翳 り ゆ く 時

 再発したことを告げられても、それ以降の生活が大きく変わるわけではない。

 医師に言わせれば手術した時にすでに全身に転移していた可能性もあるという。術後三年半で症状が現れ、私達の知るところとなっただけで、昨日と同じように今日も明日も直向ひたむきに生活していくだけである。


 再発を知ったことで精神的なダメージを受けたとしても、それは自力でコントロールできるたぐいのものである。

 父も私も昨日までと何も変わらないように、ことさら母の前では笑顔で明るく過ごした。その一方で、母の負担にならないよう部屋を二階から一階に移し、屋敷の一階は段差という段差をすべて無くし、車椅子でスムーズな移動ができるように粛々と改修を進めた。


 しかし、私達がどんなに平穏を装ったところで、母が一番自分自身の体調の変化を敏感に感じ取り、残された時間を推し測っていたのかもしれない。

 長年使ってきた部屋を移る時、母は長い間ベランダの椅子に腰かけ春の日差しに照らされた庭を眺めていた。

「お母様、暖かくなってきたけど、まだまだ風は涼しいわ。風邪をひいてしまうからそろそろ中に入りましょう」

 母の背中が無言でもう少しと言っている。


 私はベランダに出て母の背に手を当てた。

「骨折が治って元気になったら、またこの部屋に戻ればいいでしょう。ね、風邪をひいたら大変だから」

 母はそうねと言って私を見た。

 もうこの部屋に戻ることはないと悟ったような瞳で、私のその場しのぎの嘘を許している。

 自分の運命を受け入れ、どこか諦めたような、しかしそこに悲しみや寂しさはない穏やかでたおやかな微笑みを浮かべていた。


 母を車椅子に移して、階段まで移動させると、母を車椅子ごと運ぶために運転手の永井ともう一人若い男が控えていた。

「私が連れて行くよ」

 突然、父の声が響いた。同時に、軽やかな足取りで階段を上ってくると、おどけたように「よろしいですか、奥様」とひざまずく。

「もうやめて、皆の前でそんなこと言って…」


 顔を赤らめ恥ずかしがる母と彼女を包み込むような笑みを浮かべる父に、周りから温かな笑いが漏れる。

 父は軽々と母を抱き上げた。

「蘭子の婚約パーティーの時に着たドレスを着せればよかった。お姫様と王子様気分になれたのに」

 臆面もなく言うと、再びその場が笑いで包まれる。


 再発したことは私と父だけしか知らず、その場の誰にも伝えてはいなかった。しかし、皆、母を注意深く見守ってきたからだろうか、すべてを飲み込み、切ない顔で精一杯笑顔を作っていた。


「使用人をバカにしちゃいけないよ。真っ先に主人の異変に気付くのは彼らだから。隠し事なんてできやしない。だけど、必死で主人を守るのも彼らだよ。主人と使用人は強い絆で結ばれている、家族のようにね」

 子供の頃、祖母の別荘に遊びに行った時、そこの家政婦にぞんざいな言動をぶつけた私に、祖母はそう説教をした。

 老若男女問わず皆、母のことを守るべき小さな娘のように愛情深い眼差しで見つめていた。



 その年の桜を見る会は、急遽、父と母の真珠婚式を兼ねた。

「蘭子、本当に真珠婚式なんてあるの? 銀婚式は知ってるけど真珠なんて聞いたことないわ」

「日本では有名じゃないけど海外では有名なの。諦めて素敵な白いドレスを着ましょう」

「でも…」

「大丈夫よ。バストラインは誰が見てもわからないように綺麗にするから」

 半ば強引に母にウェディングドレス風のオフホワイトのドレスを用意した。


「真珠婚式なんだからドレスにパールを散りばめたら綺麗ですね」

 ドレスの最終確認に来ていたデザイナーが、るり子がぽつんと言った一言に片頬をゆがめ、鋭い視線をるり子に送る。

「時間があればそういうのもいいですけどね」

「あまり派手にされても困るから無理をしなくていいわ」

 母がデザイナーに声を掛けると、彼女はほっとしたように笑顔を返す。


「パールを付けたくらいで派手にはなりませんよ」と、るり子はドレスを眺めながらデザイナーの視線など気にも留めずに言う。

「じゃあ、私達も手伝いますからパールを散りばめましょう。皆でやったら間に合うでしょう」

 サチも加わり、デザイナーには一瞥もくれずドレスの周りに集まってどんな風に散りばめたらよいかを女たちが楽しそうに話し出す。

 その様子を見守るように母がゆったりと微笑んでいた。


「じゃあ、これで結構です。パールを縫い付けるのはこちらでやりますから」

 私がことさら冷めた調子で言うと、デザイナーは目を丸くして、いいえと首を横に振る。

「最後までデザインさせていただきますから。パールを縫い付ける位置もしっかりと」


 デザイナーが帰ったのを確かめ、母が苦笑する。

「ずいぶんとご機嫌斜めだったわよ。大丈夫?」

「大丈夫ですよ、奥様。大体、仕上がりの確認に来たのに客の意向を嫌がるなんてとんでもないですよ」

 るり子が無邪気に笑う。

「客の意向じゃなくてるり子の意向でしょ。まあ、今回はるり子を褒めてあげるわ。いいアイデアだったわ」

 サチが私を見て、ねえと同意を求めた。


「そうね。るり子はセンスあるじゃない」

「違いますぅ。実は私の結婚式の時にパールが散りばめられたドレスを着たかったけど、予算の都合で我慢したんです。ようやくやり返せました!」

 るり子が歯を見せてニカッと笑いながら顔の横でピースサインをすると、その場が笑いで包まれた。

 誰もが笑顔の端で母が笑っていることを確認してほっと胸をなでおろす。

 そして、できる限り長く穏やかな笑顔が続くよう皆が願っていた。



 それから半年、母はほとんど歩くことはなくなり、車椅子で生活するようになっていた。

 それに合わせて、ワンボックスカーも車椅子ごと乗せて固定できるように改造が加えられていた。


 私は来年春の卒業を控え、父と結婚式の日取りを話し合っていた。

 夏頃から始めたこの話し合いに一番口を出して、式を挙げるだけならすぐにでもできるよと言いそうな庸一郎は意外にも「君の好きにしていいよ」とつれないそぶりだった。

 強引に事を進められるのも気に入らないが、好きにすればいいと突き放されるのも寂しい。悶々と煮え切らない思いを抱えて、父を呼びだしガーデンホテルでランチを取りながら日取りの最終確認に来ていた。


「お父様、庸一郎さんは忙しいの?」

「どうした?」

「このところデートに誘っても忙しいから日を改めてって断られるの…ま、私も卒論で色々忙しいからいいんだけど。お母様にはもう少し顔を見せて欲しいわ」

「ふむ…庸一郎君も仕事熱心だからね。お父様からも顔を出すように言っておくよ」


 結婚式はジューンブライドにこだわる母の望み通り来年6月に予定し、母の容態を見ながら臨機応変に前倒しできるように親族だけのこじんまりしたカジュアルなものにしようと決め、挙式のみの予約を入れた。

「さて、そろそろ会社に戻るよ。蘭子はこれからドレスを見に行くんだろう?」

「そのつもりだったけど、やっぱり庸一郎さんがいないと何だか気乗りしないから今日は帰るわ」

 父は「少し妬けるね」と呟き、満足げな笑みを浮かべて会社に戻って行った。

 私は、どこにも寄らず真っすぐ家に帰った。


 ふと、玄関脇の駐車場を見ると、そこにあるはずのワンボックスカーが見当たらない。

 メンテナンスにでも出しているのだろうかと永井の姿を探すがどこにも姿が見えない。

 まさか、私のいない間に母に何かあったのではないかと不安になり、急いで食堂に向かった。


 日が明るいうちは食堂のテラス側に居るはずの母の姿はそこにはなかった。

 もしかしたら庭に出たいと言ってサチが連れ出しているのかとテラスや庭を見渡すが姿は見えない。

 疲れて横になっていることを願いながら母の部屋へ向かおうと廊下に出ると、そこに驚いた様子で顔を強張らせるサチが立っていた。


「お母様は? お部屋?」

「いえ…あの…ずいぶんとお早いお戻りでございますね。驚きました」

 引きつった笑みを浮かべ動揺を見せるサチに私は声を張り上げた。

「そんなこと聞いてない! お母様はどうしたの? 訊かれたことに答えなさい!」

「お出かけです」

「どこへ!」

「それは…その…」

「はっきり答えろ!」

 サチを怒鳴りつけたと同時に、背後から「大きな声ねえ」と母の柔らかな声がした。


 振り返ると、母と母の車椅子を押す庸一郎の母親、柚紀が立っていた。

「お母様! どこへお出かけだったの? 出かける時は私がいる時にしてくださらないと…」

「ごめんなさい。姉さんと少し昔語りがしたくてね。思い出の場所を巡っていたのよ」

 柚紀を見ると、目を泳がせ何度か瞬きをする。


「ちょっとね…その、あーちゃん…杏紗の気分がよかったみたいだし…ほら、杏紗と少しドライブに出ようかと話してね。もう…蘭ちゃんたら、そんな怖い顔しないで。あーちゃんはあなたには大切なお母様だけど、私にとっても可愛い大事な大事な妹なんだから、たまには姉妹二人、水入らずで出かけても何も悪くはないでしょ」

 柚紀は最初こそ言いよどんだが、いつもの調子を取り戻し流れるように言葉が次々と出てくる。


「今日は晋太郎さんと結婚式の打ち合わせだったんでしょ。色々聞きたいわ。ドレスはどんなのにするの?」

「姉さん、ここで話してないで部屋に…」

「そうねそうね。こんな所で立ち話なんてねえ。食堂に入りましょ。この間まで暑いと思ったらすっかり秋だものねえ」

 柚紀は母の車椅子を押して食堂に入ると、サチに「私とあーちゃんに温かい紅茶お願いね」と言って、それから後は結婚式の話に触れることもなく、母と取り留めもなく話し続けた。

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