可 愛 い 女(ひと)
手術からちょうど三年が経とうとしていた。
季節の変わり目だからか、母はこのところ風邪をひいては回復し、また風邪をひくことを繰り返していた。
「今のところ、レントゲンには異常はないですね。左腕の調子はどうですか?」
医師の問いかけに、母は上品に微笑んだ。
「娘が毎日マッサージをしてくれますから、痛みも
医師がチラッと私を見て、
「親孝行な良いお嬢さんをお持ちで幸せですね」と軽く言う。
母はありがとうございますと嬉しそうに相好を崩した。
母を待合室で待たせ、薬を受け取り会計を済ませて戻ってくると、満面に笑みを
「どうしたの、何か楽しいことでもあったの?」
「今ね、隣で待ってらした方にね…」と言葉を切ってふふっと意味ありげに笑う。
「あのね、お母様にそっくりの綺麗なお嬢様ですねって言われたのよ」
そう言うと顔をくしゃくしゃにして笑った。
「なんだ、そんなこと。さあ、病院に長居は無用よ。帰りましょう」
「あら、そんなことって…」と笑顔が緩む。
予想に反して冷めた私の態度に、少しがっかりした様子で席を立った。
「お母様、忘れたの?」
車の中で澄まし顔の母に声を掛けた。
「小学生の時、授業参観に来た時のこと」
母は小首を傾げて「何だったかしら」と呟く。
「お母様にそっくりのお嬢様ですねって友達のお母様方に言われたって。その日、私もお友達に、蘭ちゃんはお母様に似てるねって言われたから、嬉しくなって夕食の時、二人してお父様に報告したのよ」
母が懐かしそうな表情を見せた。
「そんなこと、あったわねえ」
「長く一緒に住んでると顔も似てくるんだってお父様も嬉しそうだったわ。だから、今さら知らない人から言われても何とも思わないわ」
「あら、やっぱり嬉しいわ」
「そうかしら。私なら似ていて当然でしょ、親子なんだからって返すけどね」
冷めた調子のまま言い放つと、「まあ、この子ったら」と再び相好を崩す。
「女の子だからでしょうかね。お小さい時は旦那様にそっくりだと思いましたが、最近は奥様によく似てらっしゃる」
運転手の永井が気を利かせて口を挟むと、母はそうかしらと声を出して笑った。
それから半年、母は時々、どこそこが痛むとか痺れるとか口にするが、我慢できないほどではなく押し並べて平穏で落ち着いた日々を過ごしていた。
そんなある日、母を起こしに行くともう少し寝かせてと返って来た。
心配した父が様子を見に来ると、ベッドの上で目だけで父のほうを見る。
どんなに具合が悪くても、父の前では身体を起こす母が力なく身を横たえたままでいることに、私も父も異変を感じた。
「お母様、どこか具合が悪いのね。どこが痛いの」
「背中がね、少し痛むの。いつもの腰痛だと思うからもう少し寝ていたら治ると思うの」
私が背中に手を当てると、顔が少しゆがむ。
「すぐ病院に連れて行こう。蘭子も来てくれ」
「もちろんよ」
母の外出を助けるために、楽に横になれるよう改造を加えたワンボックスカーですぐに病院へ連れて行った。
「圧迫骨折ですね」
「骨折!」
いつものように淡々と言う医師に、父は驚いて声を上げた。
「今回の骨折以外に、何か所かありますね」
「何か所……痛みをうったえたのは今回が初めてで、今まで骨折したような痛みをうったえたことはないのに」
私の言葉に医師は「あり得ますね」とうなずく。
「圧迫骨折は全く自覚症状のない場合も多いですからね。これは乳がんの転移と考えて間違いないでしょう」
「転移」という言葉に父と私は絶句するしかなかった。これまで数少ない乳がん経験者を求めて症例を耳にしてきた私達にとって「転移」には常に「死」がまとわりついていた。
「咳はどうですか。息苦しいとか言ってますか」
父と私の心の動揺などお構いなしに、医師は坦々と仕事を進める。
「咳は時々…咳が出た時はすぐにこちらでいただいたお薬を飲ませてます」
私は、ようやっとそれだけ口にして深い息をついた。
「息苦しさは?」と医師が畳みかける。
「息苦しさは…」
私の言葉が詰まると父が横から口を出す。
「息苦しいなんて聞いたことがない」
見ると、余裕を失っている父がいた。
私は二、三度ゆっくり息をして呼吸を整えた。
「息苦しいと言ったことはないですけど、疲れたと言って横になることが多くなっているような気がします」
医師は眉根を寄せ私を見た。
「胸部レントゲンも撮ってみたのですが、やはり何も映ってはいない。ですが、半年前に風邪を繰り返すような症状もありましたし、肺に転移していることは十分に考えられます」
「そんなことがあるんですか。映らないなんて…」
「残念ながら万能ではないんです。映ってないからと言って転移がないとは言い切れない」
一呼吸置いて、「患者さんに告知しますか」と訊く。
「それはやめてください。言わないで下さい。絶対に」
父が間髪入れずに返答した。
医師は、父を一瞥すると何度か頷いて「わかりました」とカルテに視線を落とした。
その夜、父にガーデンホテルのバーに誘われた。
夜景が見える窓に面した席に座って、いつもは私に付き合い適当なカクテルを頼む父がウィスキーを注文した。
「人目のないマンションのほうがよかったんじゃない。カクテルはまだまだ勉強中であまり美味しく作れないけど」
そう言う私に、父は首を横に振って微笑んだ。
「このくらいの人目があったほうが精神的に落ち込み過ぎなくていいのさ。二人でマンションに行くなんて言ったら永井たちも何かしら思うだろう。使用人たちに心配させるとお母様にも何となく伝わるから…」
「そうね」と返して、ローズ色のキール・ロワイヤルを一口飲んだ。
それを横目で見ていた父がふっと笑う。
「それに、蘭子が作ったカクテルをこんな気分が落ち込んだ日には飲みたくないしな」
私の成人の祝いに、父はダイヤのネックレスとカクテルセットを贈ってくれた。それ以来、私は少しずつ色々なリキュールを購入し、マンションの棚に美しく並べ、カクテルバイブル片手に様々なカクテルを作って楽しんでいた。
「キール・ロワイヤル…初めてお母様に作って差し上げたら美味しいって言ってくれたの。なんて綺麗なバラ色なのって何度も手に持って灯りにかざすのよ…可愛い
唇が震え涙がこぼれる。
父がポケットからハンカチを出し、「鼻はかんでないぞ」と渡してくれる。
思わず笑いが漏れた。
私の笑顔を見て少しほっと安堵したような表情になり、ふと視線を宙にやる。
「蘭子は覚えているか。ちょうどお前が10歳になる頃、お母様に連れて行かれた怪しい場所」
私が10歳を迎えようとしていたある日、父と母の3人で立派な門構えの一見すると寺のようにも見える建物を訪れた。
出迎えた白装束の女に母は
父は事態が呑み込めないのか明らかに戸惑い目を泳がせていた。
「お嬢様にまとわりつく悪しき霊を取り除き健やかなる未来へと導かれるようご祈祷させていただきます」
不気味な祭壇を前に女が重々しい威厳を装った低い声で言う。
「悪しき霊? それが蘭子に取り付いていると?」
父があからさまに顔をしかめて女を睨む。
「天に召されたお坊ちゃまにまとわりついていたものと同種の霊でございます」
父は立ち上がり、帰るぞと静かに母と私に言った。
「あなた…お忙しい先生に無理を言って割り込ませていただいたのよ。ご祈祷していただきましょう」
父を見上げる母は目に涙をためて震えていた。
「君が神社にお祓いに行くと言うから付いてきたのに…」
父は深いため息をついた。
「御主人、このまま帰ればあなたの身にも災いがおこりますぞ」
「それは
怒りを滲ませた半笑いで吐き捨てる父に一緒に付いて来た秘書が「訴える準備をいたしましょうか」と小声だが女に届くように言った。
「杏紗、蘭子のお祓いなら日本古来の神社に行こう」
父は泣いている母に優しく声をかけ、抱き上げるようにして立たせると、女に一瞥もくれず部屋を後にした。
父の後を追うべく立ち上がった時、顔を強張らせ色を失っていた女と目が合った。
「インチキばばあ!」
私の発した罵声に廊下の向こうで父の笑い声が響いた。
「これでお相子だな。訴訟の話は無しだ」
「畏まりました。さ、蘭子様、帰りましょう」
秘書に促され部屋を出て振り返ると女は力なくへたり込んでいた。
車の中で泣きじゃくる母の肩を抱いて私は幸せを感じていた。
「お母様、私、絶対に死なないって約束するから。大丈夫よ」
あの時はまるで私のほうが母よりも大人になった気分で母の肩を抱いていた。
何年か後、母はあの一件を口にして、
「あの時、蘭子はお父様の娘なんだなあって思ったものよ。本当に顔も性格もよく似ている」と笑っていた。
「もちろん覚えているわ。お母様は私のことを心配してくれたのよ。本当に優しくて可愛らしい方…」
父は私の言葉に大きくうなずいて苦笑する。
「少し後悔してるんだよ」
「後悔? 何を?」
「お母様の気が済むならその怪しい祈祷でも何でもやらせればよかったなあって…子供みたいにわんわん泣いて可哀相なことをしたな」
悲しげに笑う父の唇が震える。
「あら、ダメよ。結果的にインチキばばあに法外なお金が渡るなんて許しちゃだめよ」
「それはそうだな」
父が目を
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