。先方で本人かどうかチェックするんです。規則ですんで、ご勘弁ください」

 わたしは特に逆らわなかった。しかし、やけに用心深いことだと思った。いったいどうしたんだろう? 前はここまで神経質ではなかったはずだが。

 しばらくして、男のスマホが鳴った。スマホをチェックした男はうなずき、どうぞと言ってドアを開けてくれた。

 クラブの中は薄暗かった。洒落ているが、さして広くない店内の奥の方、ブース席により集まるようにして、スーツ姿の男が数人、ドレス姿の女がひとり座っていた。女はたぶんホステスだろう。テーブルには水割りのグラスが並んでいたが、誰もそれに手をつけていなかった。灰皿の上にはタバコの吸殻が山をなしていた。にも関わらず、店内は煙くない。高性能の換気システムを入れてあるのだ。見た目よりずっとこの店には金がかけられている。シキシマ・エンタープライズの幹部たちが秘密会合を行うための場所なのだ。

「おう、灰田。来たか。まあ座れ」

 男たちのひとりが言った。仕立てのいいグレーのスーツを着た、いかにもエリートビジネスマン風の50代の男だ。シャープなデザインのフレームレス・メガネの奥で、切れ長の目が鋭く光っている。この男が、わたしを呼び出した張本人──シキシマ・エンタープライズ専務、森谷五郎モリタニ・ゴロウである。森谷は国立大学の最高峰、T……大学で経済学を修め、アメリカへの留学経験もあり、外資企業で辣腕を振るったこともある。当然、経営学修士号MBAをはじめ、エリートビジネスマンにふさわしい様々な称号も持っている。それがどうしてやくざの世界に転がり込んだのか、わたしはそのあたりの事情はほとんど知らないが、いずれにしても今では押しも押されぬ凄腕のエリートビジネスやくざだ。年齢の割に高いポストについているのは、高齢化等によって、一時は解散寸前まで追い込まれた敷島組を近代的組織に作り替えるのに大いに貢献したからだ。関東会本家筋からも高い評価を受けていて、幹部会への昇進も取りざたされているという。本来、わたしのようなチンピラ探偵が、そばに寄っていくなどできない相手だ。

 わたしは軽く頭を下げてブース席についた。森谷の他に席に着いている男は、わたしを除くと3人だ。そのうちのひとり、60代と見える、ブラウンの背広を着たごま塩髪の男がわたしに軽く会釈した。仲田峰俊ナカタ・ミネトシ──シキシマ・エンタープライズが敷島組と名乗っていた頃からの古参構成員で、工業高校中退から叩き上げでのしあがってきた実力者だ。エリートインテリやくざの森谷とは対照的な存在である。組織の裏方を一手に仕切っており、仲田なしにはシキシマ・エンタープライズは早晩機能不全に陥るだろう……ともいわれている。その割には、偉ぶらず、わたしのような人間にも如才なく接する御仁だ。

 それに対し、わたしにいちばん近いところに座っている、40代前半とおぼしき、険しい顔つきの、ピンストライプの背広を着た、たくましい体つきの角刈り男は、露骨な不信と敵意に満ちた剣呑な視線をわたしに向けていた。この男には見覚えがなかった。新顔の幹部なのかもしれない。最後のひとり、20代後半の物静かな雰囲気の男は、森谷の秘書である。彼はわたしに軽く目礼した。

「さて、灰田」森谷が口を開いた。「今日、お前を呼んだのは他でもない。厄介なトラブルが持ち上がったからだ。お前のような人間でないとうまく捌けない類いのトラブルが、な」

「具体的にどういうトラブルなのか、教えていただけますか?」わたしは言った。

「強盗が出たのさ。裏カジノの売上金を狙って、な」森谷は答えた。


 シキシマ・エンタープライズ──敷島組は、もとをただせば博徒系の組織だ。その起源は江戸時代中期までさかのぼるともいわれる。けっこうな老舗なのだ(だからこそ、建て直しのために森谷が送り込まれた)。ともかく、そういうことで、昔から、賭場は彼らの主要な収入源だった。そして、近代的会社組織の皮をかぶるようになってからも、彼らは裏の賭博ビジネスを維持しており、当然その中には裏カジノも含まれている。

 裏カジノでは大金が動く。そして、電子決済全盛のこのご時世にも関わらず、未だに現金が主流だ。その売上金を狙って、強盗団が出没していると森谷は言うのだった。

「悪賢い奴らでな」森谷は言った。「売上金輸送車を狙うんだ。カジノを直接襲うよりリスクは少ないからな。輸送車のドライバーや護衛には、ろくな武器を持たせられんから……」

 このご時世でも、いや、このご時世だからこそ、警察は暴力団を強く警戒し、締めつけをゆるめていない。特に武器についてはその傾向が顕著だ。改正警備業法及び探偵業法に基づき、許可を得た探偵や警備員には一定の制限下で武器の所持・携帯・使用が認められるが、それ以外の民間人が勝手に武器を持ち歩いたり、ましてや使用することを警察は未だに認めていない。特にやくざについてはその制限が厳しい。なので、大量の現金を守らねばならないにも関わらず、売上金輸送車のドライバーや護衛は、ほとんど丸腰で任務にあたらねばならないわけだ。かといって、正規の武装警備員をつけるわけにもいかない。何といっても違法の裏カジノの売上金の護衛だからだ。違法とわかっていて契約に応じる警備会社はまず存在しない。

 だから、わたしのような人間に、警備の仕事のお鉢が回ってくる。

 はっきり言う。これはとんでもなく危険な仕事だ。

 こういう仕事をできる限り安全に進めるには、情報が欠かせない。できる限り多くの情報が。なので、わたしはたずねた。

「それで──強盗団の正体について、何かそちらでつかんでいる情報は……」

「それがわかってりゃ世話はねえ!」ピンストライプの男が怒鳴り声をあげた。「あいつらの正体がわかってりゃ、お前なんかに警備を頼むまでもねえ。おれたちだけでカタをつけてる。それがわからねえから、こうやってお前に仕事を投げてんだろうが。バカかてめえは!」

「落ち着け、大倉オオクラ……」森谷が低い声で言った。それからわたしに向き直り、「大倉泰弘ヤスヒロだ。うちの会社の保安責任者だ」と言った。

「裏カジノ関連の警備は大倉の担当でな。先日の襲撃で部下をやられている。それで気が立っているんだ」

「はあ、それは──お気の毒なことです」わたしにはそれしか言えることがなかった。

「そうかい。ありがたくって涙が出るね。あいつに聞かせてやりてえよ。──いつ意識が戻るかもわからねえけどな」

 そう言う大倉の目の奥に、暗い炎が渦巻いて燃えているのをわたしは見た。それに飲み込まれたやつは、誰も彼も、苦痛に泣き叫びながら、骨の髄まで焼きつくされるだろう。

「とにかく──」仲田が言った。「先日の襲撃もそうですが、強盗団によって、わたしどもの裏カジノ・ビジネスは、深刻なダメージを受けとるんです。単に経済的なダメージばかりじゃありません。わたしどもの威信が著しく傷つけられている。そのせいで、裏表問わず、カジノ以外の商売にも悪影響が出るようになってきたんですな。頭の痛い話ですよ、まったく……」

 それはそうだろう。わたしは思った。やくざの世界は威信が第一だ。凄味のきかないやくざなんて、弾の出ない銃と同じだ。そして、威信が低下すれば、当然、やくざはなめられる一方になる。真っ当な法の保護から外れているやくざの世界は、まさに容赦ない弱肉強食の世界なのだ。

「大方、半グレ連中だろうとは思いますがね。何せ連中、立ち回りが上手で、それとわかる証拠を残さんのですわ。わたしどもも、八方手を尽くして調べとるんですがねえ……今のところ、空振り三振で、情けない限りです」

 仲田は頭をかいた。

「とにかくだ──」森谷が言った。「これ以上、やられっぱなしでいるわけにはいかん。敵の正体を探るのは当然として、カジノの売上金も守らねばならん。だが、すでに述べたように、目下の情勢では、我々にできることは限られている。大前提として、うちの者で完璧な警備を敷くのは無理だ。さりとて、まともな警備会社に任せられる案件でもない。警察に泣きつくなどもっての他だ……だからこそ、灰田、お前に頼むんだ。腕利きのお前にな」

 そんなことを言われても、ちっとも嬉しくない。特に、大倉がものすごい目つきでわたしをにらんでいるこの状況ではなおのことだ。

「兄貴──」大倉が唸るように言った。「兄貴はこいつのことをずいぶん買っておられるようですが、本当にそんな腕利きなんですか? おれにはとてもそうは思えねえ」

「お前にも資料は見せたろう、大倉。こいつの腕は信用できる。口も固い。それに何より、我々の依頼を受けてくれる数少ない正規の請負人コントラクターのひとりなんだぞ。繰り返すが、目下の情勢では──」

「冗談じゃねえ!」

 大倉が叫んだ。両の拳をテーブルに叩きつける。ものすごい音がした。水割りのグラスが一瞬飛び上がる。ホステスが小さな悲鳴を上げて縮こまった。

「目下の情勢が何だって言うんです! これはおれたちへの挑戦なんですよ?! どこの誰だか知らねえが、何としてでも叩き潰さなきゃならねえ! ! こんなチンピラの手なんか借りるこたあねえ! おれたちだけでやれますとも!」

「なあ、大倉よ、落ち着けって」仲田がとりなすように言った。「おめえの気持ちもよくわかるぜ。だがな、ここはこらえなきゃならねえよ。下手を打ったら、桜田門の連中が、喜び勇んでおれたちを潰しにくる。そうなったら、おめえ、オヤジ──社長に、どうやって申し開きをするんだね?」

「くそったれ!」大倉はわめいた。「警察サツが怖くて、こんな商売やれるわけがねえでしょうが! あんな腰抜けの税金泥棒ども! 弱いものいじめしかできねえ犬っころどもの集まりじゃないか!」

「熱くなるな、大倉……」森谷が静かな声で言った。「いくらかつてより弱体化したといっても、未だ警察の力はバカにできん。それに、我々の組織は、まだ十分に力をつけたわけではない。近代化もまだ道半ばだ。そんなときに、うかつに動けば……」

「兄貴」

 大倉が言った。危険な静けさをはらんだ低い声であった。

「もしかして、兄貴は──ちっとばかし、軟弱になったんじゃありませんかね?」

 そのとたん、小さなブース席の中に、息詰まるような凄まじい緊張がみなぎった。森谷と大倉のあいだで、不可視の光線が飛び交い、激しく火花の散る音が聞こえた。いやマジで。

「あっ」ホステスが小さな悲鳴を上げて、その場にへたりこんだ。グレーター・やくざ同士の無言のバトルの激しさに耐えかねたのだ。失神しなかったのをほめてやりたいくらいだ。わたしは今すぐ回れ右して逃げ出したい気分だった。森谷の秘書の方を見た。若者は顔色ひとつ変えず、背筋を伸ばして黙って座っていた。大した根性だ。わたしの視線に気づいた秘書は、さりげなくウィンクすらしてみせた。いやはや。

「大倉──口が過ぎるぞ」仲田が言った。先ほどまでの、飄々とした爺さんという雰囲気はかき消え、その顔には凄惨な影があった。「立場をわきまえろ」

 大倉はものすごい目で森谷を、仲田を、それからわたしをにらみつけた。それから、憤然とした様子で立ち上がると、足音も荒く、ものも言わずに店を出ていってしまった。

 大倉がいなくなってしまうと、その場の空気はなんとなく弛緩して、白けた感じになった。ホステスは気を取り直して、せっせと我々の世話を焼きはじめたが、どうにもこうにも、白けた気分はなおらなかった。

「すみませんなあ」仲田が言った。「あいつは組織への忠誠心が強くてね、それはいいんですが──どうにも頑固者でね。よそ者が首を突っ込んできてガチャガチャかき回すのをひどく嫌うんですわ。いや、ずいぶん失礼をいたしました」

「おれからも詫びを言う」森谷も言った。「とにかく、お前を雇うことには変わりはない。すでに社長には話を通してある。では、詳細を詰めよう」

 とりあえず、わたしは森谷や仲田とともに、仕事の詳細について話し合った。警備の開始は一週間後ということになった。ちょうどその日が集金日にあたるからだ。わたしは資料を読みながら、あれこれと質問した。

「で、この担当ドライバーの……これ、なんて読むんです? マツリト?」

祭戸サイドです」仲田が言った。「祭戸サイドカズオ。イラン系の三世ですよ。最近保安部に配属されたばかりですが、なかなか優秀でね。大倉が目にかけてやっている小僧です。まあ、あんたの足を引っ張ることはないでしょうな」

「武器についてはどうします?」

「銃やナイフはできれば避けてくれ」森谷が言った。「下手に死人を出すと警察がうるさい。お前にしても、死体をうっかりこしらえて、警察の世話になったら困るだろう?」

「承知しました。では、そのように……」

──打ち合わせが済んだ頃には、もうすっかり夜も更けていた。スマホをチェックすると、グエンから連絡があった。もう帰ったとのことだった。事務所の鍵はかけてあるから心配するなとある。やれやれ、助手がしっかりものでありがたいね、と思っていると、森谷がこちらに近づいてきた。

「済まなかったな。大倉がまさかあそこまでキレるとは思わなかったんだ。大倉の不満を読みきれていなかったな」

「しかたないことですな。そちらもお忙しいんでしょう?」

「まあな。立場が上がれば上がるほど、あれやこれや、ややこしくて面倒な仕事が増えるよ。それに、組織内政治ってのも絡んでくる……このあたりは、やくざも企業も大差ないな。どこもかしこも伏魔殿だよ。灰田、正直お前がうらやましいと思うこともある……」

 わたしは苦笑いした。

「これはこれできついですよ。いつだって命がけだし、その割に報酬は低いし。あと、ろくな保険に入れませんしね」

「どこもきついのは変わらんな。まあ、それはともかく、よろしく頼む」

 森谷はそう言って疲れた笑みを見せた。これまで見たことのない表情だった。もしかすると、今回のことで、けっこう追い込まれているのかもしれないな、とわたしは思わずにはいられなかった……。

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