揺 れ る 灯
結婚式が終わり、それまでピンと張っていた糸が一気に緩むように、母はほとんどの時間をベッドで過ごし、気が抜けた焦点の合わない視線を宙に浮遊させていた。
「あと3か月半で5年生存率に食い込めますね」
医師がカルテに目を落としながら何気なく呟いた一言に、父は怒りを滲ませた。
それまで病院で最後を迎えることも考えていたが、急遽近くの開業医に往診を頼み自宅で見とることを決める。
苦しむことのないように、安らかな最後を迎えられるようにと涙ながらに頭を下げる父に、開業医が優しく任せてくださいと応じ、父も私も医師へのストレスから解放されることに安堵した。
庸一郎は私に言われた通り律儀に毎日通ってきて母を見舞い、笑顔を見せる母の前では隆太郎になり切ってくれた。
「隆太郎、一人でお庭に出ちゃだめよ」
「大丈夫だよ。心配しないでお母様。お庭に出る時はお母様と一緒に出るから」
庸一郎に抱きかかえられ、母はか細い腕を庸一郎の首に回して、もう思い残すことはないと言わんばかりの幸せそうな微笑みを見せる。
私のことは蘭子と言ったり、ママと言ったりその時々で変わった。
ある時、息の乱れも構わず私の手をにぎり無垢な瞳で私を見つめる。
「蘭子、お兄様の言うことをよく聞いて、しっかり支えてあげてね。お兄様はあなたのことを、一生懸命守ってくれるから…よろしくお願いしますよ」
そのお兄様が隆太郎を指すのか庸一郎を指すのか、私と庸一郎の関係をどこまで把握しているのかわからないが、混沌とした中にも私と庸一郎への思いが込められていた。
「大丈夫よ。お兄様を精一杯支えるわ」
庸一郎も母の傍らに来て、
「蘭ちゃんを一生懸命守るよ。安心して」と言う。
そして父が傍らに来ると、澄んだ瞳に少女のようなはにかんだ微笑みを乗せて見つめる。
これと言った会話をするわけでもなく、ただ父は愛おしい目を母に向け優しく手をさする。
夏が越せるかどうかわからないと言われていたが、秋には持ち直し、12月に隆太郎の31歳の誕生日を祝い、クリスマスを待つことなく眠るように息を引き取った。
亡くなる3日前のことである。
すでに自力で身体を起こすこともままならないはずなのに、母は上体を起こしベッドの上で立ち上がろうとする仕草をした。
「奥様がお元気になられてる!」
るり子のそんな的外れな言葉が飛んだ。
誰もがこんな力が残っていたなんてと信じられない顔で見ていた。
「お母様、危ないわ。どうされたいの? 何がなさりたいの? お母様、お願い!」
泣きながら私が母の腕を抑えると思いの他強い力で跳ね返される。
庸一郎が慌てて母の身体を支える。
「お母様、危ないよ。どこに行きたいの? 僕が連れて行ってあげるから」
そう言って母を抱き上げた。
彼の耳元で母の口が動く。
「…だ…んろ」
「食堂だね!」
すぐに母を食堂へと連れて行く。
食堂ではクリスマスの飾り付けがされた暖炉の炎が、こうこうと輝きを放っていた。
庸一郎が母を抱きかかえたまま暖炉の前に座る。
母の顔が緩み穏やかな表情になった。そしてまた、母の口が動く。
「…隆太郎も…蘭子も…サンタさんに…お手紙は書いたの?」
庸一郎の目に涙が溢れる。
「書いたよ。もうとっくに書いて出しちゃったよ」
母の顔がゆっくりと私のほうを向く。
「私も…お兄様と一緒に出したわ……間に合うかしら…」
「大丈夫よ…間に合うわ…」
母はゆっくりと柔らかな微笑みを見せ、安心したように目を閉じた。
すぐにベッドを食堂に運び、暖炉やクリスマスツリー、テラス、芝生の庭、そんな思い出が詰まったものがすぐに目に入るように配置した。
しかし、その後はそんな奇跡が起こることもなく眠り続け、静かに穏やかな最後を迎えた。
皆に見守られながら逝けるように、自ら食堂に誘導したようだと父が言うほど、広い食堂には大勢の親族や友人たちが最後の別れに訪れた。
祭壇に掲げられた写真の母は幸せそうに笑っている。
手術を前に母のために開いた私と庸一郎の婚約パーティーの時のもので、病に侵されていることなど微塵も感じさせない。
「うわぁ、今日の叔母さん、すごく綺麗だ。素敵だよ」
庸一郎が投げた言葉に、母が返した大輪の薔薇のような笑顔である。
あの時は母のために開いたと思っていたが、乳がんの手術を前に絶望の中にいた母は、満面の笑みを見せることで私と父を安心させようと必死だったのかもしれない。
主役は母、そう思っていたのは私だけで、母には必要のない無理をさせていたような気がして涙が止まらない。
母と私の関係は互いに距離を測り、気遣いながら母娘を演じていた。
何の遠慮もなく言いたいことを言い合い馴れ合う関係、それが本当の母娘なのだろう。そんな普通の母娘に比べれば希薄な関係なのかもしれない。
実際のところ、母がどこまで私のことを娘として信頼してくれていたのかわからない。
しかし、少なくとも私の中では「母」と言われて思いうかべる人は彼女しかいない。私を包み込むような穏やかで柔らかな笑みを湛えた、たおやかで可愛い女性、黒田杏紗ただ一人である。
通夜の夜、ひとり母に寄り添っていると庸一郎が来て私の傍らに座った。
「庸一郎さん、この半年間、本当にありがとう。心から感謝してるわ」
「やめてくれよ。そんな他人行儀な……まあ、蘭ちゃんにとっては他人か…」
庸一郎が、ふっと自嘲気味に笑う。
「他人なわけないでしょう、今も…昔から私達は家族よ」
チラッと庸一郎に視線をやり、ちょっと照れくさいけどと付け加える。
ふっと笑いが漏れ、ありがとうと返ってくる。
「子供には会ってるの?」
半年間、心から母に尽くしてくれた庸一郎の姿が、私に自然にその言葉を言わせる。
彼の笑顔が一瞬固まった。
「いや…会ってない」
「父が後悔しているそうよ」
お
「赤ちゃんの時の私を知らないのが辛いんですって。しくじったという思いが強くて、私には会えなかったそうよ。それを今は後悔していると言ってたわ」
庸一郎は視線を戻して無言になる。
「別に私に気を遣わなくていいわ。その子は昔の私だもの。否定はできないし、幸せに育って欲しいと思ってる…私のようにね。だから、できる限り会いに行ってあげて。その子にとって父親はあなたしかいないから」
私は今にも起きてきそうな穏やかな顔の母に視線を落とし、小さく息を吐いた。
「どちらが妾かわからなくなってきたわね…」
思わず自虐めいた笑みが浮かんだ。
「そんなこと言われて、俺、どんな顔をしていいかわからないよ」
庸一郎が困惑顔で項垂れる。
「母が言ってたの。私と庸一郎さんが結婚したら、お父様とまた一緒になるみたいって。二人を落胆させることだけはしたくない。だからこの先、あなたが別れて欲しいって言っても別れてあげない」
庸一郎が項垂れたまま目だけ私を見る。
「色々な夫婦の形があってもいいじゃない。妾とか愛人みたいな…妹みたいな本妻がいてもいいでしょ」
いたずらっぽく笑うと、庸一郎から重荷をおろしてほっと息をついたような軽い笑い声が漏れた。
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