値打ちもの③
牧田警部補から連絡があったのは、二日後の深夜のことだった。
『犯人の目星がついた』開口一番彼女は言った。『歩き方に特徴があってね。市警のデータベースに記録があった。氏名はカルロス・タナカ・サントス。年齢は32歳。日系ブラジル人コミュニティの出身。過去に窃盗で一度逮捕歴あり。今はA……区の
「ありがとうございます」回線越しに見えるわけはないが、わたしは頭を下げた。思った以上の収穫だった。「ついでといっては何ですが、現時点でのサントスの居住地はわかりますか?」
『当然。そのあたりは抜かりないよ』牧田は言った。『ところで、そちらからの見返りは?』
わたしはとりあえず、ここ最近収集したネタの中で、質のいいものをいくつか取り揃えて牧田に送付した。しかし、今回については、この程度のネタでは釣り合いが取れないのはわかっていた。相手もそうだろう。遠からず、何らかの形で埋め合わせを要求されるはずだった。まあいい。こちらとしては、それで警察官とのコネが維持できればいいのだ。
牧田からまとまったデータが送付されてきたことを確認し、細々したやり取りを済ませてから電話を切る。時計を見ると午前2時を回っていた。わたしはとりあえず眠りについた。
翌日、わたしはラフな身なりで事務所を出た。太陽は中天にかかろうとしていた。くそみたいに暑い。わたしは愛車のダイハツ・エレカ(年式落ち)に乗って、牧田に教えられたサントスの現住所に向かった。あらかじめ仕事先に探りをいれて、今日は彼が休みを取っていることは確認済みだった。
サントスのねぐらがあるのは、A……区を流れる川の近くにある公営団地だった。昔はいざ知らず、今はスラムだ。駐車場はあるが、よほどの間抜けでなければ、そんなところに愛車を止めたりはしない。わたしは少し離れたところにある、割高の有料駐車場(クラス1武装警備員常駐)に車を止めて、そこから歩いて団地に入った。
団地に入ると、監視ドローンが二機ほど寄ってきて、こちらを無遠慮に眺め回した。団地の管理当局と契約した警備会社のものだろう。実質的に、ここの住民を見張るための存在だが、一応こうやってよそ者にも対応するわけだ。わたしは好きなだけドローンに眺めさせてやった。しばらくすると、ドローンは飽きたかのようにスーッと離れていった。怪しいところはない、と判断されたのであろう。わたしはフンと鼻を鳴らして、どんどん歩を進めていった。
団地の敷地内には広場があった。往時は団地居住者の憩いの場だったのだろうが、今はそういう雰囲気の場所ではなかった。空き缶やら空のペットボトルやら、割れた酒瓶やら、ゴミクズやらが散乱し、鼻をつく悪臭が漂っている。広場の片隅には、ホームレスの住みかと思われる、ブルーシートと段ボールとトタン板で作られたひしゃげた小屋もいくつか確認できた。そこから探るような眼差しが注がれてくるのもわかった。──わたしは慣れているからどうということはないが、こういうのが我慢できない人間は多い。特に、昔の、治安のよかった頃を覚えている、プチブルの老人たちはそうだ。だから、ことあるごとに、老いぼれ政治家やその腰巾着が、こういう場所の“浄化”を言い立てるのだろう。もとはといえば、そういう連中が、世の中がこうなる道筋をつけていったわけだが、無責任な話である。まあ、どうでもいいが。
団地の建物の入り口にたどり着くと、そこには若い連中がたむろしていて、胡乱な目をこちらに向けてきた。たぶん、“自治組織”の連中だろう。こういう場所には必ずこういう手合いがいる。やくざやギャングの親戚みたいなものだが、一応こういうコミュニティの治安をそれなりのレベルに保つ役割を果たしている。こういうコミュニティの住民は、警察や警備会社を信用しない。まあ、警察や警備会社が彼らをどういう具合に扱っているか考えたら、当然の話だが。さっきの監視ドローンがいい例だ。
「おう、おっさん。どうしたんだい。見慣れねえ顔だな……」
若い連中の中から、兄貴分と思われる男が歩みでて、こちらに近づいてきた。そいつは山羊みたいなひげをはやし、ピアスをいくつもつけていた。また、大昔に犬のように撃ち殺された、南米の革命家の顔がプリントされたシャツを着ていた。たぶん、着ている当人は、その革命家のことなど少しも知らないだろう。それより大事なことは、そいつの筋肉がずいぶん発達していることだった。日々の過酷な労働か筋トレの成果かはわからない。いずれにせよ、こいつを怒らせると、ろくなことにはなるまい。
「道にでも迷ったのかい……だったら、悪いこたあ言わねえ。回れ右して、家に帰んな。そいで、ママにでも慰めてもらいなよ」
山羊ひげ男はそう言って笑った。周りの連中も笑い声をあげた。笑うと、山羊ひげ男の前歯の一本が欠けているのがわかった。若干滑稽な眺めだったが、ここで笑ったら何が起こるか容易に想像がついたので、わたしは顔面の筋肉を叱咤して無表情を保った。ひとしきり笑いが収まると、わたしは口を開いた。
「道に迷ったわけじゃない。人を探しにきたんだよ」
「人探しだって……あんた、ひょっとして
「いいや、探偵だよ。疑うなら、免許を見せてやってもいいぜ」わたしは言った。それから、タナカ・サントスの
「んん? ちょっと見せてみろ」山羊ひげ男はわたしから写真を取り上げてしげしげ観察し、他の仲間にも回覧した。ああ、こいつ知ってるわ、という声がいくつか上がった。けど、こいつ付き合いが悪くてよ、何やってるかイマイチわっかんねーんだよな。ヤードで働いてんのは知ってっけどよ。何か気味の
「まあ、そういうわけだ」山羊ひげ男はわたしに写真を返しながら言った。「確かにこいつのことは知ってるが、ろくに知らねえとも言える。秘密の多いやつなんだ」
「なるほど」
「ここは仲良しこよしの田舎の村じゃねえ。みんなワケありだからな。だから、余計なことは詮索しねえようにしてるのさ。まあ、とりあえず、こいつはおれたちとはさして関係のねえ野郎だ。会うくらいなら問題ねえ。ただ、もめ事はなしにしてくれよ」
「わかった」わたしはそう言って奥に進みかけた。
「おい! ちょっと待て」山羊ひげ男が言った。「ひとりついていかせる。さっきも言ったが、もめ事は困るからな。お目付け役よ」
「はいはい」わたしはうなずいた。こういうことにも慣れている。適当に見張りをごまかすやり方も知っている。大した問題にはならない。
──山羊ひげ男がいうところの“お目付け役”というのは、東南アジア系とおぼしき、小柄な女の子だった。派手な色合いの、身体にぴったりしたシャツを着て、ショートヘアにはピンク色の房がまじっている。それだけなら、どこにでもいそうな女の子だが、目付きは違った。さすがに、こういう連中の一員をやっているだけのことはある。とはいえ、うまい具合にごまかしてやる自信はあった。もっと抜け目ない連中をだまくらかしたことだって何度もあるのだ。
「言っとくけど、バカなまねしたらぶっ飛ばすからね」彼女は凄みを効かせているらしい声で言った。とはいえ、もとのトーンが高いから、さしてものすごい感じにはならない。「あんたみたいなおっさん、わたしが相手だとたいていバカをやるからね」
「やらないよ。必要もないのに喧嘩はしないんだ」わたしは微笑んで言った。「ところで、もしバカをやらかしたら、どうなるんだい」
彼女の動きは速かった。いつのまにか手の中にバタフライナイフが握られていた。彼女は器用にそのナイフを手の中で回転させながら言った。
「とんだめちゃくちゃになるよ。とびっきりのめちゃくちゃ。指とか、もっと大事なとこと泣き別れになるかもね」
「なるほどね」わたしは言った。「ところで、そこまで行ったことあるのかい」
「ないよ」彼女はあっさり言った。「たいていのやつは、抜けばおとなしくなるからね。おっさんは何か違うね」
「慣れてるからね」わたしは答えた。それきりわたしたちは黙った。黙ったまま、階段を登っていった。
そう、階段なのだ。あきれたことに、この団地にはエレベーターがなかった。いや、本当はあるのだが、故障して久しいらしく、修理業者も来ないとのことだった。だから、古株の連中や力のあるやつほど、下の階に住んでいる。逆に、力のないやつ、コミュニティの中で浮いているやつは、上層階に追いやられるというわけだった。そして、我らがタナカ・サントス氏はといえば、お住まいなのは7階。まあ、中の下というところだ。
階段を登るにつれて、どんどんゴミの量が増えていくのがわかった。落書きの数も増加していく。ノイズもどんどん強くなる。子供の泣き声、怒鳴り声、ぎゃんぎゃん騒がしい音楽。それから臭い。こういう場所には仕事で何度か来たことがあるが、どこも同じだ。逆しまの階層社会。こういう場所では、心の柔らかい部分のスイッチをオフにしておく。いちいち何か感じていたら、神経がもたなくなる。内なる無神経を啓発し、世界一鈍感な人間になれ……というわけだ。わたしに探偵のいろはを教えてくれた師匠がそう言っていた。
目的の階に到着すると、わたしたちはゴミの散らばる廊下を歩いて、奥まったところにあるサントスの部屋に向かった。部屋の前に来ると、わたしは呼び出しブザーを押そうとした。
「それ、壊れてるよ」お目付け役の子が言った。「ノックしないと」
「それを早く言ってくれよ」わたしは苦笑いして、言われた通りにした。それから、ちょっと考えて、こう言った。
「ええと、タナカ・サントスさん? お届け物です。いらっしゃったらお返事ください」
お目付け役はこちらを奇妙な目付きで見た。何言ってんだこいつと言わんばかりだった。わたしは別に構わなかった。バカ正直に探偵だなどと名乗ることはない。相手を警戒させてもろくなことはない。
返事はなかった。
わたしはもう一回同じ手順を繰り返した。返事はなかった。
いやな予感がした。
わたしはドアノブをつかんでひねった。ドアは軋み音を立てて開いた。
踏み込んだ。部屋の中は暗くて蒸し暑かった。わたしは懐から、いつも持ち歩いている小型のフラッシュライトを取り出して室内を照らした。
床の上に長く延びた浅黒い毛脛が二本見えた。
わたしは毛脛の主の顔をフラッシュライトで照らした。まちがいなく、カルロス・タナカ・サントスだった。ただし、眉間に小さな穴が空いていた。その目は虚ろに見開かれ、この世ならざる場所を見つめていた。
「マジかよ」声がした。一緒に入ってきたお目付け役だ。「ウソでしょ、死んでんの……」
「そのようだな」わたしは言った。「きみ、警察に電話してくれ。他の連中にも知らせるんだな。おれは現場保全をしておくから」
彼女は一目散に部屋の外に飛び出していった。わたしはその隙に部屋の中を素早く検索した。しかし、後から警察が来る以上、むやみやたらに探し回ることはできなかったから、やれることは限られていた。結論から言うと、宝石は探した範囲では見当たらなかった。状況から考えると、仲間割れか何かで、サントスは殺され、宝石は持ち逃げされたと考えるのが自然だった。
すべきこともなくなったので、わたしはサントスの死体の状態をチェックした。見る限り、眉間の風穴以外に大きな損傷はなかった。穴の周囲はきれいなもので、火薬ガスによる裂け目や皮膚の盛り上がり、火薬によるパウダータトゥーイングなどは見られなかった。つまり、接射ではないということだ。また、穴の直径の小ささや、弾丸が貫通していないことから、ローパワーの小口径弾が使われたのは明らかだったが、それ以上のことは何もわからなかった。
なんたることか。とんだ予想外の展開だ。しかし、こんなことでめげてはいられない。もっと困難な案件にぶち当たったことも二度や三度ではないのだ。わたしはとりあえず部屋の外に出て、警察がやってくるのを待ち構えた。
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