三 人 家 族

 それは突然の宣告だった。

「とりあえず、手術の予定を入れておきますね」

 医師はすがるように凝視する父と私からは視線を外し、坦々と手元の書類とカレンダーを見ながら看護師に指示を出した。



 母と温泉に入った時のことである。

 イヤリングを外した時にうっかり床に落として慌ててしゃがんだ。

「小さいから落とすとすぐにどっか行っちゃう。お父様にもっと大きいの買ってもらわなきゃ」

 ふざけた調子で言うと、

「大き過ぎても重くて大変よ」と母が笑う。


 あったと言って、しゃがんだまま母を見上げた時、母の豊かな乳房が作るアンダーバストの線が二本になっていた。

 私の顔が固まっていると、「どうしたの、ジロジロ見て…」と母はタオルで押さえる。

「お母様、左のおっぱいの線が一本多いわ」

「それはあなた…」と言ってころころ笑う。

「お母様だってもう年なんだから、しわも増えるわ」

 母はそう言うと上機嫌で露天風呂に向かった。



 その夜、三枚並んだ布団に母は穏やかな視線を落としていた。

「たまには三人もいいわね。今までももっと行けばよかった…」

「もう行けないようなこと言わないで。悲しくなる」

 私の言葉に母はそうねと幸せな笑顔でうなずいた。


「そうだよ。蘭子が結婚したって三人で旅行しよう。義姉ねえさんが行きたいと言っても家族で行きたいからと断ってさ」

「その時はあなたが断ってね」

 え、僕が? と顔をゆがめる父を見て、母と二人、顔を見合わせ笑い合う。

 ふと、脱衣所で見た母の乳房を思い出した。


「そう言えばお父様、お母様の胸がおかしいの」

「胸?」

 父の視線が母の胸のあたりに落ちる。

「蘭子ったらお父様の前で変なこと言わないで」

 母が慌てて胸に手を当てる。

「だっておっぱいの線が片方だけ二本あるの」

「二本?」


 私は左手で左の乳房を持ち上げ、右手の人差し指で脇の下からアンダーバストのラインをなぞった。

「普通は一本でしょ。お母様には二本あったの。枝分かれするみたいに」

「見たほうが早いな。杏紗、ちょっと見せてごらん」

「いやあよ、恥ずかしい。蘭子も変な事言わないで。しわです。ただの皺! 年をとったのよ」

 母の焦る様子を父がにやけた様子で眺める。

「今さら恥ずかしがる年でもないだろう。ほれ、見せてみろ」


「お父様、そういうデリカシーのない言い方は失礼よ」

 ねえと母と顔を見合わる。

「お母様、どうぞお胸を我々にお見せください」

 かしこまった風を装い母の前に正座し頭を下げると、父も隣に座り「お見せください」と悪乗りする。


「何なの、あなた達は」と呆れて笑う母に私は真顔になる。

「心配してるのよ。お父様も私も」

 母は諦めたようにはにかみながら浴衣の前を開いた。

「お母様、立って。下から見ないとわからないから」

 母は黙って立ち上がる。


 やはり左だけ不自然なラインが枝分かれするようにできている。

「ほら、お父様、この線よ。右はないのに左にはあるでしょ」

「そうだな…でも、年齢的なものじゃないのか?」

「だったら右にもあるはずよ」

「そうだな…」


 突然、キャハハと母にしては珍しい甲高い笑い声がした。

「もうお終い」と浴衣を直し、

「だって、おかしくて。同じ顔が二つお母様のおっぱいを覗き込んでるんだもの」

「こんなこと義姉ねえさん達がいたら絶対できないな」と、父も声を出して笑う。

 私も二人につられて笑った。



 しかし、私の言った言葉を父は受け流すことなく、旅行から戻るとすぐに母を病院へ連れて行った。

 そして数日後、母には内緒で父と共に結果を聞きに来て、あっさり母の乳ガンが宣告された。


「本人に言わない方法はないですか?」

 父の唐突な言葉に入院と手術の手配をしている医師の手が止まる。

「乳ガンですからね。全摘しますから無理ですね」

「ぜんてき…」

「そうです。乳房を全部取り除くんです」

 父が何度か目を瞬き、言葉を失った。


 当時、乳ガンは欧米女性の病気で日本ではそれほどメジャーな病気ではなかった。今は部分切除や放射線、化学療法、再建手術等、様々な選択肢があるが、当時は病気の進行度合に関わらず胸筋を含めた乳房全摘手術のみだった。


 医師はあからさまにため息を吐く。

「どうしても告知したくないなら手術しない選択しかない。だが、それだとガンが皮膚を突き破ってもっと悲惨な状況になりますよ」


 乳腺外科という乳ガンに特化した診療科もなく消化器外科が片手間に診療し、心のケアやクオリティ・オブ・ライフ、インフォームドコンセントの考えもなかった。

 医師が、もの知らずな患者家族を見下すように事実を淡々と告げるのも普通のことだった。


「希望を持たせることくらいできるでしょ」

 私は我慢できずに口を挟んだ。

「病状を軽く言って、手術すれば治ると希望を持たせるくらいできるでしょ。医者なんだから」

 怒りをはらんだ声と、私の目からこぼれ落ちる涙を見て、医師の目が泳ぐ。

「まあ、そうですね…そうしましょう」

 ようやく医師は引きつった笑顔を見せた。



 どちらからともなく、父と私は病院の中庭に出ていた。

 車に戻って何事もなかったように「またせたね」と運転手の永井に声をかける自信がなかったのだろう、私も彼に何も悟られることなく自然体を装う自信がなかった。


「お前が来てくれて良かったよ」

 ベンチに座るなり、父が力なく言った。

「お母様は手術を嫌がるわね。おっぱいを取ってしまうなんて…」

 私の目から涙がこぼれた。

「ごめんなさい。お母様の前では絶対泣かないわ」

 父が私の肩を抱き寄せた。

「マンションに寄ってくか」

 父が耳元で優しく言った。


 小学校2年生に上がる年の春休み、私は屋敷に戻った。

 その時、ここはそのままにしておこうと父が言った。

「蘭子にも一人になりたい時があるだろう。誰にも邪魔されずに一人で歌を歌ったり勉強したり、誰かの悪口言ったり笑ったり泣いたり、そういう時のために残しておこう」

「お父様と蘭子の秘密基地ね」

「そうだ。秘密基地だから誰にも入らせないぞ。掃除もゴミを出すのもみんなお父様と蘭子でやるんだ」

 父の言葉にわくわくしながらうんと頷いた。


 それ以来、習い事をサボった時や、昼寝したい時、中学に上がると友達を呼んで騒いだりと便利に使える空間だった。

 父がそのマンションをどのように使っていたかは知らないが、誰にも邪魔されずに一人で過ごす空間という認識で一致していたので、父と二人で使用したことはなかった。


 マンションに着くと、父は永井に1時間ほど待つように言った。

 ここに居られるのは1時間。

 私は真っすぐ自分の部屋へ行き、ベッドに突っ伏すと泣けるだけ泣いた。

 洗面所で顔を洗ってダイニングに行くと、父が少しだけ赤くなった目を何度か瞬きしてコーヒーを飲んでいた。


「大丈夫か?」

 私を見ないで父が言う。私は大丈夫よと頷いた。

「お父様、私、庸一郎さんと婚約のパーティーを開きたいの」

 父が私と視線を合わせる。

「手術の前に綺麗なお母様の胸のラインが出るような素敵なドレスを着てもらって、たくさんゲストを呼んでたくさん写真を撮りましょう。主役は私じゃない…お母様よ」

「わかった。すぐに準備させよう」

 父は笑いながら唇の震えを噛みしめた。

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