敗 北 の 味

 結婚式の夜、私と庸一郎のために用意されたホテルのスイートルームで、その日初めて二人きりになった。

 ソファに浅く座り頭を抱えてがっくり肩を落とす庸一郎の姿が、リビングに重苦しい空気を漂わせている。

「ごめん。別れようと思ったのにずるずると…子供まで…全部、俺のせいだ。何の言い訳もできないよ。本当にごめん」


 私は窓辺に立って無言のまま外の夜景を眺めていた。

 最上階のバーから眺めていた、宝石をまき散らしたような煌びやかな夜景が、この部屋の空気には何の影響もされず、いつものような美しい輝きを放って視界を覆う。

 いつもの景色がいつもと同じであることが、私の心を落ち着かせていた。


「…情けないよ…バカな男でごめん…ごめん…本当にごめん…」

 その場の沈黙を埋めるように再び口を開き、また黙る。

 しばらく間を空けた後、息を一つ吐く音が聞こえた。

「蘭ちゃんの戸籍を汚してしまうね…本当に申し訳ない…ごめん…」

 私は振り返り、視線を庸一郎に落とした。


 両手を項垂れた頭に乗せ、微かに肩が揺れている。

 この部屋に入るまで、庸一郎に投げつけるありとあらゆる言葉を探していた。彼を傷つけ二度と立ち上がらせることのない、気のすむまで服従を強いる言葉を。

 今、とても8歳も年上だとは思えない弱々しい姿を前にすると、それらの言葉が霧のように頭から消えていく。

 そんな姿は見たくないと本能が拒否していた。同時に、すでに庸一郎を夫として見る余地が少しも残っていない自分に気付く。


「もういいわ。庸一郎さん、顔を上げて。あなたにそんな姿は似合わない」

 庸一郎がゆっくりと頭を上げるが視線は落としたままだった。赤い目を何度も瞬かせて鼻をすする。

 そんな顔を見るのは初めてだった。

 この数日の葛藤はなんだったのだろうと思うほど、怒りは影をひそめ愛おしさだけが募る。


「庸一郎さんに子供がいるからってすぐに別れることを考えるほど、私は子供ではないつもりよ」

 庸一郎が顔を上げ、赤い目を丸くして私を見る。

 私はにっこりと微笑んだ。

「それに我ままを言って待たせ過ぎたのは私だもの。私にだって責任があると思っているわ」

 そんな心にもない言葉が口を衝いて出る。

 庸一郎の顔にわずかな希望の色が差し、頬をゆがめると項垂れて嗚咽する。


「ありがとう…こんな俺を…許してくれて…」

 許したわけじゃないと心の中で呟く。

 庸一郎の震える背中がほっと安堵していた。

 私の発した言葉を本心からのものだと信じて疑わない純粋で単純な可愛い男。

「ただ心の整理が必要だからしばらくは別居してください。でも母のために毎日会いに来てね。庸一郎さんは母にとってはもう昔から本当の息子なんだから」

 庸一郎は何度も頷いた。

「わかったよ…俺は待つよ。蘭ちゃんが俺を受け入れてくれるまで待つ」


 涙で濡れた顔が誠実な微笑みを浮かべている。これで会社からも追い出される心配がなくなったという安堵感からか、丸まっていた背中がピンと伸びていた。

 たとえ私と別れたとしても父と母が庸一郎を見捨てることはない。そんなこともわからず、ほっと胸を撫で下ろし邪気のない笑みを見せる本当に可愛い男。

 私は庸一郎の元へ歩み寄り、その手を取って立たせると軽く抱きしめる。ぎこちない仕草で応じる庸一郎の顔には可哀相なほど自信のカケラも残っていなかった。

「行きましょう」

 私は彼の腕に腕をからませベッドルームへと誘った。



「ご注文は?」

「ごめんなさい。もうそろそろ終わりよね。少しここから夜景が見たくて…」

 客がまばらになったバーの店内は静かに終わりを迎える空気が漂っていた。

「構いませんよ。黒田様は常連様なのでどうぞごゆっくり」

 顔見知りのバーテンダーが優しく微笑み戻って行った。


 眼下に広がる夜景の不思議な魅力に心が引き付けられる。

 一つ一つの小さな灯の営みはランダムなはずなのに、天空から眺めれば黒いキャンバスに初めから計算され描かれたような美しい統一感がある。心に渦巻く雑多な感情全てを飲み込んでひと時の空虚に癒しを感じて見入ってしまう。

 何かに似ている。

 そして思い出した。

 幼い日に、暖炉の炎から与えられた心地良い癒しと同じだ。

 ああ、そうかと呟く。

 暖炉を焚かない季節はこのホテルの最上階にあるレストランや、成人してからはバーが無性に恋しくなって父におねだりしていた理由がやっとわかり、自然に唇がほころぶ。


「黒田様、カクテルをお持ちしました」

 振り向くと、先ほどのバーテンダーが黄金色のカクテルを手に立っていた。テーブルにカクテルグラスを置くとにこやかに微笑む。

「ささやかですが今日の日の記念として私から贈らせていただきます」

 軽くグラスを持ち上げ微笑み返し、少し口に含んだ。爽やかなオレンジの香りとすっきりとした甘さが広がり、微かに残る苦味が味を引き締める。

「美味しいわ。ビターな味わいが今の気分にピッタリかな…ありがとう」

「光栄です。ごゆっくりどうぞ」

 バーテンダーは柔らかな微笑みを残して去って行った。


 ふと、ベッドルームに置いて来た庸一郎のことを思い出す。

 シーツの中で疲れ切って眠ってしまったあどけない顔には涙が乾いた跡があった。幼い頃から見てきた顔と少しも変わっていない愛くるしい寝顔にしばらくの間見入っていた。

「捨てられないわ…」

 思わず呟いた言葉に苦笑する。


 残りのカクテルを一気に飲み干した。

 オレンジビターは敗北の味…

 心の中で呟き一つ深い息を吐く。

 私はバーテンダーに軽く会釈してバーを出るとそのままホテルを後にした。

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