◆ 五
次の日、朝十時ごろ起きた。朝食を取ると、僕はランニングを始めた。なんとなく、学校とは真逆の方へ走り出すことにした。まあ、学校では授業中の時間帯なので、生徒と会うことはまずありえないのだが。
一応、陸上部だったので、走ることは苦手ではない。汗を流しながら、引きこもっている間に体にこびりついたノイズをそぎ落としていく。
新しいランニングシューズは、クッション性があり、脚への負担が少ないような気がする。体が温まってきたのを感じると、少しずつスピードを上げていく。
ふと、このシューズを買った日のことを思い出す。ハンバーガーを食べていると、なぜかあのタバタという男が、僕の隣に座ってきた。彼は今、何をしているだろうか。相変わらずあの地下道で過ごしているのだろうか。それとも、なけなしの金でマクドナルドに行っているのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら走った。
二キロほど走ったところで、引き返す。すれ違う人とは目を合わせない。僕は風景に馴染み、存在を消しながら家に戻った。
運動をした勢いのまま、僕は服を着替え、例の地下道に向かうことにした。
地下鉄に乗り、駅に着くと、初めてタバタと出会った地下道へ向かった。なぜ、自分は彼に会おうとしているのだろうか。理由を考えないように、答えを出さないように、無心で歩いた。
彼は、初めて会ったときと同じように、地下道の壁にもたれながら、座っていた。そこは相変わらず、薄暗く、ほこりっぽい。清潔な部屋にこもって過ごしている僕からすると、よくこんなところで体調を崩さずに過ごせるものだなと思う。
正面から目を合わせるのが恥ずかしく、向こうから気づいてもらえるように、目を合わせないように正面を見つつも、ゆっくりと彼の前を横切った。
「よお」
やはり、彼から話しかけてくれた。
「こんにちは」
「今日も学校は休みか」
少し間を置いて、考える。学校は休みじゃないが、僕は休みだ。
「はい」
「サボり?」
「ああ、まあ」
ほほ笑みながら聞いてくるタバタには、学校に行かない僕をとがめる気がないらしい。そのほほ笑みに、不思議な安心感を得られる。
「お前は、どうして学校を休んでるんだ」
「うーん、なんとなく」
僕はどうして学校を休んでいるんだろう。行きたくないからだ。
どうして学校に行きたくないんだろう。居場所がないから? 行く意味がないから? 楽しくないから?
「はっはっはっ。なんとなくか。まあ、なんとなく学校に行ってる奴がほとんどだから、なんとなく休む奴がいてもいいわな」
タバタはそう言って笑い飛ばしてくれた。
「はい。行っても楽しくないし、行く意味がよくわからないんですよ。学校って何のために行くんですかね」
「おいおい、そもそも人生は楽しいことばかりじゃないぞ。まあ、たしかに学校に行く意味がわからないという生徒は、たくさん知ってるけどな」
彼は怒らず、ほほ笑んだまま、話を続けてくれた。
「俺が中学校で教師をやっていたときにさ、クラスに不登校の子が四人いたんだよ。俺は、そいつらが学校に行かないという選択をしたんだから、それでいいと思ってたんだよ。それを校長とか、学年主任がさ、学校に来られないのは担任の責任だのなんだのって言ってきてさ。最終的には校長室で大げんかよ」
「えっ、けんかですか」
大の大人もけんかをするんだな。しかも校長先生と。
「ああ、頭にきて言い返しちまって…」
タバタにしては珍しく、歯切れ悪く言いよどんだ。斜め下を向き、思い出したくないことを、思い出してしまったような顔をしていた。
「それでクビになったんですか?」
「ああ。実は俺は正規の職員じゃなくて、臨時採用で教師をやってたんだよ。なかなか試験に受からなくてさ。そこで校長と揉めちゃったから、もう教育委員会も仕事をくれなくて」
それから、タバタはこれまでの経歴を話してくれた。二十代の頃はコンビニの店長をしていたこと。友人に勧められて通信制の大学に通い、教員免許をとったこと。小学校や中学校で臨時採用講師として勤務してきたこと。
「ま、そんな風にフラフラしてたらこうなったっていうわけ」
「はあ」
身の上話を聞かされたときに、気が利いた相槌が打てるほど僕はまだ大人ではない。
「でも、俺はいまだに疑問なんだよ。学校は本当に全ての人が行くべきなのかって。多様性が重んじられるこれからの社会で、一律に同じ教育を受ける必要ってあると思うか?規格品製造工場みたいな指導をしているようなところだったならなおさらだろ」
タバタは熱弁した。これまでに何度も話してきたセリフのようにも聞こえた。地下道を通る人が、ちらっと僕たちを見て、足早に通り過ぎていった。
「うーん。でもまだまだ学歴社会は続くんじゃないですか。僕も、親に学校に行くように言われるときは、たいてい、『ずっとこのままじゃ社会に出られないぞ』って説得されますよ」
「まあ、それも間違いではない。ただ、高卒認定試験ってのがあって、それに受かれば高校を卒業したのと同じ資格が取れるんだぞ。自力で勉強してその資格を取れば、そこから大学受験を目指すことだってできる」
「へぇ、そんなのがあるんですか」
「ああ、そうだ。俺が教師をやっていたときに感じたのは、どうしても学校という環境やシステムになじまない子っていうのは、必ずいるってことだ。そんな子たちを、無理やり教室に連れていくようなことはしたくなかった。だから、いろんな選択肢を与えたかった」
「それを校長先生に言ったんですか」
「そう。でも、聞き入れてもらえなかった。とにかく学校に連れ戻す努力をしろ、それが教師として当然の役割だと」
ふと、担任の顔を思い浮かべる。小山先生という若い女性の先生だ。二週間に一回くらい、家にプリントを届けに来てくれる。小山先生は、僕にどうしてほしいと思っているのだろう。
ぼんやりと考えている僕に、タバタはさらに問いかける。
「羽賀君、なんとなく学校に行っていないこの間に、もう一度よく考えてみたほうがいい。学校は何をするところか、何を学ぶところか。何のために行かなければならないのか。それに自分なりの答えを出してから、親や先生と話してみるといい。また学校に通い始めるのか、違う道を探すのか、君にとって一番いい道を見つけるんだ」
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