バ ー ジ ン ロ ー ド

 先月の終わり頃から、父が仕事を理由に夕食の席に着かず、マンションに泊まることを繰り返していたのは、娘を嫁がせる父親の切ない心がなせるのかと勝手におもんぱかっていた。

 考えてみれば、私は庸一郎に嫁ぐわけではなく婿養子として迎えるわけだから、切なくなる理由もない。だか、勝手に、可愛い娘が男に奪われこれまでと違う父娘の関係になることに、寂しい思いを抱いているのだろうかと思いやっていた。

 まさか、庸一郎の子供の存在を知ったから、私の顔を正視できないなどと考えも及ばずに。


 結婚式の朝、父は私を複雑な笑顔で眺めていた。心の裏に仕舞い込んだ秘密を必死に隠そうとしているのだろうか。

 父に庸一郎を責めることはできないのだろう。

 かつて自分が同じように母を裏切っているのだから。

 まさか同じ裏切りを娘がされる日が訪れるなどと考えもしなかった。もしかしたらかつての自分を後悔しているのかもしれない。しかし、それは私の存在をも否定しかねない。


 そんな様々な葛藤が父を苦しい笑顔にさせている。

 彼の複雑な心の痛みを和らげることができるのは私しかいないのだろう。

「私は何もかも知っているわ。私は平気よ」

 そう一笑に付せば、父の気持ちも少しは楽になるのだろうと頭ではわかっていても、言葉にできるほど心の整理がついていなかった。

 母の他愛ない笑顔だけが朝食の緊張を和らげる。


「お父様、お母様、少しお時間いただいてよろしい?」

 父は顔を強張らせ、口ごもりながらどうしたと訊く。母は相変わらずニコニコと無垢な笑顔を見せていた。

「結婚するからと言って何も変わらないし、息子が増えるだけだから別に言わなくてもいいと思うんだけど一応…」

 私は食後の紅茶を横にずらして、少しはにかむように二人から外した視線をテーブルに落とした。


「お父様、お母様、今まで大変お世話になりました。本当に感謝しています。ありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします」

 頭を下げると自然と目頭が熱くなる。

 ゆっくり顔を上げると、ほっとした表情の父と潤んだ瞳で微笑む母が私を見つめていた。


「蘭子、私のほうこそありがとう」

 母はそう言って深く息を吸って呼吸を整えた。

「私に素敵な時間をたくさんくれてありがとう。あなたとお父様に心配ばかりさせたけれど、本当に幸せだったわ。蘭子と過ごした時間はお母様の宝物よ…本当に…ありがとう」

 そこまで言うと、乱れた息を落ち着けるように胸に手を当てた。


 それはあらゆる感情を超越し、死を受け入れた先の無から生じる穏やかで素直な別れの言葉のように聞こえ、私の目から涙が溢れる。

 席を立つと母の傍らに駆け寄り抱き締めた。

「もう何もお喋りにならないで。何もかもわかっているから。お母様、ありがとう。本当にありがとう」

 父も母の側に来ると優しく肩に触れ、もう一方の手で私の背中をさする。

「何だよ…まるで君がお嫁に行くみたいじゃないか。いつまでも僕の側にいてくれないと困るよ」

 父の声が震えていた。



 母の準備をサチに任せ、私はるり子とガーデンホテルに向かった。

 控室で準備を整え、るり子と二人切りになる。

「るり子、一つ訊いていいかしら?」

 私がそう切り出すと、特に警戒する様子もなく「なんですか?」と返ってきた。

「夜、廊下で泣いていたでしょう?」

 るり子の笑顔が固まる。

「あれはどうして?」

「あれは…」と言いよどむ。

「何も気にしないで答えて。私は悲しくないし哀れでも不幸でもないから」

 るり子はこくんと頷いた。


「あの日、あちらのお子様が熱を出して、サチさんが居なかったので私が代わりに伺いました。赤ちゃんは元気になられて何の問題もなかったのですが、そこであちらの方と少しお話しする時間ができて…それで…」

 そこでまた言葉を詰まらせる。

「何を話したの? 何を聞いてももう何とも思わないわ」

 穏やかな笑みをるり子に送ると、またこくんと頷いた。

「赤ちゃんをどうしても生みたかったのは、二年ほど前に、一度中絶されているからとおっしゃっていました」


「中絶…それは庸一郎さんとの子供を?」

「そこまでは聞いていません。その年の3月に海外に旅行されてとても幸せな時間を過ごされたそうです。その時にできた赤ちゃんを中絶された。贅沢をした罰だと思ったそうです。だからもう二度と中絶したくなかったと…あちらの方のお気持ちと蘭子様のことを考えると自分でもどうしてだか涙が出て来て泣いてしまったんです。申し訳ありません」

 私はことさら感情を抑えた微笑みでるり子を見る。

「その方も色々なことがあったのね…」

 そう返すのがやっとだった。



「蘭子、今日はとても綺麗だ」

 おずおずと控室に入ってきた父が、私を見るなりそう言った。

「今日は? 綺麗なの?」と、意地悪な目で微笑むと、肩をすくめてやれやれと苦笑する。

「いつも綺麗だけど、今日は一段と綺麗だよ」


 教会の扉の前で、私の隣に立ち真っすぐ前を向き、父はもう一度「今日は、本当に綺麗だよ」と繰り返した。

 何度も目を瞬かせ深く息を吸っては吐く父が心から愛おしい。

 私はそっと父の腕に手を添え真っすぐ前を向いた。

「お父様、私は大丈夫よ。何があっても庸一郎さんと添い遂げるわ…何があっても。だってお父様の娘ですもの」

 父は言葉を発することなくうなずく。私が添えた手の甲を、そっとさする父の頬が微かに振るえていた。


 扉があき、厳かな讃美歌に包まれる中、父と共にバージンロードを歩く。

 ベールの向こうに庸一郎が緊張した面持ちで立っていた。

 前を見据え父と共に歩いていると、自然と心に余裕が携えられていくような気がした。

 父と共に神に向かって歩き私の結婚式は完結し、庸一郎と共に祭壇の前に進むところから他人事のような儀式が始まる。

 美しい讃美歌も牧師の聖書朗読も誓いの言葉さえベールの向こうの違う空間の出来事のように何の実感もなく淡々と進んでいく。

 まるで庸一郎の独り芝居を見ているような気さえした。


「ベールを上げて誓いのキスをしてください」

 牧師が静かに言う。

 私は少しだけ身を低くすると、庸一郎は緊張した手つきで私のベールをめくり上げた。

 今までベールを通してぼやけていた庸一郎の顔がはっきりと私の目に入る。

 私は目に優しさを湛え、口角を上げて唇を小さく動かすと、庸一郎が首を斜にして耳を私の口元に近づける。


「ありがとう。お母様に孫の顔を見せてくれて」

 微笑み掛けた庸一郎の顔が固まった。

「ほら、皆が見ているわ。誓いのキスをして」

 色を無くした庸一郎が瞬きを繰り返す。

 ゆっくりとぎこちなく触れられた冷たい唇が震えていた。


 幸せな微笑みを父と母に向けると、二人の涙に潤んだ美しい瞳が私だけを見つめていた。

 そして私の隣に居るのは二人にとっては庸一郎ではなく隆太郎だった。それは私にとっても。

「ありがとう。隆太郎お兄様。私、幸せよ」

 そう小さく呟いた。

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