兄 の 影
屋敷の面積が広いということは便利なことである。
女主人にとっては夫が勝手に連れてきた妾の子供は目障りでしかなく、広い屋敷が見たくないものを見ないで済むよう配慮していた。
妾の娘にとっても、嫌われているとわかっている相手に会わずに過ごせることは好都合なことである。
もっとも、屋敷がその役割を果たすためには使用人たちの細やかな努力を必要としていたが。
そして、幼い少女の溢れる好奇心も彼らの予定を狂わせる。
ある日、サチが今日は部屋から出ないようにと言った。出るなと言われれば出たくなるのが心理である。
私は迷わず部屋を出て、暖炉の部屋へと向かった。
扉をそっと開けると聞き覚えのない声が聞こえた。
「随分、面倒な生活だねえ。この家を出てどこかいいマンションにでも住んだらいいのに」
「なんで私が出てくのよ。隆太郎との思い出が詰まってるのに。絶対出て行かないし、誰にも渡さないわよ」
女主人の腹立たし気な声が応じる。
「
「勝手なこと言わないでよ。私の気も知らないで…ママは私の立場に立ってないからわからないのよ」
しばらく沈黙が続いた後、コツコツと靴音が聞こえた。その靴音が止まった瞬間、勢いよく扉が開かれ、私の前に女主人が立ちはだかった。
私を見下ろす彼女の顔にいつもの怒りはなく、ただ侮蔑に満ちた冷徹な目で見下ろしている。
「申し訳ございません。奥様」
サチが慌てて私を女主人からかばうようにして連れて行こうとする。
「あら、構いませんよ」
見知らぬ女が私の目の前にぬっと顔を出し、ニコニコと笑っている。
「初めまして。私はねえ、あなたの新しいママのママ、蘭子ちゃんのお婆ちゃんよ」
「おかあ…」
そこまで口にして女主人を見上げた。彼女はふっと視線を逸らし小さく息を漏らす。
「…た…ま…おばあ…」
私が消え入りそうな声で続ける。
「そうよ。お母様の母親、蘭子ちゃんのお婆様です」
彼女は上機嫌で馴れ馴れしく私の手を取ると、「美味しいお菓子があるから食べましょう」と言って部屋へ招き入れようとした。
再び、女主人を見上げるとその感情の消えた冷たい目が私を捉えていた。
私は女の手を振り払ってその場から走って逃げた。
背後で「申し訳ございません」と言うサチの声が聞こえる。
「可愛げのない子だねえ」
女の呆れたような声と、呼応するように低い笑い声が私の背中を襲う。
部屋に戻ると、すぐ後ろに私を追いかけてきたサチがいた。
「部屋から出ないで下さいって言ったでしょ。奥様を不機嫌にすると後が大変なのよ…」
私は窓際のテーブルを挟んで向かい合って置かれている椅子に腰掛け、何事もなかったように窓の外に視線を落とし、サチとは目を合わせない。
「全く涼しい顔しちゃって…ああ見えて奥様だって少しずつ蘭子様のお母様になろうとなさってるのに…」
「いらない」
私はサチを睨みつけて言葉を発していた。
「おとうたまだけでいい!」
サチはクリクリと目を丸くして言葉を飲み込む。
「蘭子もおやつ」
しばらく言葉を失っていたサチに言い放つと、サチの唇がゆっくりとほころんだ。
「心配する必要なかった。蘭子様はしばらくの間にすっかりこの家のお嬢様になられて…」
サチが目を細めて笑う。
「そうやって口をへの字に曲げて睨みつけるお顔も奥様に負けてない…」
「早くおやつ!」
私がサチの言葉を遮ると、サチは再び目を丸くして、「今、お持ちしますね」と言うと、軽くため息を吐き出て行った。
それから程なく、
祭壇の最前列に父、女主人、私の順に並んで座っている姿は、見ず知らずの人には普通の親子に見えたかもしれない。だが、事情を知る人々の目はどれもむき出しの好奇に満ちて、あからさまに覗き見ているような不躾なものだった。
焼香に立った時、女主人の手が軽く私の背中に当てられた。焼香台の前で戸惑う私の肩に手をやり、無言で自分と同じようにやるようちらっと横目で見る。
私は彼女がしたように抹香をつまみパラパラと落とした。
見上げると、女主人が口の端を少し上げて小さく頷いた。
その一連の私に対する女主人の行為が決して私を娘と認めたわけではなく、その場に集まった親族一同が凝視している中で、彼らに向けた彼女自身のパフォーマンスでしかないことを私は理解していた。
会食では、女主人を褒めたたえる言葉も飛び交い、父は苦笑いして応じていたが、あれも父なりのパフォーマンスだったのだろう。
法要は、親類縁者に向けて、父親と母親、その娘の私を入れた三人家族のお披露目の場になっていた。
そして、そこで庸一郎と初めて会った。
「庸一郎君。しばらく会わない間に大きくなったなあ。もう少しで叔父さんの背も抜かれるな」
そう声を掛けた父の笑顔は私に見せるそれとはまるで違っていた。
「中学1年になりました。
「そんなことが言えるなんて、立派になったわねえ」
女主人が眩しそうに潤んだ目を
「まだまだ子供よ。隆太郎君のほうが昔からもっとしっかりしてたから、庸一郎よりも立派になってたでしょうね」
「やだ、姉さん、そんなこと言わないでよ」
女主人がハンカチを目に当て言葉を詰まらせていると、父が黙って彼女の肩に手をやり優しくさする。その父の瞳も潤んでいた。
「そんなめそめそしてたら、隆太郎が心配して成仏できないよ。笑顔、笑顔」
「お婆ちゃん、そんな無茶なこと言ったら晋太郎叔父さんも
「あら、私も孫に説教されるようになったらお迎えがそろそろかしら」
「お婆ちゃん、そんなこと言ったら隆太郎が心配して成仏できないから」
祖母と孫の会話はその場の人々を和ませ笑顔にさせた。
父と彼に肩を抱かれた女主人は、死んだ隆太郎の影を求めるように眩しそうに庸一郎を見つめる。
そこに私の入る余地など微塵もない。
どんなに無邪気に「おとうたま」と言って父に飛びついたとしても、邪魔をするなと言わんばかりに払いのけられたに違いない。
随分、後になって「子は
愛する息子を亡くした絶望の中、同じ歳の庸一郎を通して二人の心の中で亡くなった息子を成長させていくのだろうか。そして、その一点で二人が固くつながっているように見えた。
ふと妾の娘という言葉が頭に浮かんだ。
私はぽつんと独り、切ない笑顔で語り合う彼らの様子をぼんやり眺めていた。
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