◆ 三
その日は一日中ぼんやりとしていた。それは学校へ行かなくなったことによる不安なのか、降り続ける小雨のせいなのかわからなかったが、とにかく頭がぼーっとして、目に映るものの輪郭がくっきりとしなかった。
学校に行かなくなってから、三ヶ月が経った。もう十月になっていた。
登校を拒否し始めた頃は、「今、二時間目の授業だな」「水曜日のこの時間は音楽の授業だ」とか考えたけど、もう学校のことを考えることもなく、僕は自由な生活を謳歌していた。母は、僕の不登校生活初期の頃こそ心配して、ちょくちょく部屋に来て声をかけてくれたけど、今では食事の時に呼びにくるだけだ。
僕は、自由になっていた。
もちろん、学校を休むことによる、漠然とした不安がなくなったわけではない。でも、もう授業の終わりが近づくたびにどう休み時間を一人で過ごすかを考えなくてもいいし、部室でただそこに立ち尽くす無駄な時間はなくなった。
僕は午前十時ごろ起きると、着替えをして出かけることにした。休み始めたころは、部屋から出るのも億劫だったのだが、最近は少しずつ散歩をしたり、買い物に行ったりしている。平日の昼間から街に出かけるという非日常を僕は楽しんでいた。
地下鉄に乗り、家の最寄り駅から五駅のところにあるゲームショップに向かう。駅ですれちがう人は、誰も僕のことは見ていない。歩きスマホをしたり、音楽を聴いたり、電話したり、みんな自分の世界に夢中になっている。誰もが、それぞれの世界を生きている。僕も、僕だけの世界を生きていく。
駅の中から外へ抜ける地下道を歩いていると、道の端に路上生活者が三、四人がいるのが目に留まった。今年の夏は猛暑だった。どうやって秋までしのいだのか、気になった。ホームレスの平均寿命は四十代と聞いたことがある。
目を合わせないように足早に通り過ぎようとした。
「おい、どこへ行くんだ?」
心臓を鷲掴みにされたように、心拍数が跳ね上がった。横から一人のホームレスに話しかけられたのだ。
「えっ、いや、ちょっと買い物に」
しどろもどろになりながら、答えた。
ホームレスは白髪混じりの短髪、浅黒い肌に無精髭といういでたちだった。歳は僕の父と同じくらいだろうか。ホームレスの割には体格がよく、身長も体重も、一般的な成人男性のそれよりも大きいように思われた。
「学校は行かないのか?」
その声には優しさがあり、それでいて逃げることを許さない力強さがこもっていた。
「あっ、えっと、はい。今日は行ってないです」
本当は、「今日は」じゃなくて「今日も」だ。反射的に、逃れるように、口から言葉が出てきた。
「どうした? サボりか?」
彼は微笑みながら聞いた。
「いや、まあ…」
「なるほどな。まあ、それもいいと思うよ。ごめんな、急に話しかけて」
「あっ、はい」
僕は目線を逸らしながら、そそくさとその場を離れた。まだ心臓がバクバクしていた。
知らない人と話すこと自体、かなり久しぶりだった気がする。相変わらず、誰かとスムーズにコミュニケーションを取るのは苦手だ。
また、路上で生活をしている人たちが、これまで自分の中でただの風景だったことに気がついた。その人たちが、自分たちと同じような、意識や感情を持った、一人の人間なんだということを、初めて知ったような気がした。
家に帰ってゲームをしているうちに、寝てしまっていたらしい。窓の外は暗く、一階のリビングからは。父の話し声が聞こえる。もう仕事から帰ってくるような時間か。スマホのディスプレイを見ると、八時を過ぎていることがわかった。
重い頭を起こして、一階に降りると、父が声をかけてきた。
「ただいま。具合はどうだ」
「うん、普通」
普通、別に、微妙。いつしかそんな曖昧な返事しかしなくなっていた。中学生の男子なんてそんなものだろうか。
「今日は何してたんだ」
「少し出かけたよ。地下鉄で」
会話をしながらリビングと部屋続きになっているダイニングに行き、食卓に着いた。母は何も言わずに、僕の食事を準備してくれた。
「そうか。少しは勉強しとけよ。学校に戻ったときのために」
「うん」
僕が学校に行かなくなり始めた時ほどではないが、父は時折、僕に「学校には行かなくてはならないのだ」というプレッシャーをかけてくる。父はもともと、親としてはそこまで厳しいほうではないと思う。それでも、僕がいわゆる「不登校」になってからは、少し神経質になっている。僕はいつしか父の目を見て話ができなくなっていた。
リビングから、ニュース番組の音が聞こえた。僕は、父との会話を避けようと、テレビに気を取られたふりをする。ホームレスが、少年たちによって殺害されたという残忍なニュースを、アナウンサーが読み上げていた。
ふと、今日会ったホームレスのことを思い出した。
母も食卓につき、家族三人での食事が始まったタイミングで、僕は聞いてみた。
「ねえ、ホームレスって何をして生活しているの?」
声を発しながら、自分でも、家族での会話を自ら始めたことに驚いた。
「どうしたの急に」
母が驚いたように聞き返した。
「いや、実は今日駅で何人か見かけたから」
「うーん。生活保護とかじゃないかなあ。父さんもよくわからないよ。多分、仕事もなく、頼れる家族もいないとそうなってしまうんだろう。栄輝はそうならないようにしろよ」
「そうなったら助けてよ」
「もちろん助けたいけど、父さんや母さんだって、ずっと健康で生き続けるわけじゃない。ちゃんと自分で働いて、自立した人間になりなさい。父さんは高校を卒業したらすぐに働き始めたぞ」
「うん・・・」
これ以上会話を続けると、話題が「学校」のことになりそうだったので、僕は黙って食事をすることにした。
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