ドクター・マーセデス・ロータス: 5

 加速度依存症アクセラレーション・アディクション。もちろん医学上、そんな症状は未定義だ。

 無謀と勇敢をはきちがえた若者たちや、自分を若者だと思いたがる一部の大人たちが信奉する、幻影にすぎない。

 だけど彼女の場合は、そう考えたほうが自然に説明できるように思えた。

「もともとその傾向は見られたわ。彼女の関心はテスト――――結果よりも、テストで飛ぶこと――――に向けられていた。日常生活よりもフライト中のほうが、陽気で活発だった。幼少期からレースアニメとその登場人物に傾倒していた。

 あなたはたしか、レーサー時代の彼女を知っているのよね。あなたから見て、彼女はどんなタイプのレーサーだったの?ブッ飛ばすのが好きだったんじゃない?」

 ヤノが返事をしなかったので、私は話を続けた。

「テスト中、彼女は施設に閉じ込められて外出もできなかった。ようやく解放されたと思ったら、いきなり危険な前線へ送られた。出撃してすぐに同僚が死亡した。推進剤もなく、通信手段も失い、帰る場所も見つけられなかった。ストレスは頂点に達していたはず。

 自暴自棄になった彼女は、最後の推進剤を使って……現実から逃避しようと……」

 私のことばは尻すぼみに消えていった。

 ちがう。

 これは、彼女の実像ではない。

 ファリーナ・リントのエンジニアはしばらく考えたあと、口を開いた。

「さっき話そうとしていたことの続きだ。推進剤についてなんだが」




 ヤノは新しくアニメーションを再生し、一時停止した。粗い画像は、ふたつの光点を示していた。

「イタスカで観測した一号機と二号機の識別信号を、映像化したものだ」

 画像が動き出すと、ふたつの光点は接触し、分離し、両方ともが虫の這うような不規則な動きをした。

 しばらくすると、片方はよろめきながらもまっすぐに進みはじめた。まっすぐに。

「二号機はコントロールを取り戻してるだろう」

「ええ」

「機体が不自然に回転したとき、コンピュータは復旧のためにヴァーニアスラスタを噴射する。これは一号機、二号機ともに作動した。

 だが無秩序回転ケオティック・ローテーションはあまりにひどすぎた。完全に安定する前に、両機の推進剤は切れた」

「でも、彼女は飛んでいるわ」

「通信機と同じだ。推進剤は主副で別系統になってるんだ」

「つまり、サブ系統の推進剤はなくなったけど、直進用のメインは残ってたのね?」

「そうだ。通話でいっていたのはそういうことだと思う」

 たしかに、あの声から絶望の響きは感じられなかった。




「でも、やっぱり説明としては不充分だわ。なぜ彼女は方角もわからないのに前進したの?停止するほうが安全じゃないかしら」

「ニナが勝利の塔チトールの近くを通過したのは偶然じゃない」

 私の質問に対し、ヤノはアニメーションを縮小した。

 奇妙な形のオブジェが映った。縮小スケールにもかかわらず、巨大であることがわかる。光点はオブジェの足もとをかすめて飛び去った。

「ニナはイタスカが見つけられなかった。そこで、勝利の塔チトールへ帰還しようとしたんだ」

「レーダーが壊れてるのに、どうやって方角を?」

「故障に気づかなかったのかもしれない」

 ヤノがオブジェを拡大すると、中心でx軸、y軸、z軸が交わっていた。

勝利の塔チトールなんだ。ニナは、三角法を使って原点を割り出したんじゃないだろうか。結局はそれてしまったが」




「次に、前進した理由だが」

 そういうとヤノはしばらくうつむいて、考え込むように押し黙っていた。それから顔を上げると、空になったマグカップを手にした。

「衝撃の大きさからして、二号機の骨格フレームはゆがんだと見ていい。重心が変化し、二号機は偏心運動に移行した」

 彼はマグカップをいびつに回して見せた。

「KXL1は、ヴァーニアスラスタが機能しなくても、アウトリガーで姿勢制御ができる。本来ならコンピュータが制御の補助をするが、変化した重心にプログラムが対応できなかった。

 ニナは、自力で二号機の姿勢を安定させようとしたんだと思う。そのためには基準ガイドが必要だったんだ」

基準ガイド?」

「まっすぐ立ってみろ。自分が直立していることは、周りを見ればわかるな。だが、目を閉じてもわかる。どうしてだと思う?」

「……重力を感じるから?」

「そうだ」彼は深くうなずいた。

「常に前方からGがかかっていれば、まっすぐ進んでいることが確認できる。

 ニナは、姿勢を安定させるために――――安定していることを感じるために、自分で重力を作り出したんだ」




 階下でがやがや声と足音がした。

 終業時間なのだろう。ヤノは「ちょっと待っていてくれ」と告げ、一階へ下りていった。

 私はコクピットに座る彼女のことを考えていた。

 目も耳も失いながら、手探りで闇の中へ踏み出す姿を。

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