◆ 四

 それから三日間、金曜、土曜、日曜と、僕は家から出なかった。天気が悪く、出る気がしなかったというのもあるけれど、家の外に出ることで、見たくない現実が見えてしまうのではないかという気がしていた。最近の僕は、気持ちに起伏がある。

 月曜日の朝、カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚めた。スマホのディスプレイには「9:38」と表示されていた。

「おはよう。ご飯食べなさい」

 一階に降りると、母が窓を開けて、掃除をしているところだった。十月の風は少し冷たくなり始めていた。

「あんた、そろそろ運動でもしたら? 陸上部でしょ」

 陸上部「だった」だ。もう戻る気はない。

「んー。走る靴がない」

 夏休みに家の掃除をしたとき、サイズが合わなくなったランニングシューズを捨てた。

「じゃあ、今日買って来なさい。外に出る、いいきっかけでしょ」

 母の圧力に負けて僕は四日ぶりに外出することになった。

 この前、ゲームを買いに行ったときと同じ駅を降り、駅ビルの中にあるスポーツショップに行くことにした。

 なんとなく、少し遠回りして、例の地下道を通らないようにした。僕は、知らない人と関わるのはもちろん苦手だが、「中途半端に知っている人」と話すのがもっと苦手だ。相手が自分のことを全く知らず、白紙の状態で見てくれるのであればいいのだが、少しでも自分の人となりを知られていると、心を許しているわけでもないのに、自分のことを見透かされているような気がして心地が悪い。

 だから、あのホームレスと会う可能性がある、地下道は通りたくなかった。

 

 アシックスのランニングシューズを購入した僕は、マクドナルドで昼食を取ることにした。平日にも関わらず、制服を着た女子高生グループがいくつかのテーブルを占拠し、馬鹿みたいに大きな口を開けてしゃべっていた。高校は簡単にサボってもいいものなのだろうか。

 一人でカウンター席に座り、スマホをいじりながらハンバーガーをほおばっていると、隣の席に男が座ってきた。他にも空いている席があるのに、わざわざ隣に座ってこられるのは気分がよいものではない。

 不快感を悟られないように、「あなたを気にもとめていませんよ」とでも言うように、僕は意識の幅をハンバーガーとスマホに狭めることにした。

「よお」

 その声が自分に向けられたものだと気づくまで、少し間があった。

 あのホームレスだった。

「あっ…」

 多分、本当に驚いた人の顔をしていたと思う。こういうとき、どんな風に返事を返せばいいのか僕はまだわからなかった。

「はっはっは。驚かせて悪いな。たまたまお前を見かけたからよ」

 男は白い歯をのぞかせながら、なれなれしく話しかけてきた。ホームレスにしては、健康的な笑顔だった。

「あぁ、そうなんですね」

「今日も学校はサボりか?」

 男は急に声を落として、僕にしか聞こえないような声を聞いてきた。

「んー、まあ、そんな感じです」

「そうか。いいなあ、お前は。」

「えっと、あなたは…?」

 相手のことを何と呼んでいいかわからず、失礼には当たらなそうな「あなた」という呼称で呼んでみた。

「俺はタバタだ」

「あっ、羽賀です」

「羽賀君ね。よろしく。中学生かな?」

「はい、そうです」

「やっぱりね。俺は昔中学校の先生だったから、わかるよ」

「えっ、そうなんですか」

 驚いた。しかし、言われてみれば、教師風の雰囲気を持っている人だな、とも思う。

「なんの教科の先生ですか?」

 気付くと、僕は初めて自分から質問をしていた。めずらしく、言葉のキャッチボールを自ら始めようとしていた。

「なんだと思う?」

「うーん、体育か社会かな」

「正解。社会の先生だった。まあ、クビになってからは…、この前見たからなんとなくはわかるよな」

 このホームレスの男にも、何か事情があって、教師という仕事を辞めざるを得なかったのか。僕は、「ん、まあ…」とあいまいにうなずくことしかできなかった。

「羽賀君はさ、最後に学校に行ったのはいつ?」

「えーっと、一か月くらい前かな」

 本当は三か月以上行っていない。なぜか見栄を張ってしまう。必要もないのに。

「そうか。ま、いい機会だ。ゆっくり休んでな」

 そういうと、タバタはトレーを持って立ち上がった。

「はい、また…」

 僕は目を合わせずにうなずき、すぐにまたスマホに目を移した。


 今日もまた、夕方ごろ寝てしまっていた。家に着いてからランニングをしようと思っていたのだが、下校中の同級生に出くわしてしまったら面倒だと思い、結局ゲームをすることにした。で、またいつものように眠ってしまったというわけだ。

 この頃、夕方から夜まで寝て、夕食を食べてそのまま夜更かしをするという生活パターンが身についてきてしまった。ある意味、規則正しいと言えるのだが。

「ただいま」

 一階に降りると、父が食卓にいた。母は僕のおかずを温め直しているところだった。食卓には母の食べかけの料理があるところを見ると、階段を下りる足音で、僕が下りてくることがわかり、準備を始めたのだろう。

「おかえり」

 今日は、特に会話もないまま食事が進んだ。その時、僕は昼に例のホームレスに再会したことなどすっかり忘れ、焼き魚の骨を取ることに集中していた。

「今日は出かけたんだって?」

 父が問いかけてきた。僕は昼のことを思い出す。

「うん。ランニングシューズを買ってきた。明日から運動するよ」

 タバタのことは言わなかった。それを話すことで、いろいろと質問をされるのではないかと思ったからだ。僕だって彼のことは何もわからない。親は、子どもだってわからないことを何でも聞きたがるものなんだ。

 僕はご飯を食べながら、考える。中学校の教師はみんな公務員のはずだ。タバタは「クビになった」と言っていた。よほど何かやらかしたのだろうか?

「ねえ、公務員ってクビになることってあるの?」

 この前のように、気付くと僕は突然質問をしていた。いつも、何の脈絡もなく質問をしてくる僕に、父と母はいつものように怪訝そうな顔をする。

「どうした、また急に」

「いや、ふと気になって」

「まあ、普通の企業みたいに、成績とははあまり関係ないから、よっぽど悪いことをしない限りは、クビにはならないだろうな」

「学校の先生でクビになることはないよね?」

「うーん。最近は不祥事でクビになる先生は多い気がするなあ。まあ、それでも現場に戻ってこられることが多いみたいだけど」

 確かに、最近は個人情報の紛失とか、わいせつ事件とかで、教員の不祥事がニュースで取り上げられていることが多い気がする。タバタも、何かやらかしたのだろうか。それで教師をクビになり、ホームレスになっていったのだとしたら、自業自得であり、同情の余地などない。

「ふーん…」

 僕は自分から質問をしておいて、気のない返事を返す。

 いつも通り食事を終え、風呂に入り、夜更かしが始まる。学校に行く気もないので、寝る時間や起きる時間を気にすることもない。暗くて静かな夜が、今日も始まる。

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