母 の 日

 車から窓の外を眺めていると、幼い子供たちは皆、母親らしき女性に手を引かれている。

 子供も母親も笑顔で楽し気に話しながら、車の中にいる私に「私たち幸せよ」と言っているようにすら感じる。


「奥様はお寂しいでしょうに…」

 ふいにサチが言った言葉がよみがえる。

 朝起きると父がすでにダイニングにいて新聞を読んでいる。ほぼ毎日、一緒に朝食を食べ、休みの日にはホテルの庭園レストランへと向かう。

 夜中に目が覚め、急に不安になって父の寝室を覗きに行くと、すやすやと寝息をたて寝ている。

 このマンションに来てから父を見ない日はほぼなかった。


 ふと、息子を亡くした絶望と悲しみが癒えない中、夫は帰ってこなくなり、広い屋敷で独り残されている女主人の痩せた後ろ姿が頭に浮かんだ。

 同時にいつも朝食を食べるガーデンホテルが目に入る。


「止めてちょうだい。ホテルに寄りたいから」

 運転手の永井に声をかけた。

「どうしました? 何か御用でも?」

「お花を買いたいの」

「わかりました」

 永井はホテルの入り口に車を止めると、

「迷子になっては大変ですから私もお供しますね」と言って付いて来た。

「迷子になんてならないわ」


 私は真っすぐホテル内のフラワーショップに向かうとカーネーションを一本買い、以前、父に財布を買ってもらったショップに立ち寄り花柄のハンカチを買った。

「今から家に寄る時間ある? これを渡してすぐに戻るから車で待ってて欲しいの」

 永井は嬉しそうに相好を崩した。

「お屋敷に寄っても水泳教室には十分間に合いますよ」

 永井が張り切った様子でいつもより急いで車を走らせているのは少し滑稽だった。



 誰とも顔を合わせることなく玄関に入り、食堂へ向かう途中にある私の部屋へと入った。

 そこは出て行った時と何も変わらないままだったが、まだ2か月も経っていないというのに、ずいぶん長い間放置され時が止まっていたような古い空気が立ち込めている気がした。


 突然、窓の外から笑い声が聞こえてくる。

 カーテンを少し開けると、明るい芝生の上に庸一郎がゴルフクラブを振っている姿が見える。


「身体の中心を軸にして腰を回すんだよ。もう一度やってごらん」

 庸一郎から少し離れて父が立っていた。

「叔父さん。簡単に言うけど難しいよ」

「誰だって最初からできないわ。もう一度やってごらんなさい」

 女主人の上機嫌な声が響く。


 私は急いで部屋を出て永井が待っている車へと走った。

 誰にも見つからないうちにここを離れなければならない。

 そんな気持ちが私を全速力で走らせた。


 息を切らせて車に乗り込むと「すぐに出して」と永井に言葉を投げる。

「大丈夫ですよ、まだ十分間に…」

「早く!」

 永井の言葉を遮って叫んでいた。

「プレゼントは渡せましたか? 奥様はお喜びだったでしょう」

 永井が気を遣って声を掛けてくれたが私は無言を通した。


「奥様はお寂しいでしょうに…」

 サチの言葉を反芻はんすうし、サチの嘘つきと声にならない声で呟いた。

 永井は気まぐれで我ままな私の行動に呆れただろう。誰に何と思われようとも平気だった。みんな女主人の味方なのだから。

 私は言い知れない孤独と絶望に襲われていた。



 水泳教室から戻ると父がダイニングで待っていた。

「今日は家に帰って来たんだってね。お母様が素敵なプレゼントを喜んでたよ。庸一郎くんもカーネーションを持って来てね。声を掛けてくれればよかったのにと言ってたよ」

 お父様の嘘つき…あの人が喜ぶなんて嘘よ…

 そんな言葉を飲み込んだ。

「だって急いでたから…水泳教室に遅れそうだったの…」

 父は、そうかと頷いて鷹揚に微笑んだ。


「今度、4人でご飯でも食べようと話してたんだ。蘭子の習い事がお休みの日にでもね」

 庸一郎さんと三人だけのほうがいいよ。今日も楽しそうだった…まるで本当の親子みたいに…

「うん。晴れた日にテラスでお食事したい!

 みんなで庭園レストランにも行きたい!」

 私は無邪気を装って満面の笑顔を作った。

 父は、それはいいねと頷き満足したように破顔した。


「どうして黙って帰られたんですか。一言の声もかけずに」

 その夜、自室で寝支度を調えている時、サチは微笑むこともなく呆れたような、諦めたような複雑な表情で私に言った。

「今日はあっちに帰らなくていいの?」

 平然と話題を変える私を見て、サチは浅くため息を吐いた。

「明日はお休みをもらってますから…今はお仕事の時間外です」

「ふうん…じゃあ、明日はるり子が来るのね」


「お部屋からお庭の皆さんの楽しそうな様子を見て、勝手に独りぼっちになって悲しくなって帰ってしまったんでしょう?」

 サチが何もかもお見通しと言う目で真っすぐ私を見る。

 私は思わず視線を逸らして唇を噛んだ。


「私、お友達として言います。あなたはまだ子供です。ひねくれて意地を張るような大人とは違う。無邪気に笑って遠慮なんかしないで図々しくあの方たちの中に入って行けばいいんです。それが許されるのは今のうちだけですよ」

 今のうち…と、口の中で呟いて、サチを見た。

「無邪気に図々しいのはいつまで許されるの?」


 サチがニヤリと唇をゆがませる。

「そうですね。周りの顔色なんか見ないで闇雲に図々しく振舞えるのはあと3年くらいかしら」

「じゃあ、小学校4年になったらどうすればいいの?」

「それから後は、大人の顔色をチラッとうかがいながら、無邪気な図々しさをご自分でコントロールするんです」

「コントロール?」

「そう、うまく使いこなすんです」


 私はよく理解できない、戸惑ったような顔をしていたのかも知れない。

 そんな私を見てサチは、ふふと声を漏らして笑った。

「大丈夫ですよ。蘭子様、すでにやってらっしゃるから。とにかく今は、何も考えず笑って無邪気にズケズケと入っていくことをしないと」


「私…あの家に帰ったほうがいいの?」

「いいえ、少し離れたほうが奥様にとってもいいような気がします。離れているからですかね。奥様は私に蘭子様のことをよくお尋ねになるから」

「お父様はあっち行ったりこっち来たり大変ね」

「まあ、旦那様にはそれくらいの苦労はしていただかないとね」

 サチがいたずらな目をして笑った。


「あ、忘れてた。これあげる」

 私はホテルでサチのために買ったハンカチを取り出した。

 サチは目を丸くして驚いていたが、その目が潤み始める。

「もう蘭子様ったら、驚かせないで下さい…私なんかにこんな…」

「いつもありがとう。これからもよろしくね」

 私は唇の端を思いきり上げて無邪気にサチに抱きついた。

「ほら、蘭子様はもうとてもうまく使いこなしてらっしゃる」

 サチの両腕が私の背中に回されぎゅっと優しく私を抱き締めた。

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