新 し い 生 活

 あの日、父と女主人の間でどんな話し合いが持たれたのか、あるいは話し合いをするまでもなかったのか、日を置かず私は家を出て、屋敷からほど近くのマンションで生活することになった。


 そこはもともと父が仕事用と称して使っていたらしいが、私の部屋として用意されたゲストルームの毛足の長い絨毯から小さな金のイヤリングが出てきたところを見ると、仕事ばかりではなかったようだ。


「お父様、お部屋に落ちてた」

 私がイヤリングを渡すと、父は悪びれる様子もなくありがとうと言って受け取る。

「以前、お仕事で遅くなってここに泊めた会社の人が忘れて行ったのかな」と、悠然と微笑む。


「小学生になったのだから、自分の部屋の模様替えは自分で自由に考えなさい。サチに相談に乗ってもらうといいし、お店に行けば専門家がいるから色々訊くといい」

 そんな風に自立を促しながら与えられた部屋は、屋敷の部屋よりも随分と狭かったが、私には夜もぐっすり眠れそうな快適な大きさだった。



「奥様はお寂しいでしょうに…」

 サチが私の衣類をクローゼットにしまいながら独り言のようにぽつんと呟く。

「蘭子様がいらっしゃってからは旦那様、どんなに遅くなっても毎日お屋敷にお帰りになってたんですよ。それまではほとんどこちらのマンションで過ごされていたのに。また、逆戻りで残念です」

 サチの落胆した横顔を見ていると、ふと疑問が湧いた。


「サチはお母様が好きなの?」

 サチは驚いたように私の顔を見る。多分、私は不満げな表情をしていたのだろう。

「奥様も蘭子様も大好きですよ」

 そう言って笑顔を見せると遠い目をして宙を見つめる。


「本当に仲が良いご家族だったんですよ。坊ちゃまが亡くなるまでは本当に…蘭子様とも仲良くなってまた素敵なご家族になることを私たちも願っていたけれど、なかなか難しい」

 サチが小さく首を横に振った。

「奥様は蘭子様のお部屋もそのままにしておくように言われたんですよ。帰ってきた時、お部屋がないと困るからって。奥様も蘭子様のことを大事に思ってらっしゃる。隆太郎様と血の繋がった妹ですもの。でも心がなかなか追い付かない。だから苦しい」

 サチが悲しい笑みを浮かべ私を見た。

「奥様を許してあげてくださいね」


 あの屋敷でサチは数少ない私の味方だと思っていた。

 女主人から大事に思われているなどと感じたこともなく、どんな思いで日々苦悩しているかなど当時の私には想像もできなかった。

 息子を失った可哀相な女主人を皆で守っている。私を守るはずのサチまでも。


 クローゼットを片付けている手を止め、サチがベッドに腰掛ける私の横に座った。

「どうして泣いているの? 私、何か悲しませるようなことを言いました?」

 サチに言われて初めて、自分の目から涙が流れていることを知った。


「私のことは守ってくれないの? サチはお母様のほうが大事なの?」

 サチは両手で私を抱き寄せた。

「大事です。奥様も蘭子様もどちらも大事。大切にお守りします。どんなことがあっても」

 サチの胸は柔らかで、忘れていた母の温もりとはこんな風だっただろうかと思いながら私はサチに身を任せて泣いた。



 マンションでの生活は楽しかった。

 朝は父と共に朝食を食べ、父の車で学校に通う。夜は、一旦帰宅した父が夕食を共にしてくれることもあれば、父が雇った家庭教師が付き合ってくれることもあった。

 忙しい日々を送らせれば寂しさも紛れると考えたのだろうか、父はバイオリンやピアノ、絵画、英会話、書道、水泳等、様々な習い事や家庭教師を用意した。


 ある日、習った英語の歌を歌いながら夕食の席に着くと、サチが笑いながら「今日もご機嫌ですね」と声を掛けてきた。

「イエス、アイ、アム」

 私は上機嫌で習いたての英語で答えた。

 いつものように学校であったことを話そうと、せわしなくキッチンとダイニングを行き来しているサチが落ち着くのを待っていた。


「じゃあ、私はお屋敷に戻りますね。後のことはるり子に言ってありますから何でもお申し付け下さい」

 それだけ言い残し、そそくさと戻って行った。

 少し緊張した面持ちで棒立ちしているるり子は、桜を見る会で私にハサミを渡してくれた女である。

 あの日、責任を感じて辞めるというのをサチが止めたのだ。


「可哀相に、高校卒業してすぐここに来たのに責任を取って辞めるって言ってるんですよ。何も悪いことはしてないのに…」

 サチはそう言ってしばらく私の答えを待っているようだったが、何も返さないでいると諦めたように小さなため息をつく。

「とても素直な良い子なのに…使用人の中では蘭子様に一番歳が近いのだから、これから色々な相談にだって乗ってもらえるのに残念だわ」


「私がるり子に辞めないでって言えばいいの?」

 ぶっきらぼうに言うと、サチが笑みを浮かべ、すぐにるり子を呼んできた。

 泣きはらした顔を下に向けて現れたるり子は、チラッと私の首から腕に掛かった三角巾に目をやると再び顔を崩して泣き始めた。


「あなたは悪くない。泣かなくていいし、辞めなくていいよ…」

 私はサチを見たが、サチは無言のままである。

「るり子のせいじゃないし、辞めなくていい…」

 それ以上、何も言うことはないとサチに目で訴えたが、サチは黙って視線を合わさない。


「…お父様のために花を摘みたいと言ってハサミをもらったのは私だし、取ってはダメと言われた花壇の花を切ったのは私…るり子は悪くない…」

 サチが一瞬視線を私に向けるが、表情は硬いままである。

 仕方なくつぐんだ口を再び開いた。

「…えっと……ごめんなさい」

「ほら、蘭子様もそう言ってるし、もうしばらく頑張ってみましょう」

 そう言うと、サチがようやく私に笑顔を向けた。



 あれ以来、サチはマンションに来る時はるり子を伴い、あれこれと教えていた。

 サチなら自然に会話を始めてくれるのに、るり子は相変わらず突っ立ったまま俯いている。

 その陰気な沈黙に食べているものが詰まりそうになって私は一息ついて言葉をかけた。


「るり子はお休みの日は何するの?」

「お休み…今度の日曜は母にプレゼントを買います。母の日だから…」

 そこまで言って、ハッとして顔を強張らせてまた下を向く。

「お母様に何を買うの?」

 私は全く気にしていないことをアピールするように、食べるのを止めず平然と訊く。


「ハンカチと赤いカーネーションを買おうと思います」

「ハンカチ…そんなもの…」

「気楽に使えるし、何枚あっても困らないでしょう。それに、そんなにお金もらってないから…」

 そう言うと、またハッとして顔をゆがめた。


 思わず吹き出すと、るり子はようやく顔を上げ私を見て笑顔になった。

「ごめんなさい…旦那様には言わないで下さいね。すみません」

 るり子はペロッと舌を出して笑った。

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