火 入 れ

 あれから、月に何度か屋敷に戻ると、女主人はぎこちない笑顔を私に見せるようになった。

 最初の頃は、その笑顔に私の背筋はゾクッと震え、身体が固まっていくような錯覚に陥っていた。

 何も考えず笑って無邪気に図々しく…

 サチから言われた言葉を頭の中でぐるぐる回転させて、私は母になろうとしている彼女に満面の笑みで応える。


 数か月も経つと彼女も私も全く動じることもなく、自然に母と娘を演じられるようになっていた。

「お母様、昨日学校でね、ちょっとしたイヤなことがあったの」

「まあ、誰かに意地悪されたの?」

「意地悪ってほどじゃないけど…」

「意地悪されたらすぐにお母様に言いなさい。一人でくよくよしてはだめよ」

 私に対して、自分のことを「お母様」と言うことで彼女が私の母になることを甘受していることがわかった。


 その年の12月、サチからクリスマスの準備をするから一緒に来るように言われた私は、最初は少し躊躇した。

 暖炉もクリスマスツリーも亡くなった隆太郎のものだと言われたことが頭に残っていた。

 しかし家に着くとすぐに、そんな戸惑いは杞憂だとわかる。

 食堂に入ると、バタバタと行き来する使用人たちと共に、母は率先して部屋の飾り付けにいそしんでいた。


「あら、お帰りなさい」

 母は穏やかな笑顔で迎えてくれ、

「皆さん、蘭子が来たから休憩してお茶にしましょう」と声を掛けた。

 優雅に紅茶の香りを楽しみ一口すすると、母は私を見て微笑んだ。

「サンタさんには何をお願いしたの?」

 私は一瞬、言葉に詰まり、戸惑いを笑顔で隠した。

 もうすっかりサンタクロース神話など崩れ去った、強いて言えばお母様、あなたによって崩れ去ってしまった私に、そんな的外れなことを楽し気に聞くのね。


「あのね、お料理ができるおもちゃのコンロがあるの…それが欲しいの」

 私は無邪気に図々しく答えてにっこり笑った。

「コンロ?」

「小さなフライパンで本当にホットケーキが焼けるのよ」

「まあ、そんなのがあるの。で、サンタさんにお手紙は書いたの?」

「お父様に言ったわ。何が欲しいか聞かれたから…」

「まあ、お父様に…」

 母の顔が少しだけ曇る。

「これからお手紙書くわ。間に合うといいけど」

 一瞬のうちに、屈託のない笑顔が母に戻る。

「大丈夫よ。間に合うわ。さ、ツリーの飾り付けしちゃいましょ。楽しいわよ」



 その年のクリスマス、私は屋敷に来て初めて暖炉に火が入る様を見た。


 暖炉を初めて見たのは絵本の中だった。何の絵本だったか忘れてしまったが、暖炉に灯る炎がその前でたたずむウサギ達の丸い背中を幸せに見せていた。

 本物の暖炉の前で、私もあの時のウサギ達と同じような気持ちになれるのかしらと期待にワクワクしながら暖炉の前に座る。


 ゆらゆらと赤や橙色、黄色の炎が優雅に揺らめく暖炉は暖かで安らかな空気をかもし出し、私の身体をすっぽりと包んでいるようだった。

 良い感情も悪い感情も全て消え去り心が空っぽになっているのに、豊かに満たされているような不思議な感覚で揺れる炎に見入っていた。


 暖炉の前でどれくらいたたずんでいただろうか、ふと我に返って後ろを振り向くと、父と母が目を潤ませている。

 反射的にごめんなさいと言って立ち上がろうとすると、母が私の傍らに腰を下ろした。

「隆太郎もね、暖炉の前に座ってずっと飽きることなく炎を眺めていたのよ…あなた達はやっぱり兄妹なのね」

 母は私の肩を抱き締め鼻をすすった。

 初めて感じる母の柔らかな温もりは優しい香りがした。



 毎年、年末から年始にかけては庸一郎の家族が屋敷を訪れ、そこに他の親戚や会社関係者が年始の挨拶に訪れ賑やかで忙しい正月三が日を迎える。

 今回は、母が私の母になることを受け入れてから初めての正月であり特別だった。それまでのように仲が良い母娘を装う必要はなく、自然に振舞えばよいのだから。もっとも、完全に自然体とはいかず、5割ほど母の顔色を伺うことがなくなった程度の変化でしかないのは子供ながらに理解していたが。


 マンションの自室で屋敷に戻る準備をしていると、るり子が現れた。

「今日、お帰りになるのは中止です」

「どうして?」

 るり子は目を泳がせる。

「あの…まだ準備ができてなくて…とにかく今日帰られるのは無理だとお伝えするようにサチさんから言われました」


 まさか母の機嫌が悪くなり、今日は顔を見たくないとでも言っているのだろうか。そんな不安を抱き「お母様が?」と言葉が出た。

 しかし、クリスマスツリーの足元で無邪気に図々しくプレゼントの包装をべりべり破く私を見る慈愛に満ちた目を思い出し、そんなはずはないと言い聞かせる。


 るり子は驚き言葉を失っている。

「どうしたの?」

「御存知なんですか、奥様のこと」

「お母様に何かあったの?」

 るり子がハッとして瞳を潤ませる。


「あの…蘭子様には言うなと言われてて…あの私…」

「私が無理矢理訊いたことにすればいいじゃない。何があったの」

「昨夜から奥様の具合が悪くて、高熱が出て寝てらっしゃるんです。蘭子様にうつってはダメだからっておっしゃって…」

 るり子はしくしくと泣き始める。


「るり子、アンタ泣き虫過ぎる。何か言われたら、私にひっぱたかれてさっさと言えっ!て脅されたって言えばいいじゃない」

 るり子は目を丸くして私を見た。

「帰るわよ」

 るり子が涙でテカテカの頬をゆがめて「ハイッ」と元気よく返事をした。



 屋敷に着くなり母の部屋へ行くと、入口でサチに止められた。

「まあ、るり子。なんで蘭子様を連れて帰ってくるの? そんな指示はしてないでしょ」

 サチがるり子を責めるように言うと、るり子が下を向いてまたしくしくと泣き出す。


「私が勝手に帰って来たの。るり子は悪くないから。そこどいてよ」

「ダメです。奥様からここには入れないようきつく言われてますから。さあ、食堂に行ってお茶でも飲んでマンションに戻ってください」

「嫌よ。せっかく荷物も持って帰ってきたのに」

 サチが深いため息をつき冷めた目で私を見据える。

「とにかく食堂に行ってください。そんな風に口を尖らせて睨んでも無駄ですよ。旦那様にも怒られますから」

 怒気をはらんだ低い声音に諦めて私はサチに背を向けた。


 食堂では打って変わってサチは優しい笑みを浮かべ、暖かいココアを私の前に置く。

「奥様のことが心配ですか?」

 サチの言葉の中に、ほんの半年ほど前には顔も見たくない相手だったのにその変わり身の早さを面白がっているようなニュアンスが感じ取れ私の頬が固まった。

「また、そんな怖い顔して…」


 呆れた笑みを浮かべるサチに、私は二、三度口角を上げ、ふうと息を吐いた。

「心配しちゃいけないの?」

「そんなことは申しておりません。奥様と仲が良いことは私たちにとっても喜ばしいことですから」

「サチは意地悪な笑い方をした」

「そんな風に見えたのなら謝ります。ごめんなさい。でも、逆ですよ。嬉しいんです。蘭子様が奥様を理解されるくらい大人になったんだなあと思って」

「まだ無邪気で図々しい子供よ」


 ぷいと不機嫌を装って立ち上がると暖炉の前に行って腰を下ろした。そこには楕円形のラグが敷かれ濃いピンクと薄いピンクのクッションが置かれていた。

「奥様がご用意されたんですよ。蘭子様のために。マンションのお部屋を水色でコーディネートされていたのを私が伝え忘れたんです。ここのお部屋と同じように奥様がピンクのものをお選びになって」

 私がサチを見上げると、サチが優しい笑顔でこくんと頷く。

「ピンクも好きだから余計なことは言わなくていいわ」


 私は暖炉に向きなおって揺らめく炎に目を落とした。

 サチが言うように、私は母を理解できるくらい大人になったんだろうか…

 そんなことを考えていた。

 不意に、その年の夏休み、父と訪れた別荘でのことが思い出された。

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