普 通 の 生 活
「悪いところを取れば元気になってまた普通に生活できる…」
しかし、父の言葉通りにはいかなかった。
母は手術後の痛みや左腕の可動域が極端に狭くなった以上に、手術痕に悲鳴を上げた。
入院中は手術後のガーゼを取り替える時もあお向けに寝ていて、母自身手術痕を見ることはなかった。
「悪いところは綺麗に取れましたよ。傷跡も実に綺麗だ」
回診に来た医師が満足げに微笑み、外科医の視点から自身の手術の出来を自画自賛する。
片方の口角を少し上げて軽く会釈する母は、綺麗と言われた自身の身体がどんな風に仕上がっているのか想像もできなかっただろう。
退院し、初めてその姿を鏡に映し、皮膚一枚で覆われた肋骨が浮き出る左胸を見て崩れ落ちた。
それは私や父も同じで、胸のガーゼを取り替える時に肋骨が露わになるくらいに何もかも切除されたことを知って絶句した。
退院しても元気になるまでしばらくは見せないようにしようと父と話していたが、母にしてみれば自身の身体がどうなったのか何よりもまず知りたかったのは当然のことである。
鏡の前で肩を振るわせる華奢な母の身体は一回りも二回りも小さく見えた。
「死んだほうがマシです。こんな姿になって生きていたくない…死にたい…」
「バカなことを言うもんじゃない!」
父が優しくガウンで背後から母をくるんで抱き締めた。
「せっかく手術したんだ。頑張って生きて行こう。生きてくれ…僕のために。蘭子のためにも」
父の声が震えている。
長い沈黙の後、母は小さくうなずいた。
「そうよね…二人に散々心配かけたのに…我ままばかりで御免なさい…元気にならないと…」
しかし、そう簡単に現状を受け入れることはできないようだった。
「元気を出して頑張らないと」と健気に笑顔を見せたかと思うと、「早く死んでしまいたい。死んで隆太郎に会いたい」と涙ぐむ、そんな不安定な精神状態がしばらく続いた。
夜は母のベッドで一緒に眠り、時々母は私の背中に手を回し私を幼子のように抱き締める。
私もそんな母が愛おしく、母を抱き締めて眠った。
お兄様、どうかまだお母様を連れて行かないで…
そう祈りながら。
口を開けば痛い痛いと繰り返してしまうのを必死で抑えているのか、母の眉間には常に深い皺が寄り、苦し気な表情で目を閉じて口を真一文字に結ぶ。
「お母様、痛いときは痛いと言ったほうが気分が楽よ」
そう言うと、母の口元が緩み「ありがとう、大丈夫よ」と呟くように返ってくる。
「あのね、蘭子…痛いよりも胸が寒くて寒くて耐えられないの」
ある夜、母が消え入りそうな声で言った。
「まあ、お母様、いつから? 私には何でも言って。我慢されるなんて私のほうが耐えられないわ」
私は目に涙を浮かべながら母の胸に何枚もタオルを重ねて当て、肩掛けを着せる。
「私があの時、余計なことを言わなければ、お母様は…ごめんなさい」
「いいえ、あなたのお蔭よ…ありがとう。あなたが居てくれてよかった」
母は私の涙を優しく拭って、ふふっと笑った。
「不思議なの。もう何も無くなったはずなのに、左の乳首が痛いの…もう無いのに…」
私は戸惑いながら母の左胸の乳首があったあたりをそっとさすった。母はまたふふっと微笑むと目を閉じ、安心したように眠りについた。
父は私のことを心配して、週に1、2度、私と代わって母に添い寝してくれる。
「昨日はあまり眠れなかったわ。お父様のいびきがすごくて」
母は大げさに顔をゆがめて不満を漏らすが、その表情はいたって穏やかである。
「たまにはお父様のいびきを子守唄に眠るのも悪くないでしょ」と、わざと冷たく言う。
「…そうねえ…たまにはね」
母はふふっとはにかむように笑みをこぼす。
一日、また一日と時が経つにつれ、薄紙をはぐように徐々に母の眉間から皺が薄れ、唇を柔らかくほどくことも多くなる。
それを待ちわびたように、庸一郎の家族が見舞いに訪れ、次いで晋太郎の姉たちも代わる代わる訪れる。
「杏紗さん、ビタミンCが身体にいいんですって。それからシイタケも。これ大分から取り寄せたのよ。蘭子ちゃん、煮だしてお母様に飲ませてね。それから沖縄の黒砂糖と黒酢…」
食堂のテーブルに身体に良いと聞いたらしい食糧を並べ、伯母の佳子が満足げに笑う。
「
「もっと早く来たかったのに晋太郎ったら、まだ来ないでくれって引き延ばして。杏紗さんだってお喋りしてたほうが気が紛れるのにねえ、男は何もわかってない」
佳子は母と私を交互に見て「ねぇ」と同意を求め、コーヒーをすすった。
「こんなに気を遣ってもらってすみません」
「水臭いこと言わない! 母の世話も一緒になってやってくれたし本当の姉妹みたいなもんでしょ、私たち」
佳子は父によく似た大らかな笑顔を見せた。
別荘に住んでいた祖母は前年、老衰で亡くなった。寝たきりになっていた祖母が亡くなるまでの1年近くは三人の娘と母が代わる代わる世話に行っていた。
「母のお葬式に来てくれた杏紗さんのお母様が半年も経たずに亡くなるなんてびっくりしたわ。まだお若いのに…」
佳子が悲し気な目をすると、母は首を振って笑った。
「全然、若くない…79歳。母のように突然、ぽっくり逝くのは幸せよねって姉と話してたの」
「そうね、89歳までぎゃあぎゃあ我まま言って、周りを巻き込んだ母よりずっと幸せなのかも。死んだ子供のこともすっかり忘れて…」
「お婆様、子供を亡くしてるの?」
私が驚いて訊くと、佳子が知らなかったの?と微笑む。
「私たち三人姉妹が生まれる前に、赤ちゃんで亡くなった男の子が居たそうよ。昔は全然珍しくない話で、いつまで泣いてるんだって怒られて、泣くことも許されなかったって言ってたわ」
「隆太郎のことを忘れるなんて考えられない。あの子を忘れるまで長生きしたくはないわ」
母が眉間に浅い皺を寄せる。
「お母様、私はお兄様のこと忘れるくらい長生きしてくれて構わないから。お母様のオムツだって取り替えるし」
まあ、と佳子が声を出して笑うと母もつられて笑う。
「止めてちょうだい、オムツなんて…」
母が苦笑すると、佳子がすかさず「あら、幸せなことじゃない」と割って入る。
「私の友達なんて乳がんで胸ごっそり取って10年目だけどピンピンしてるのよ」
母の顔にパッと光が差したように見えた。
「まあ、10年!」
「そうよ。もうすっかりお役ご免で垂れ下がるだけのおっぱいなんか捨てたって命が助かるなら儲けもんよ」
佳子はキャラキャラと甲高い声で笑う。
「さてと、蘭子ちゃん、シイタケ茶の煎じ方教えるからお母様に飲ませてね。お婆ちゃまが89歳まで飲んでたお茶よ。お母様にはまだまだ長生きして蘭子ちゃんの子供を抱いてもらわないとね」
佳子はシイタケを一袋手に取り立ち上がる。これ片付けておいてとテーブルの上に広げた食糧を指さしてサチに言うと、いたずらっぽい笑みを浮かべ私を見る。
「蘭子ちゃんもお茶くらい入れられるでしょ」
「失礼ね、佳子伯母様。私、けっこうお料理もやれるんだから」
大げさに唇を突き出すと、佳子は信じられないと言わんばかりに目をくりくりさせておどける。
「今度、佳子伯母様のところに行って披露するから待ってて」
「うわあ、楽しみが増えたわ」
佳子と軽口を叩き合いながら、食堂のドアのところまで来て立ち止まり振り返った。
母が白い歯を見せ幸せそうに笑っていた。
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