歪(いびつ)な 愛

 幼い頃から何度も見る夢がある。

 鬼ごっこをしている夢。

 私は少年の背中を追いかけどこまでも走り続ける。

 すんでのところでかわされどうしても追い付けない。


「待って、お兄様、隆太郎お兄様」

 そう呼ぶと振り返る顔は、10歳で時が止まったあの写真の優しく微笑む隆太郎の静止画である。

「蘭ちゃん、こっちだよ、早く早く」

 笑い声と共に聞こえるその声は庸一郎の声だった。


 いつしか隆太郎は庸一郎になり追いかける背中が振り返ると笑顔の庸一郎がいる。

 そして、庸一郎をお兄様と言って追いかけていた。

「お兄様、待って。隆太郎お兄様!」

 そこで目が覚める。


「あんなくだらない男…お母様の甥っ子でなければ、お兄様と同じ歳の従弟でなければ結婚なんかするもんですか…」

 それは嘘だ。

 父と母はまるで死んだ隆太郎を見るような切なくも愛おしい目で庸一郎を見る。

 庸一郎を通して、その瞳に映っていたのは隆太郎だった。

 しかし、それは彼らだけではない。


 生まれてから10歳までの写真を見せられ、愛くるしい思い出の数々を聞かされ、決して会うことが叶わなかった兄の姿をどんなに胸に描こうしても、動いている兄の仕草や声を思い描くことはできなかった。

 庸一郎を通して、一番隆太郎の面影を追っていたのは父でも母でもなく私だった。

 いい加減認めなさい。あなたは庸一郎を愛していると。

 私は絶望を感じながらそう心に言い聞かせた。



 結婚式を前日に控え、サチが謝罪したいと言って私の部屋を訪れた。

「今さら何を謝罪するの。もういいわよ。ただ、私は最初にサチの口から聞きたかったわ」

 私の冷たい調子に、サチは視線を合わせず頭を下げた。

「申し訳ございません…今日、謝罪に参りましたのは奥様の代わりに蘭子様に謝りたくて」

「何…母に何かしたの」

「いえ…奥様にはもうあまり余計なことをお耳に入れないほうがよいと思いまして…」

「母に謝りたいことって? 何なの」


 サチは私の目を真っすぐに見た。

「この屋敷に上がりました時、私は離婚して失意のどん底でした」

 それは初めて聞く話ではない。サチが夫と離婚した後、この屋敷に来たことは誰もが知っていた。

 興味がわかない私の顔色を無視して、サチが続ける。


「嫁ぎ先で、私はお腹に子供はできるものの、なぜか流産を繰り返してしまいます。姑からはひどい畑をもらってしまったと言われ、夫からはお前はカタワかと罵られ、いたたまれず家を出ました」

 その辛い過去に心が動かされ、サチに視線を向ける。

 サチは見る見るうちに目を潤ませた。


「そんな時、旦那様と奥様、隆太郎様ご家族は、私が夢にまで思い描いた幸せなお姿だった。幸せに背を向け孤独に生きて行こうと決めた私は、皆さまから日々、心からの癒しをいただいていました」

 そこまで言うと顔をゆがませむせび泣く。

「サチ、もういいわ。そんな辛い話を無理にする必要はないの」

 見かねて言うと、サチは首を大きく左右に振った。


「隆太郎坊ちゃまが亡くなられた時、皆さまと共に嘆き悲しむ一方で、ほんの少し、ほっとして心の中にずっとくすぶり続けていたものが消えてなくなった……心の中に鬼がいたのです」

 サチはその場に泣き崩れた。

 私はサチの傍らに跪き、彼女の背中をさすった。

「私は醜い下卑た女でした。幸せなご家族の皆様に嫉妬していたのです。私の嫉妬が坊ちゃまの命を奪ったのではないかとさえ思いました」


「何言ってるの。そんなわけないじゃない」

 サチの涙に濡れてゆがんだ顔がほんの少し緩んで私を見た。

「そんな時に蘭子様、あなたが引き取られてきた。私はこの方のために何もかも捧げようと、今度こそ旦那様、奥様、蘭子様三人の幸せな家族を心からお守りしたいと思ったのです。私にとっては我が子のように蘭子様をお守りすることで、罪を許していただこうと…」


「あなたには何の罪もないわ。自分より幸せな人に嫉妬するのは自然なことよ。もう自分を責めないで。許してあげなさい。私はあなたのお蔭で無邪気に図々しくうまく立ち回れる大人になったわ」

 私は精一杯の笑顔でサチを見つめる。

 サチは再び顔をくしゃくしゃにした。

「庸一郎様のお子様のことを聞いた時も、蘭子様のことを大切に思うなら、相手の方をお助けするなどお断りすべきでした」


「母から頼まれたら、あなたがそれを断ることなどできない。そんなことわかっているわ」

 サチは子供のようにかぶりを振った。

「私のためにしたことです。私が生みたくても生めなかった赤ちゃんを下ろすなんて考えられなかった。だから奥様が援助をしましょうとおっしゃられた時、心から嬉しかった」


「サチ、あなたがしたことは間違ってないわ。だって庸一郎さんの子供は昔の私だもの」

 思わず出た自分の言葉に驚いていた。

 その赤ん坊が自分と同じ立場だと理解はできても、認めることなどできないと思っていた。しかし私の心はすでに認めていた。


 サチは泣きはらした目で眩しい物を見るように私を見つめている。

「サチ、色々ありがとう。長いことお世話になりました。あなたがいたから今の私があると思っているわ…本当よ」

 私はサチの手を包み込むように握りしめた。

 サチの目に再び涙が溢れた。

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