独 り 立 ち

 入院前日、今夜一晩は母に寄り添おうと思い、私は自室を出た。


がん」という言葉が絶望的な響きを持っていた時代、乳ガンは母の精神を容易に打ちのめした。

「どうして私が…」と言葉を詰まらせる母に、

「悪いところを取れば元気になってまた普通に生活できるから…頑張ろうな」と、父は必死でなだめた。

 しかしなだめている父も当事者である母自身、そして私もそう遠くない将来の死を意識していた。


「悪いところを取れば元気になってまた普通に生活できる…」

 父の言葉が胸に刺さる。

 母は腰痛で長く立っていられない以外に生活に支障をきたす症状はなく、普通に生活していたのだ。がんだと告げられたその時から精神的ダメージを、外科的手術によって肉体的ダメージを背負い、むしろ普通の生活に大きな支障をきたすことになった。


 あの時、私が母の乳房の異変に気付き父に言ったことは正しかったのか自分でもわからなかった。

 あるいはあのまま年齢によるしわとして、がんが皮膚を突き破って出てくるまで普通の生活を送る道もあったのだろう。

 がんだと知った瞬間から始まる途轍もない孤独と恐怖を思うとひとり安穏としていることなどできなかった。

 入院すれば否が応でも独りきりの時間を過ごさなければならない。それなら家に居る今だけは傍らに寄り添い、少しでも母の孤独を軽くしたい。そんな気持ちでうすら寒い廊下をそろそろと歩いた。


 ふと人の気配がして足を止めた。

 壁に身体をピタリと付けて息を殺していると、父の姿が見えた。

 怒られた子供のように力なく肩を落とし、呆然と母の部屋へ向かっている。

 昼間、母や私に、「お父様に任せておけば何の心配もない」と言わんばかりの豪胆な笑顔を振りまいている父とは別人だった。

 不意に幼い私の隣で、声を殺して泣いていた父の姿が思い出された。同時に私の手にはあの時、父の身体にまわして精一杯父を抱き締めようとした感触が蘇る。

 私は静かに自室へと引き返した。



「婚約パーティーは、そのまま結婚パーティーにしてもいいくらい盛大だったね。なんなら結婚式はこじんまりと親族だけにしてとりあえず籍だけ入れようか?」

 待合室で庸一郎家族と父と私は母の手術の終了を待っていたが、少し外に出ないかと誘われ病院の中庭に出てきたところで庸一郎がおもむろに口を開いた。

 私は首を横に振って無理よと返す。


「蘭ちゃんは僕と結婚するのが嫌?」

 庸一郎は自信をはらんだ余裕の笑みを私に送る。

「嫌じゃないわ。ただ、今はお母様を第一に考えたいの」

「結婚してからだって叔母さんを支えることはできるだろ」

「それほど器用じゃないの。今はお母様だけを見ていたい。結婚したら庸一郎さんだけ見ていたいから」

 庸一郎は照れた笑いを見せる。

 私は庸一郎から視線を外した。


「私、女子大に進学するわ」

 庸一郎は進学と呟いて顔を曇らせた。

「家政経済学を専攻しようと思うの」

「何それ?」

 庸一郎を見ると片頬がゆがんでいる。

「生活科学部の中にあるの」

「何するの、そんな所で。家計簿の付け方でも習うの。4年もかけて?」


 数日前に同じことを父に告げた。

「経済学に家政が付くのか」と、興味津々で訊いてくる。

「経済の小さな単位は家庭の家計よ。そういう視点から経済とか経営、政治を学ぶの」

「家政経済学か…いい選択だね。蘭子と色々な話ができるのが楽しみだ」

 父は嬉しそうに破顔した。


 そして母には、婚約したんだからすぐにでも結婚しようと繰り返す庸一郎への愚痴を言った。

「庸一郎さんは心配なのよ。あなたがどんどん大人になって交友関係が広がると他の誰かに取られはしないかと不安になるのよ」

「お母様はどう思うの? 私、高校卒業したらすぐ結婚したほうがいい?」

「それはあなたが決めることよ。あなたの気持ちはとてもよくわかるわ。結婚よりお友達と一緒に大学に行きたいと思うのは自然なことだもの」


 母の穏やかな笑顔が私を包み込んだ。笑わなくなっていた母に束の間の笑顔が戻って、私は満面の笑みを返した。

「私、大学に行くわ。大学に通いながらお母様のお世話をさせてください。庸一郎さんとの結婚は大学を卒業してからよ」

 キッパリ言い切る私を母は頼もし気に見つめていた。


「とにかくもう決めたの」

 私は真剣な目で口だけ微笑んで庸一郎を真っすぐに見た。

「4年間で立派な家計簿が書けるように勉強するわ」

 庸一郎は引きつった笑みを浮かべた。

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