愛 す べ き 人
夜は嫌いだった。
就寝前の歯磨きを終え、私が布団にもぐり込むのを確認してサチは部屋の電気を消して出て行く。きっと働き者のサチは布団に入ると同時に眠ってしまうほど寝つきがいいのかもしれない。
私はサチが出て行ってから
その大き過ぎる空間が背筋にゾクッと寒気を誘う。
私は、ブランケットを引き抜いて身にまとい、窓際のテーブルの下へともぐり込む。
「怖くない…怖く…ないもん…」
そう繰り返し呟きながら、ブランケットを頭からかぶって目を閉じた。
そのままぐっすり寝込んだとしても、朝になるとベッドの上で眠っているのは、きっとサチが夜中に私を運んでくれているからだろうと思っていた。
その夜、私はテーブルの下から抱き上げられた時、ぼんやりと目が覚めた。一旦は目をうっすら開けるが意に反して重い瞼が落ちてくる。必死に
そして、私を抱く黒い影がベッドの足元にある柔らかいオレンジの光に照らし出され、表れたのは父の顔だった。
私をベッドに運んでいたのは、サチではなく父だった。
父は私を静かに寝かせると自分も私の傍らに添い寝した。
父は私を優しく抱きしめる。その胸の鼓動が私の身体に優しく響き温かな幸せの中で再び眠りに落ちようとした時、その身体が少し震えていることに気付いた。
しばらくすると、
言葉にはならない、うなるような音。
その口から絞り出されるように私の耳元に弱々しく届いた名前。
「隆太郎…隆太郎…」
父は泣いていた。
私にとって、父は強大な力を持つ最高権力者だった。この家の女どもにどれだけ嫌われ
そんな感覚でいつも頼もしく見上げていたのに、およそ泣くという行為とは無縁であるはずの父が私を抱き締め泣いている。
その衝撃はおぼろげな意識を少しだけハッキリとさせた。
私を愛し守ってくれる存在であった父を、私が守ってあげたいと思ったのだろう、私は父の背中に精一杯腕をまわし抱き締めた。抱き締めるというよりしがみ付いたと言うほうが正しいかも知れない。しかし、その時の私は、泣いている父を本当に守りたいと思っていた。
幼い私が父を守るなどできるはずもなく、全くおかしな話だ。
翌朝、目覚めた時は隣に父の姿はなく、私の腕と手に父にしがみ付いた感覚だけが残っていた。
「あら、泣いたの?」
蒸しタオルを手にしたサチが私の顔を間近でしげしげと見つめる。
「泣いてない」
「だって涙の後があるわ…痛かったもんね」
サチは勝手に前日叩かれた頬の痛みのせいだと勘違いして、タオルで優しく顔を拭いてくれた。
「おはよう!」と聞き慣れた声がした。
「まあ…蘭子様ったら」
サチが目を見開いて大げさに驚いた顔になる。
「どうしたサチ? 蘭子に何か?」
「今までお口がへの字に曲がってましたのに、旦那様のお顔を見るなり陽を浴びたひまわりみたいに輝く笑顔になって」
父は当然だろと言って豪快に笑った。
その強くたくましい笑顔は、昨夜のことはきっと夢だったのだろうと思わせるのに十分な安堵感を私に与えた。
父のこんな笑顔をいつまでも絶やしたくない。そのためなら何でもしよう。そんな風に思い始めたのもこの時からかも知れない。
父はベッドテーブルに並べられた私の朝食に目をやった。
「今日はお父様は一人で朝ごはんだな。ゆっくり食べるんだよ」
柔和な笑顔は私の胸を熱くさせた。
私はベッドから飛び出すと、頬のシップをべりべりとはがした。
「蘭子も行く」と声を張ると、父とサチが顔を見合わせ声を出して笑っている。
「蘭子様、まずはお着換えしましょ。旦那様には少し待っていただいて」
「パジャマでは庭園レストランには入れないぞ…いや、蘭子姫ならどんな格好でも入れるな」
私は大きくうなずき「入れる」と言って父のもとに駆け寄った。
「蘭子様ならパジャマでも入れますけど、やっぱりお洋服を着て可愛くしましょう。旦那様のご令嬢としてふさわしいお洋服をね」
「ふさわしい」という言葉は、幼い私には初めて耳にする言葉だった。だが、その意味はほぼ言葉通りに理解していたように思う。
いつしか「父にふさわしい娘になる」というフレーズで刻み込まれ、「父を笑顔にする、父を幸せにする娘になろう」と思うようになる。
サチが何着か洋服を出してきた。
私は父の頭の上から足元まで見て、ネクタイの色に似た
父が満足そうに微笑んだ。
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