ドクター・マーセデス・ロータス: 6

 二〇分ほどして、ヤノが戻ってきた。

「すまんな」

 若い従業員たちがはしゃぎながら帰っていく気配を聞きながら、ふと、ヤノはいまでもレースを続けているのだろうかと思った。

 ニナがいなくなったいま、若い彼らと一緒に。

 沈黙の気まずさを紛らわそうと、私はカップに口をつけた。すっかり冷めていたけれど、思っていたほど泥水というわけでもなかった。

 ヤノは自分のコーヒーを注ぎ直し、しばらく立ったままカップをのぞき込んでいた。

 泥色の水面に自分を映しながら、彼はつぶやいた。

「だが、ドクター。あんたのいったとおりかもしれん」

 私は黙って首をかしげた。

「ニナはあのとき、加速中毒アクセラディクションだったのかもしれん」




 ヤノはカップを置き、二号機の動画データを再生した。

 光点がオブジェのはるか向こうで消失すると、彼は直前まで巻き戻してポインタを合わせた。

「ゆがんだフレームで飛べば、機体の振動は耐えがたいほどひどくなる。直進を体感するには大きな加速度が必要だっただろう。

 そして、感覚は麻痺する。加速感を得るためには、さらに加速しなければならん。

 それをくり返すうちに、どこかでニナは減速すべきタイミングを見失ってしまったんだ」

 人体の構造上、人間が耐えられる加速度は六Gが限界とされている。訓練を受け、耐Gスーツを着用して、十二G。血管は、十八Gで損傷しはじめる。

 彼女は七分間に渡って加速し続け、消失の直前には五〇Gを記録していた。




 工場を出ると、もう夜だった。

 居住衛星ハビサットも夜は暗いが、星空があるわけではない。星明かりは、採光窓の反射鏡に映るのだ。

 私はヤノをふり返った。

「彼女が加速度依存症だという考えには賛成できない。もしあなたがいうとおりだとしても、最後の瞬間にそうだったというだけで、常習的なものではないでしょう」

 口にしたそばから、自分のことばに少なからぬ驚きを感じていた。前言をひるがえしたばかりでなく、必要以上に固執しているようで。

 しかし、ヤノはどこか高いところを見上げて、まったく別のことをいった。

「ニナはどこへ行こうとしていたのか?あんたはそういってたな。

 あんた自身はどう思ってる」

 その視線は、採光窓に向けられていた。

 反射鏡の中の星空を、流れ星がひとすじ横切った。

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