母 の 孤 独
別荘には父の母親、私にとっての祖母が暮らしていた。
足が悪く車椅子生活をしていたが、自分でハンドリムをこいで動いているからか弱々しさは感じられず、父に対してもずけずけとものを言う女性である。
父は一晩だけ泊まると、「たくさんお喋りしてもらうんだよ」と言って、早々に帰って行った。
それまで私のせいで気が休まることがなかった父にとっては、夏休みは私を祖母に預けて羽を伸ばせる貴重な時間だったのだろう。
「本当に蘭子は晋太郎によく似ているわね。どこに忘れて来ても届けてもらえるよ」
そう言って祖母は、ニコニコと穏やかに笑ったが、この老人とお喋りして退屈な夏休みを過ごすのだろうかと思うと、私は少し憂鬱になっていた。
そこに父と入れ替わるように父の三人の姉たちが現れた。
彼女たちとは、
彼女たちの出現によって、老人と静かに過ごすはずが、ガラリと様相が変わった。
「せっかく、避暑に来ても家政婦に夏休みを与えてたら、私たちが休まらないわ」
最初に、長女の
「ホントよ。実家に羽伸ばしに帰ると思われてるのにこれじゃあねえ」と次女の
「いつからこの別荘が実家になったのよ。まったくお母様も簡単に家を出るからあの女に乗っ取られるのよ。亡くなったお父様のお庭を潰してあんな趣味の悪い草の畑にして」
そのきっかけを待っていたかのように三女の
そこからは、気の毒なほどの母の悪口が祖母も入れた4人の女たちの口から
「お母様が
恨めし気に麗子が祖母を見ると、
「それは仕方ないわよ。諦めた頃に、やっと授かった男の子なんだから」と、長女の華子が祖母をかばう。
「だから嫁の尻に敷かれて情けない」
佳子が吐き捨てるように言う。
「
祖母は穏やかな口調だが、眉根を寄せて険のある表情を浮かべた。
「自分が甘やかし過ぎてひ弱な子に育てたんでしょうが。たった一人の男の子も育てられないで母親の資格なんてないのよ。晋太郎もさっさと追い出せばいいのに」
佳子の
三人と入れ替わるようにして帰って行った父の気持ちがわかるような気がした。
「隆太郎は本当に可哀相だった。生きていたらもう中学生だねえ。本当に可哀相…」
祖母が目頭を抑える。
「蘭子ちゃんがいるのに、あっちの
華子が言うと、
「隆太郎が死んで悲しんでる素振りの裏でそんなこと企んで厚かましい。腹黒い女!」と佳子がすかさず吐き捨てる。
「そう言えば、蘭子は近くのマンションに住んでるんですって?」
祖母が思い出したように私に問いかけた。
「あら、蘭子ちゃんまで追い出されたの?」
華子が驚いたように私を見ると、麗子と佳子も「何よ、それ!」「信じられないわ!」と声を荒げる。
「違う。追い出されてない」
思わず口を
「学校とか習い事の教室が近いしお父様の会社からも近いから…学校や習い事に慣れたら家に戻るつもり…だから追い出されてない」
私は、思いつく限りの言葉を並べると、口をつぐんだ。
「クッキー焼こうか。蘭子ちゃんと一緒に作ろうと思って色々材料持ってきたから」
佳子がさっきまでの憎々し気な顔から一転人懐っこい笑顔を見せて唐突に言うと、クッキーの色々な型抜きをカバンから出した。
「探したらまだあったのよ。処分する前に蘭子ちゃんと一緒に作ろうと思って」
「あら、すぐに孫ができてまた必要になるわよ」と華子が笑うと、そうそうと祖母と麗子が同調して笑った。
もしサチが、私が大人になったと感じたとしたら、あの夏休みの数日間があったからだろう。
広い屋敷で好き勝手に生活し、使用人たちや彼女の家族からも大事にされ守られているとばかり思っていた母が、父の家族からは散々悪く言われ嫌われていた。
大人たちの複雑な人間模様に決して
「マンションに戻ってください」
サチが放心したように暖炉の前で
「隆太郎坊ちゃまの時も高い熱が出て
「私は大丈夫よ。お母様のお部屋とは離れてるし平気よ」
私はサチから目を背け黙り込んだ。
サチは大げさにため息を吐いて食堂から出て行った。
その日の夜半過ぎ、母が苦しそうにあえぐ姿が夢に出て来て私は目が覚めた。
そっと部屋を出て亡くなった隆太郎の部屋に向かう。そこは勝手に入って母から酷く怒られたあの日と、何も変わっていなかった。
10歳で時の止まった隆太郎の写真に向かって手を合わせる。
「あなたの大切なお母様を守って……お兄様」
そう言葉にして初めて涙がこぼれた。
ここに確かに私の兄が生きて生活していた。父や母にとって、輝く太陽のように希望に満ち溢れていたに違いない。
兄の無念、父と母の絶望を感じて泣いた。
私はポールハンガーに掛けられた制服を手に取り母の部屋に向かった。
母の部屋に入るのは、この屋敷に初めて来た日以来、二度目である。
扉に手を掛けると、あの日、訪問を拒んでいるように重々しく見えた扉が思いのほか軽く開いた。
母はベッドの上で眠っていた。
私は兄の制服をそっと母の胸に掛けた。
「蘭子…蘭子なの?」
うっすらと目を開けた母がブランケットを引き上げ口を覆う。
「ごめんなさい。起こしてしまって…」
母の細い腕が伸び私の手を握った。
「私、あなたのことを元気に育てられるかしら。か弱い子にさせてしまわないかしら」
母の目に涙が浮かんでいた。
「大丈夫よ。お母様、私は死なないから。絶対に死なないわ」
母はうっすら笑みを浮かべ再び目を閉じた。
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