独 り よ が り

 父と母にとって私とは何なのだろう…

 もし、庸一郎が何の問題もなく養子に迎えられていたならば、父は私を引き取ることなど考えず、特に必要のない存在だったのではないか。


 私では埋められない父と母の心の空白を満たし、彼らの愛情を存分に享受している庸一郎への嫉妬。

 そして、いつの日か私の隣に立ち私を愛し守り抜くと誓うであろう庸一郎へのうぶな憧れ。

 私の中でそんな相反する二つの感情が同居し、制御不能にむくむくと膨らんだりしぼんだりを繰り返し、その狭間で翻弄されながら時をやり過ごしていった。


 私と母の関係は、と言えば、互いに気を遣いながら、時には我ままを言ったりお小言を言われ唇を尖らせてみたり、しかしどこかで規制線を張ってここから先は互いに踏み込まない領域というものを暗黙のうちに守っているような、面倒くさいが慣れ合うこともなく甘え過ぎることもない節度ある親子関係を築いていたと思う。



 それは高校3年になった年の秋口のことである。

 庸一郎と映画を観に行った帰りに瀟洒しょうしゃなレストランに立ち寄った。

 この時期、学校ではエスカレーター式に進学できる女子大の何科を専攻するかの話題で持ちきりだった。


「文学部は楽に進学できるけど、英文科はなかなか難しいのよね。生活科学部はつまらなそうだし、迷うにしても選択肢が少ないの」

 一方的に自分の状況を話していると、それまで黙って聞いていた庸一郎が口を開いた。

「蘭ちゃんは大学なんて行く必要ない…行かなくていいよ」

 予想外の言葉に私は呆気にとられ絶句した。


 庸一郎はジャケットの内ポケットからベルベットの小さなリングケースを取り出すと蓋を開けてテーブルの上に置いた。

 そこにはダイヤのリングがキラキラと美しい輝きを見せている。

 タイミングを計ったようにギャルソンがデザートプレートを運んできた。

 私の前に置かれたプレートにはホワイトチョコの薄い板に「I promise I’ll make you happy」とブラックチョコで書かれていた。


 庸一郎との結婚がそろそろ現実味を帯びた年齢になっている自覚はあったが、何の疑問もなく級友たちと大学進学を考えていた私にとってはまだまだ猶予ゆうよ期間が残っているはずだった。


 私を見つめる庸一郎の瞳は満足げな笑みをたたえている。

 彼から見える私の瞳が揺れていたからだろう。が、それは思いがけず知ってしまった庸一郎との齟齬そごに動揺し、急に場を展開させる彼の強引さに返す言葉を探して落ち着きを失っていたに過ぎない。


 憧れの彼との結婚を待ちわびる世間知らずな小娘は、当然この特別なサプライズに心を揺さぶられ、幸せを噛みしめ喜ぶはずだと信じて疑わない。

 そんな庸一郎の瞳には、感動のあまり言葉にしたら今にも泣き出してしまうのを必死でこらえている私の姿が映っていたのだろう、容赦なく送られる純粋で単純な視線との交錯が私の瞳を潤ませる。


 この人は私のことなど愛してはいない。大事なのは私ではなく、父の娘としての私。

 そんなことは最初からわかっていたはずだ。何を今さら…

 私の目から諦めの涙がこぼれ落ちた。


 庸一郎が視線をずらして目配せすると、しなやかな足取りでギャルソンが歩み出た。

「おめでとうございます。これはささやかですが、当店からお二人へのお祝いでございます」

 そう言って、差し出された木箱に入ったシャンパンには、「congratulations!」の文字と今日の日付がカリグラフィーで描かれたラベルが貼られている。


「蘭ちゃんが成人してたら、シャンパングラスに注いでもらって乾杯するところだけどね」

 庸一郎がギャルソンに微笑み掛けると、

「将来のお二人の記念日にどうぞ」と言って、柔らかな微笑みを私に向けた。

 私は振るえる唇で「ありがとう」と呟き、幕を引いた。



 その夜、食堂のソファで私の帰りを待っていた父と母が、疲れ切った私を見るなり顔を曇らせた。

 共に過ごした時間が長いからか、少なくとも庸一郎よりは私の心を正しく読み取っているようだった。


「蘭子、気分でも悪いの? 大丈夫?」

 そう声を掛けられると、張り詰めていた神経が一気に緩んで、私は母の元に駆け寄りその胸に顔を埋め声を出して泣いていた。

「あらあら…」

 母は満足そうに私の背に手をやり優しくさする。


「どうしたんだ。何があったんだ?」

 おろおろと戸惑う父に、「冷たいお水を持って来てちょうだい」と母が落ち着いた口調で言うと、使用人を呼ぶことも忘れて父自身があたふたと厨房へ走る。

 私は必死に言葉を探した。

 目の前の二人を決して失望させることのない言葉を。


 戻って来た父からグラスを受け取り水を口に含む。

「私…怖くて…庸一郎さんとの結婚が…」

 そう口にしてまた顔をゆがめる。

「何だか急に怖くなったの…お父様とお母様から離れるなんて…怖いの…もうしばらくお父様とお母様の娘でいたくて…」


 そう消え入りそうな声で言うと再び母の胸に顔を埋めた。

 そうかそうかと父は嬉しそうに笑う。

「大丈夫よ。お父様もお母様も…いつもあなたと一緒だから…」

 母の優しい声が震えていた。



 それからしばらくたったある日、私は父と母の3人で温泉旅館に来ていた。

 庸一郎から結婚を急かされ不安定になっている娘を案じて、母が言い出した家族旅行である。


 それまでの旅行は庸一郎の家族を誘って大人数で行くことはあったが、3人だけで旅行に行ったことはほとんどなかった。

 母は伯母と取り留めなく会話し、父は伯父と、私は庸一郎やその姉弟きょうだいと時間を潰しそれなりに賑やかな旅行になるのだが、3人だけの旅行は静かな時間が流れていた。


柚紀ゆずき伯母様がいないと静かね」

 部屋に用意されていた茶菓子を食べ、お茶をすすりながら呟いた。

「そうだな。いつもは姉妹でお喋りが止まらないからなあ」

「あら、喋っているのは姉さんばかりで私はいつも静かに聞き役よ」

 父の言葉に母が少し不満げな顔で返す。


「別にお喋りが悪いなんて言ってないよ。義兄にいさんと、よくそんなに話すことがあるもんだといつも感心してたんだ」

「お父様、そういうの皮肉って言うのよ」

 母は笑ってそうそうと私に同意した。

「あなたは無意識に皮肉を言うのよねえ」

「さて、今日は2対1でお父様は不利だから温泉にでも浸かってくるか」

 父はおどけたように言うとやれやれと呆れ混じりの笑顔で部屋を出て行った。


 しばらく沈黙が続いたが、そこに気まずさはなかった。

「お母様、庸一郎さんや柚紀ゆずき伯母様とは何かお話された?」

 母は穏やかな笑みを浮かべ、ええと頷いた。

「蘭子はまだまだ子供だから、あまり急がないで、ゆっくり進めて欲しいと伝えたわ」

「ごめんなさい」


「どうして謝るの?」

「お母様の望むような娘になれなくて」

「私があなたに何を望んでいると思う?」

「早く庸一郎さんと結婚すること」

「いいえ。姉さん達は急いでいるみたいだけど、私は全然」

 母はふふっと声を漏らして笑った。


「確かにあなた達が結婚してくれたら、何だかまたお父様と一緒になるような気がして、あなた達の間に子供ができればそれは隆太郎の生まれ変りのような気がして、そう望んだ時もあったけれど、今は違う。大切なのは蘭子が幸せになることよ。だから、あなたが庸一郎さんのことが嫌ならめてもいいとさえ思ってる」

 思いもかけない母の言葉に、私は言葉を失った。


 しばらく黙した後、ようやく口にした言葉は振るえていた。

「結婚しないなんて言ったら、お父様はがっかりするわね」

「そうね。蘭子の夫に相応ふさわしい男になるように、会社で庸一郎さんをしっかり仕込んでいるから」

 母の目から柔和な笑みが消え、真っすぐ私を見た。

「それでも、あなたは自由よ。あなたの幸せが一番。それだけは忘れないでね」

 私の頬に涙が流れた。

「お母様、ありがとう」

 母がどこか寂しさを残し、優しく笑った。

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