欺 瞞 の 人 々

 いつの日か父が母にしたように、庸一郎が私を裏切るかもしれないと、心のどこかで微かな覚悟のようなものを持っていた。

 その時、私はどうするのだろう。母が父を許したように私も庸一郎を許せるだろうか。


 いや、母は決して許してはいなかった。父に対する怒りや悲しみ、絶望は突然目の前に現れた裏切りの象徴である幼い私に向けられていた。

 その時が来たら私は目の前の裏切りの象徴を昔の私として受け入れることができるのだろうか。私はどうするのだろう。そんな疑問を漠然と投げかけたまま思考が止まる。


 まさか、その時が結婚を数日後に控えた今この時だったなんて想像もしていなかった。

「欄ちゃん、俺、もう待ちくたびれた」

 結婚を急かす時、庸一郎は冗談めかしてそんな言葉を口にしていた。

 待たせ過ぎた私に原因があるのだろうか。


 全容を把握しなければならない。そして問いたださなければならない人が何人もいる。

 その意を察したようにサチがるり子を伴って私の部屋に来た。

 るり子は私と目が合うと再び涙を浮かべ下を向く。

「るり子が不用意なことを申しました。本当に申し訳ありません」

 サチが頭を下げる後ろで、るり子はすでに下を向いている頭をさらに深く下げる。


「言うことはそれだけ?」

 サチは無表情のまま視線を落とし、口を結んでいる。

「あなたの知っていることをすべて話して」

「申し上げられません。固く口止めされています」

「誰に」

 サチの唇に力が入る。

「庸一郎さんに口止めされてるの?」

 サチからは何も返ってこない。


 私はつかつかとサチの目の前に行くと首元を掴んで顔を近づけた。

 咄嗟にサチは目を閉じて私の視線を避ける。

「私の目を見て! 答えなさい…誰に口止めされてるの」

 頑なに口を閉ざすサチの首元を締め上げると、うっすら開いたサチの目が一瞬私を睨んだ。

「答えろ!」

 私は声を張り上げサチの頬をしたたか叩いた。


 るり子が跪いて私の足元にすがりつく。

「私が悪いんです。申し訳ありません。サチさん悪くない…ごめんなさい、ごめんなさい」

 私は一歩後ずさって二人から視線を外し、深いため息をついた。

「お父様とお母様はご存知なの?」

 サチは相変わらず唇を固く結んでいる。

「いいわ、直接訊くから」

「おやめください! それだけはどうか…」


「あなたは私にどうして欲しいの。このまま何もなかったことにして結婚しろと?」

 サチの眉間に皺が寄り顔をしかめる。

 私は力なくソファに身を預けた。

「残酷な女ね。サチ、あなたは昔から私の味方のような顔をして平気で私を裏切る。あなたにとって私は所詮よそ者なんでしょう」


 サチが小さく首を横に振り、その悲し気な目から涙がこぼれ落ちた。そしてその唇がためらいがちに開く。

「最初は庸一郎様のお母様、柚紀様から奥様にご相談がありました。お相手の方がどうしても生みたいとおっしゃっていて困っていると。奥様が生みたいなら生ませたらいいと言われ、奥様と柚紀様だけで事を進められました」

「サチはどうしてそのことを知ったの?」

「お相手の方がお一人暮らしをされているようなのでお世話をして欲しいと奥様と柚紀様に頼まれて、昨年9月の出産まで時々様子を見に行きました」


 昨年秋、私の居ない間に柚紀が母を連れ出した理由がわかった。母はその手に庸一郎の子供を抱きに行ったのだ。

「先月、庸一郎様が良心の呵責に耐えかねたとおっしゃって、婚約破棄されても仕方がないと旦那様に謝罪に来られて土下座されました。その時、奥様も隣で一緒になって土下座されて…」

 サチの目から涙が溢れ、両手で口を覆った。

「どうか隆太郎を許してください、隆太郎は悪くない、私が悪いと…そう何度もおっしゃって…頭を床にこすりつけられて…」

 サチがその場に崩れ落ち嗚咽する。


 母はしばらく前から、放心したように焦点の合わない目で宙を見ることが多くなった。私が「お母様、大丈夫?」と声を掛けると、私を見て「姉さん」と言ったり「ママ」と言ったり、父のことを「パパ」と言うこともあった。

 ぶつぶつと独り言を言っているので、よく聞いてみると「隆太郎、そっちに行ってはダメよ。お池は危ないから」と幼い隆太郎に話しかけている。


「最近大学病院に頭を輪切りにして見られるレントゲンが入ったからそれをやってみましょう」

 母の症状を伝えると、医師は意気揚々と提案してきた。

 しかし、母の頭がどうなっていようと治す手立てがない限り、レントゲンを撮ることに何の意味があるだろう。父と私が素気すげ無く断ると、医師はあからさまに落胆した表情を見せていた。


 そして、母の言い間違いの最たるものが庸一郎を見ると隆太郎と言うことだった。

 私は、泣き崩れているサチとるり子に視線を落とし、呼吸を整えた。

「私は何も聞かなかった。何も知らない。これまで通りよ。行きなさい」

 二人は静かに立ち上がり、深々と頭を下げ部屋を出て行った。



 私はこれからどうなるのだろう。

 独りになるとそんな漠然とした不安が襲う。同時に母に対する疑問が沸きあがる。


 母はどういうつもりで生んでもいいと言ったのだろう。

 私に見せる穏やかな笑顔の裏で、私を欺いていたのだろうか。たおやかな微笑みの裏で嘲笑っていたのだろうか。

 これで私の気持ちがわかっただろう。私がされたことと同じことをしてやる。お前は果たしてその子を愛せるか?

 自分と同じ思いを私に味わわせてやるという復讐心が、生んでいいと言わせたのだろうか。


 しかし、母と長い時間を共に歩み愛されてきた自信に溢れるもう一人の私が、そのすべてを否定する。

 死にく身の母が、生れ出ずる命を絶てなどと言えるわけがない。

 まして母にとって庸一郎は隆太郎なのだ。

 隆太郎がしでかしたことの尻ぬぐいをすることで、母は隆太郎の母親としての務めを果たしていた。そして隆太郎の子供をその手に抱いてもうこれで思い残すことはないと思ったのだろう。

 あとは、隆太郎の妹の結婚式を見届けるだけと。


 庸一郎に対する感情はどうとでもなる。

 それは母の再発を知った時と同じこと。裏切りが発覚しても、その裏切りはずっと以前から続いていた。裏切りを知ったことで精神的なダメージを受けたとしても、それは自力でコントロールできるたぐいのものである。


 私に与えられた使命は、何事もなく庸一郎との結婚式を遂行することだけ。

 輝くような笑顔で涙を滲ませ父とともにバージンロードを歩いてみせる。

 庸一郎にはせいぜい隆太郎を演じさせてやる。

 母が、可愛い隆太郎に見守られ天に召されるその日まで。

 捨てるのはそれからでも遅くはない。


 ふんと鼻で笑ってみた。

「あんなくだらない男…お母様の甥っ子でなければ、お兄様と同じ歳の従弟いとこでなければ結婚なんかするもんですか…」

 そう口にしてみた。

 ふいに頬を涙がつたい落ちた。

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